第5章 高校1年生⑧

5.6 あれから1年

5.6.1 ホルモン治療1年の振り返り

病院の待合室には、柔らかなピアノのBGMが流れていた。

窓の外には冬の冷たい空気が広がり、吐く息が白くなる季節。

コートの袖口からのぞく手をそっと握りしめると、しっとりとした肌の感触が自分のものとは思えなくて、少しだけ微笑んだ。


「三島陽菜さん、診察室へどうぞ」


受付の女性に名前を呼ばれ、私は席を立った。

ホルモン治療を始めて、ちょうど一年。

定期検診のため、こうして定期的に病院を訪れるのもすっかり習慣になった。


診察室に入ると、担当医の先生がいつもの穏やかな表情で迎えてくれた。

白衣のポケットに手を入れながら、パソコンの画面を確認する。


「さて、血液検査の結果だけど、ホルモンの数値は順調だね。副作用は特に感じてないかな?」


「はい、特には……少し倦怠感が出ることはありますけど、日常生活に支障があるほどではないです」


先生は頷きながら、電子カルテに何かを記入する。


「そうだね、個人差はあるけど、身体がエストロゲンに慣れてきた証拠でもあるよ。肌の調子はどう?」


「すごく変わりました。なんていうか……前よりずっと柔らかくなった気がします」


私は袖を少しめくり、手首を撫でてみせる。

たしかに、治療を始める前の頃とは全然違う。

カサつきがちだった肌はしっとりして、毛穴も目立たなくなった。

冬の乾燥にも負けず、指先まで滑らかだ。


「それは嬉しい変化だね。胸の成長はどうかな?」


「少しずつですけど、確実に……ブラジャーのサイズも変わりました」


照れくさくて視線を落としながら答える。

胸元をそっと撫でると、かすかな膨らみが確かにそこにあった。

最初は張るような痛みが気になったけれど、今ではそれが少し落ち着いてきて、形がはっきりしてきた。

服を着たときのシルエットも、以前とは違っていた。


「うん、順調だね。体脂肪の分布も変わってきてるはずだよ。お腹や腰のライン、以前より女性的になった感じはある?」


「あります。前よりもウエストが細くなった気がするし、脚も……筋肉質だったのが少し柔らかくなってきたかも」


姿見で自分の体をじっくり見るようになったのは、高校に入ってからだ。

自分の身体が望んだ方向に変化しているのがわかると、安心する。

けれど、それでもまだ完全に自信を持てているわけではなかった。


「先生……このまま進んで大丈夫ですか?」


ふと、不安が口をついて出た。

治療の効果が目に見えてきたのは嬉しい。でも、私は本当にちゃんと前に進めているんだろうか。

まだまだ道の途中で、どこか不安定な気がしてしまう。


先生は私の言葉に少しだけ間を置いて、それから優しく微笑んだ。


「大丈夫。陽菜さんは、ちゃんと前に進んでいるよ」


その言葉に、胸がじんと熱くなった。


──大丈夫。私は私として、生きていける。


「ありがとうございます」


小さく息を吐いて、私は先生に微笑み返した。

診察室の窓の外では、冬の陽がやわらかく差し込んでいた。



5.6.2 久しぶりの再会

 駅前のカフェのドアを押し開けると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。


