第7章 新しいつながりと私の選択④
7.3 カミングアウト
7.3.1 恋の悩み
天神堂書店の夕暮れ時は、慌ただしさと落ち着きが入り混じる時間だ。
学校帰りの学生や仕事を終えた会社員が店内を行き交い、雑誌コーナーやベストセラーの棚の前には人だかりができる。
一方で、静かに本を探す常連客の姿もあり、適度な喧騒が心地よく感じられる時間帯でもあった。
レジ打ちを終えてふと顔を上げると、カウンターの向こう側で華恋ちゃんがじっとこちらを見つめていた。
大きな瞳がどこか不安げに揺れている。
「陽菜さん……ちょっと、お話してもいいですか?」
そう言った華恋ちゃんの声は、いつもより少し弱々しかった。
ちょうどレジも落ち着いていたので、私は頷いて店内の端にある休憩スペースへ向かった。
簡易的な椅子とテーブルが置かれたその場所は、バイト仲間がちょっとした相談をするときに使うことも多い。
華恋は私の正面に座ると、しばらく言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから小さく息を吸った。
「私……変なんです」
伏し目がちにそう呟く彼女を見て、私は少し驚いた。
「変って、何が?」
「……好きな人のことです」
華恋ちゃんは指先をテーブルの上で揃え、まるで何かを確かめるようにじっと見つめていた。
そして、意を決したように口を開く。
「私、女なのに、女の人を好きかもしれないんですけど……変ですよね?」
静かに問いかける声には、迷いと不安が滲んでいた。
私は一瞬、どう答えればいいのか迷った。
こういう相談をされたことがまったくなかったわけではない。
高校時代、友人から「女の子を好きになったことがあるかも」と打ち明けられたことはあったし、大学に入ってからもLGBTQ+についての話題が出ることはあった。
でも、今の華恋の表情を見ていると、言葉の選び方ひとつで彼女の気持ちを大きく揺るがせてしまうような気がした。
「変じゃないよ」
だから、まずはそう伝えた。
華恋は私の顔をじっと見つめたまま、何かを待つように沈黙する。
「好きな人が誰かとか、どういう気持ちなのかって、自分でどうしようもないことだと思うし……男とか女とかっていうのも、結局はあとからついてくるものじゃないかな」
できるだけゆっくり、優しく言葉を紡いだ。
華恋ちゃんは少し考え込んで、それからぽつりと呟く。
「……普通って、何なんでしょうね」
その言葉に、私は自分の胸の奥がざわつくのを感じた。
“普通”。
それは私が何度も向き合ってきた言葉だった。
私はトランスジェンダーとして生きる中で、“普通”に縛られたり、逆にそれを手放したりしながらここまで来た。
「普通じゃない」という不安。
「普通でいたい」と願った日々。
「普通でなくてもいい」と思えた瞬間。
そのすべてが、今の私を作っている。
だからこそ、今ここで華恋ちゃんに何を伝えるべきなのか、私は迷った。
“私はトランスジェンダーなんだよ”
それを言うことで、華恋の気持ちはどう変わるのだろう。
今の彼女はただでさえ自分の感情に戸惑っている。
そんなときに私の話をすることで、彼女の不安を余計に増やしてしまうかもしれない。
でも――
(伝えるなら、今しかないかもしれない)
そう思った。
外の空が、ゆっくりと茜色から群青へと変わっていく。
書店の窓から見えるその景色をぼんやりと眺めながら、私は意を決した。
「華恋ちゃん……」
小さく彼女の名前を呼んだその瞬間、心臓の鼓動がひときわ大きくなった気がした。
7.3.2カミングアウト
さっきの華恋の言葉が、まだ胸の中で響いている。
——「女なのに、女の人を好きになったかもしれない。」
勇気を振り絞って口にしたのだろう。
その不安そうな表情を見て、私はかつての自分を思い出した。
(私も、最初は怖かったな……)
自分の気持ちが何なのか分からなかったあの頃。
人と違うかもしれないと思ったときの孤独。
誰かに言えば、拒絶されるかもしれないという恐れ。
——そして、今。
目の前には、自分と同じように戸惑いながら、それでも真剣に悩んでいる華恋がいる。
話すべきだ。
今なら、きっと言える。
陽菜は迷いながらも、意を決して口を開いた。
「華恋ちゃん。私、実は……」
言葉を飲み込んでしまいそうになる喉を、そっと手で押さえる。
でも、言わなきゃ。
「私ね、実は生まれたときの性別は男だったの。でも、私はずっと女の子として生きたいと思ってきたし、今もそう思ってる。」
静寂が降りる。
目の前の華恋ちゃんは、一瞬きょとんとした表情になった。
それから、ゆっくりとまばたきをして、信じられないように小さな声を漏らす。
「え、でも……陽菜さん、女の人じゃ……。髪も長くてきれいだし……胸だって……」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
ホルモン治療を始めて4年。
女性として生きることを選び、努力してきた。
その積み重ねが、「女性として見えている」ということにつながっているのなら、それはとても嬉しいことだった。
「ありがとう。でも、私が今こうやって女性として見えてるのは、ずっとそのために頑張ってきたからなんだ。」