休日の昼下がり。

店内は静かで、客もまばらだった。


奥のテーブル席に目をやると、すでに凛が座っていて、向かい側の席には須藤美月と篠宮朱音の姿があった。


「陽菜、こっちこっち!」


 凛が手を振る。私は微笑みながら歩み寄り、「久しぶり」と声をかけた。


 美月が目を丸くし、「わあ、すごく雰囲気変わったね」と言った。

 朱音も驚いたように私を見つめ、「ほんと、すっかり女の子って感じ」と頷く。


 私は少し恥ずかしくなりながらも、「うん、まあ、ホルモンの影響もあるし……」と髪を耳にかけた。


 私の髪は肩甲骨のあたりまで伸び、ふんわりとしたカールをつけている。

服装は白いブラウスにベージュのロングスカート、淡いピンクのカーディガンを羽織った。

高校の制服とは違い、より女性らしい服装を選べることが嬉しかった。

メイクも軽く施し、少しずつ自分の理想に近づけている気がする。


 「でもさ、変わったのは見た目だけでしょ?」

 美月がくすっと笑い、「陽菜は陽菜だもん」と言った。


 私は思わず微笑む。

 朱音も「そうそう、すぐわかったよ。話し方とか、雰囲気とか、昔と変わらない」と笑う。


 そう言われて、胸の奥が温かくなる。

変わることを恐れていた時期もあった。


でも、こうして再会して、「変わってない」と言ってもらえることが、何より嬉しかった。


 「みんなも変わってないね」

 私はそう言いながら、3人の服装を見渡した。


 凛は相変わらずシンプルなカジュアルスタイル。

黒のパーカーにデニムのショートパンツ、白のスニーカーを合わせ、ショートカットの髪がよく似合っている。

美月は淡いブルーのワンピースにカーディガンを羽織り、上品な雰囲気だった。

朱音はグレーのニットにロングスカート、柔らかな雰囲気を纏っている。


 「中学卒業以来だよね、美月と朱音に会うの」

 そう言うと、美月が「そうだね」と頷いた。

「翔平は元気?」

「うん、相変わらずだよ」

美月が言う。



 「陽菜が瑞陵高校に行くって聞いて、ちょっとびっくりしたよ」

 朱音が言った。


 「うん、いろいろあったけどね。でも、今はちゃんと馴染めてるよ」


 少しずつ高校での生活のことを話し始めると、自然と会話は弾んでいった。

小学校の頃の思い出、中学校の時の話、そしてお互いの近況。

気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。


 「なんかさ、すごく変わったけど、でも変わってないね」

 美月の言葉に、私はふっと笑った。


 「そうだね。私は私のままだよ」


 その言葉を口にした瞬間、改めて実感する。

私は変わった。でも、それは自分が望んだ変化であって、根本的な私自身は、何も変わっていないのだと。





5.6.3 冬の帰り道

 夕暮れの瑞陵駅へ向かう道を、私たちは並んで歩いていた。

 冬の冷たい空気が肌に触れるたび、マフラーに顔を埋める。

吐く息は白く、街灯の明かりに照らされてふわりと消えていく。


「それにしても……本当にかわいいよね、陽菜」


 奏音がふとつぶやく。

少し前を歩いていた凛が、「え?」と振り返った。


「何、急に?」


「いや、だってさ……こうして並んで歩いてると、やっぱりそう思うんだよね。昔から可愛かったけど、最近はますます女の子っぽくなったっていうか」


 私は少し戸惑いながら、でもどこか嬉しくて、ゆっくりと口を開いた。


「……ホルモン、始めて一年経ったしね」


 自分でも、鏡を見るたびに変化を実感するようになった。

 顔の輪郭は柔らかくなり、頬がふっくらしてきた。

肌もすべすべになって、昔よりも化粧が映えるようになった。髪は肩甲骨あたりまで伸び、ゆるく内側にカールしている。

高校入学のときにセミロングまで切ったけど、いつの間にかまた、風にふわりと揺れるくらいの長さになっていた。

 背は相変わらず奏音と同じくらいだけれど、体つきは少しずつ変わってきている。

制服のスカートから覗く脚も、前より細くなってきたし、胸もだいぶ膨らんできた。

 たぶん、何も知らない人が見れば、普通に女子高生に見えるはず——でも。


「でも、中身はあの頃のまんまだよね」


 凛がくすっと笑いながら、私の腕を軽く叩いた。


「ねえ、覚えてる? 小学四年のときにさ、雪の日にみんなで坂の上からダンボールで滑って、陽菜が一番派手に転んだやつ!」


「えー!なにそれー!」

奏音が言う。


「しかもさ、転んだのに『楽しい! もう一回!』って言って、結局私たちより何回も滑ってたんだから」


「……あのときは、楽しかったし……」


 思い出して、なんだか少し恥ずかしくなった。

でも、二人の笑顔を見ていたら、なんだか私も嬉しくなって、ふっと笑みがこぼれた。


「変わったこともあるけど、私自身は私のまま、だよ」


「そうだね」


 奏音が優しく微笑む。


 駅が近づくにつれて、人通りが増えてくる。

制服姿の高校生、部活帰りの中学生、仕事帰りの大人たち。

いろんな人が行き交う中で、私はふと、ぽつりと口を開いた。


「……今の私を見て、“元は男だった”って思う人もいるんだよね」


 誰かに直接言われたわけじゃない。でも、ふとした視線や、少しの間——そんな些細なことが、気になってしまうことがある。

 私は確かに女の子として生きている。でも、それを疑う人がいるのも、事実だった。


「だから?」


 奏音が立ち止まり、真っ直ぐこちらを見つめる。


「そんなの関係ないでしょ」


 凛も立ち止まって、私の隣で頷いた。


「私にとっては、ずっと陽菜は陽菜だし」


 当たり前のように言う二人の言葉が、胸にじんわりと広がる。


「……うん」


 私は小さく頷いた。


 冬の冷たい風が頬をかすめる。

でも、不思議と寒さは感じなかった。心の奥から、じんわりとあたたかくなるような——そんな帰り道だった。



5.6.4 家族の変化と父の言葉

 暖房の効いた部屋の中で、長く伸びた髪をゆるく一つにまとめた毛先をくるくるといじりながら、私はソファに座ってお姉ちゃんの話を聞いていた。


「……やっぱり、県外も考えてるんだね」


 そう呟くと、お姉ちゃんは苦笑いしながら私の方を見た。


「まあね。ずっとこの家にいるわけにもいかないし」


 分かっていたことだった。

でも、いざその現実が近づくと、思ったよりも胸がざわついた。


(もしお姉ちゃんが家を出たら……私、お父さんと二人きりになるんだ)