華恋はまだ驚いた様子で、ぎゅっとエプロンの裾を握る。
「でも……私、知らなかった。」
小さな声で、そう呟く。
「このお店では、店長にしか言ってなかったから……」
店長の梅田さんが自分を受け入れ、他の店員には伏せておくよう配慮してくれたことを思い出す。
「でもね、華恋ちゃんにはいつかは伝えなきゃって思ってた。」
華恋ちゃんはゆっくりと視線を落とし、それからまた私の顔を見た。
驚きはまだ残っている。でも、その瞳には拒絶の色はない。
沈黙がしばらく続いた。
そして——。
「私は……性別とか関係なく、陽菜さんのことを好きになったのかもしれないです。」
ぽつりと、だけどしっかりとした声だった。
華恋ちゃんの顔はほんのりと赤くなっている。
私は、一瞬息を呑んだ。
——好き。
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「……そっか。」
ゆっくりと微笑んだ。
きっと華恋ちゃんも、これからたくさん悩むだろう。
自分の気持ちを整理するのには時間がかかるかもしれない。
でも、性別や恋愛の枠にとらわれずに、自分らしく生きていくこと。
それがどんなに大切なことか、私はよく知っている。
「大丈夫だよ、華恋ちゃん。きっと、少しずつ分かっていける。」
その言葉に、華恋ちゃんはこくりとうなずいた。
二人の間に流れる空気は、さっきまでと少し違っていた。
互いの秘密を打ち明け、心の奥の気持ちを知ることができたから。
——きっと、これからも。
私たちは、心地よい喧騒の店内に戻っていった。
7.3.3 「年末の帰省」
久しぶりに家族三人が揃う年末。
例年なら年末年始はどこかそわそわする時期だけど、2020年の冬は少し様子が違う。
コロナ禍で人の移動が制限され、帰省するかどうかも迷う人が多かった。
でも、お姉ちゃんは仕事納めを終えて、久しぶりに今日、この家に帰ってくる。
「陽菜、手伝ってくれ」
台所からお父さんの低い声が聞こえて、私はリビングから立ち上がった。
「はーい、何するの?」
「大根おろし。年越しそば用だ」
お父さんはそう言いながら、年季の入ったおろし器を流し台に置いた。
小さな頃から変わらない冬の風景。
私はいつものレモンイエローのエプロンをつけて、大根を手に取る。
「お姉ちゃん、もうすぐ着くみたい!」
「そうか」
父が答える。私は大根をおろしながら、久しぶりに会うお姉ちゃんの顔を思い浮かべた。
夕方、玄関のチャイムが鳴る。
「ただいまー!」
「おかえり、お姉ちゃん」
私は駆け寄ると、お姉ちゃんは「久しぶり!」と笑いながら私を抱きしめた。
「陽菜、なんかまた可愛くなった?」
「もう、やめてよ」
「褒めてるんだからいいじゃん」
お姉ちゃんは軽く笑って、マスクを外し、コートを脱いだ。お父さんが黙って荷物を受け取りながら、「まあ座れ」と促す。
三人でこたつに入ると、久しぶりに会話が弾んだ。
「仕事はどう?」
「うん、大変だけど楽しいよ。最近はリモートワークも増えてきてさ、家でやることも多いけど」
「そっか。忙しそうだね」
「まあね。でも陽菜も大学楽しんでるんでしょ? アルバイトも順調?」
「コロナで前とはいろいろ変わってたから最初は戸惑ったけど、もう慣れたよ」
お姉ちゃんは「どこもいろいろ大変だね」と微笑んで、こたつの上のミカンを取った。
「大学の友達とはどう? ちゃんとできてる?」
「うん、仲いい子もいるよ。高校のときの友達も同じ大学にいるし、新しい友達もできたし」
「いいね。楽しいなら何より」
そんな風に、たわいない会話が続いた。
***
夕飯を終え、ソファでのんびりしていると、お父さんがふと口を開いた。
「陽菜」
「うん?」
「これからのことは考えてるのか?」
一瞬、心臓が跳ねる。
「これからって……?」
「手術のこととか、将来のこととかだ」
お父さんの言葉に、私は少し戸惑った。
正直、ずっと考えていた。
でも、どう言葉にすればいいのかわからないまま、ずっと心の中で整理していたこと。
「……少しずつ、考えてる」
静かに、でもはっきりと答えた。
隣に座っていたお姉ちゃんは私の顔を見て、優しく微笑んだ。
「陽菜が本当に望むなら、それが一番いいんじゃない?」
私はその言葉に少し救われた気がした。
お父さんはこたつの上の湯飲みに視線を落としながら、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりとした口調で言った。
「陽菜が決めたことなら、俺は尊重する」
その言葉が、静かに胸に響いた。
私は驚きながらも、お父さんの顔を見た。
父は不器用な人だ。
昔は「男なら男らしくしろ」と言いかけたこともあったし、私のことをどう受け入れればいいのか、ずっと悩んでいたのも知っている。
でも、今、目の前の父は、私のことをちゃんと「陽菜」として見てくれている。
「……ありがとう」
そう言うと、父は少し照れくさそうに湯飲みを手に取った。
この家に3人でいると、私は「家族」の温かさを実感する。
そして、それが何よりも心強いものだと、改めて思った。
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