 これまで、家の中での父との関係は、お姉ちゃんの存在に支えられてきたところがあった。

母がいないこの家で、お姉ちゃんがずっと私の味方でいてくれたことは、本当に大きかった。


「……ちょっと、心細いかも」


 するとお姉ちゃんはクッションを抱えながら、にこっと微笑んだ。


「でもさ、お父さんも変わってきてるよ」


 少し前なら、そんな言葉は信じられなかったかもしれない。


 でも、最近は確かに父の態度が少しずつ変わっているのを感じていた。


私の外見の変化がはっきりしてきたせいもあるのかもしれない。


女子の制服を着て、学校に行く私。

休日に女の子の服を着て、メイクをする私。


―――女性的な体つきに少しずつ変化してきた私。

 父はそんな私を見ても、もう以前のように目を逸らしたり、困った顔をしたりしなくなっていた。


「……そうかな」


 ぼんやりとそう返した私を見て、お姉ちゃんは「うん」と力強く頷いた。


 そのとき、リビングのドアが開いて、父が部屋に入ってきた。


「何の話をしてたんだ?」


「お父さんの話」


 お姉ちゃんがさらりと言うと、父は眉をひそめた。


「……俺の話? 何かしたか?」


「違うよ」


 私はクッションを抱えたまま、父の方を見た。


「お父さん、最近変わってきたねって」


 父は「ふん」と鼻を鳴らしたが、まんざらでもなさそうだった。

そして、ソファの向かいに座ると、少し間を置いてから私の方を見た。


「実はな……この前、会社で陽菜のことを話したんだ」


 思いがけない言葉に、私は思わず姿勢を正した。


「え……?」


「同僚に、お前のことを聞かれてな。隠す理由もなかったから、普通に話した」


 私は一瞬、頭が真っ白になった。


 父はこれまで、私のことを外でどう話しているのか、あまり詳しく教えてくれなかった。

私はどこかで、父が私のことを「息子」として話しているんじゃないか、あるいは話題にすらしていないんじゃないかと、そう思っていた。


「……なんで?」


 そう聞くと、父は少しだけ考えてから、淡々と答えた。


「お前のことを聞かれて、隠す理由がなかったからな」


 その言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく。


 父は、もう私を隠すべきものとは思っていない。


「……みんな、なんて言ってた?」


 少し緊張しながら尋ねると、父は「最初は驚いてたが」と前置きしてから、静かに言った。


「別にそれでどうこうって話じゃない。俺の娘だからな」


 娘。


 父の口から、その言葉がこんなに自然に出てくる日が来るなんて、少し前までは想像もできなかった。


 私は、ルームウェアの袖をぎゅっと握りしめた。


 泣きそうだった。


「……そっか」


 それしか言えなかった。


 でも、父はそれで十分だと言わんばかりに、黙って頷いた。


 ソファの向こう側で、お姉ちゃんが小さく笑った。


「ね? 言ったとおりでしょ?」


 私は、ゆっくりとお姉ちゃんの方を見た。そして――


「……うん」


 ようやく、少しだけ笑うことができた。





5.6.5 そして年の瀬へ

書店の年末は忙しかった。


クリスマスが終わるとすぐに年越しや新年向けのディスプレイに変わり、店内の雰囲気が一気に変わる。

年末年始の大型連休に向けて、実用書やベストセラー小説、話題のコミックのまとめ買いをする人が増え、特に夕方から夜にかけての時間帯は慌ただしい。


私は紺色のシャツの袖をまくり、レジと品出しを行き来しながら忙しく働いていた。


「陽菜ちゃん、あと30分くらいで上がりだよね?」


レジを担当していた奈々さんが、ひと段落したタイミングで声をかけてくる。


「はい、もうそんな時間ですね」


時計を確認しながら答えると、奈々さんは微笑んだ。


「今年ももう終わるね」


「……そうですね。今年はすごくあっという間でした」


「陽菜ちゃん、すごく頑張ったよね。高校入学して、新しい環境に慣れて、アルバイトも始めて。最初の頃よりずっと頼もしくなったと思うよ」


その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。


「ありがとうございます……」


「来年も、一緒に頑張ろうね」


「はい!」


奈々さんと笑い合いながら、年の瀬を感じる。


仕事納めの日、私は店長や先輩たちに挨拶をしてから書店を後にし、駅前のイルミネーションを眺めながら帰宅した。


瑞陵駅前のロータリーには大きなクリスマスツリーが飾られていたが、すでに年末の雰囲気に切り替わっている。

帰省客らしい人々が重そうな荷物を抱え、足早に駅へと向かっていた。


(今年も終わるんだな……)


そんなことを考えながら電車に揺られ、天鏡駅に降り立つ。

冷たい空気を吸い込むと、冬らしい澄んだ空気が肺に満ちた。


家に帰ると、大晦日の準備が進んでいた。


「おかえり、陽菜。ちょうど年越しそば作るところだから手伝って」


エプロン姿の姉、真緒がキッチンで湯気の立つ鍋をかき混ぜている。


「うん、何すればいい?」


「お蕎麦の薬味、刻んでくれる?」


私は包丁を手に取り、ネギとみつばを細かく刻んでいった。

父は居間でテレビを見ていたが、私たちが準備を終えると、無言で立ち上がり食卓に着く。


三人分の器に盛られた温かい年越しそば。

私は箸を手に取り、ふうふうと息を吹きかけてからすすった。


「私は、来年の今頃は就職決まってるのかな」


ふと、そう呟いたのは姉だった。


「うん、そうだね。私はどんなふうになってるんだろう」


「……まあ、来年も真緒は真緒だし、陽菜は陽菜だろ」


ぽつりと父がそう言った。


なんでもないような言葉だった。けれど、その響きがなぜか心にじんと染みた。


(来年も、私は私でいられる)


家族と一緒に、こうして大晦日を迎えられる。


それが、ただただ嬉しかった。

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