7-4 うたを纏う
「え……?」
「竹緒酉が運営している研究所だけが、能力者の研究をしているわけじゃない。世の中には、もっとたくさんの研究者がいるっていうことさ」
「そ、それがなんですか」
焦る静歌。しかし琉生は、まるで用意してきた筋書きがそこに描かれているかのように、余裕の顔を見せていた。
「僕はね。ずっと、美春のことが気がかりだった」
「!」
「きっと君は、僕の事を訳の分からない男だと思うだろう。でもね。大事な大事な学友を――環と美春の二人を失った人間なんだ」
「環さんと、兄さん」
「そう。ヒネズミで世界を変えようとする、あの尊い運命。環はきっと何度生まれ変わっても、環が環である限り、あの選択をし続けると僕は分かっているよ」
学友だからね、とお茶目な仕草で肩をすくめ、琉生は言葉を続けた。
「そして美春も。きっとあの選択をし続ける」
静歌の胸が、きゅぅ、と縮まるように痛む。ホタルが静歌に目を向けた。
「静歌、大丈夫か」
静歌の頬に汗が垂れる。暑くもないのにどうして自分が汗をかいているのか。知らず知らず、息が浅くなる。
琉生は小首をかしげ、言った。
「僕は学友の環も、それに美春も失った。……そのもっと前に、大切な人も亡くしている」
「射天 サヤの事ですか」
静歌が言う。琉生は驚いたように目を大きく開き、そして噛み締めるように頷いた。
「知っていたんだね。そうだよ。彼女を失って、僕は悲しいと言う言葉では表せないほどの悲しみを受けた。でもね、悲しみと苦しみのどん底の中で、僕は気づいたのさ」
琉生は演劇の主人公のように両手を広げる。
「環とサヤさんは失ってしまった。でも、美春はまだ生きている。そうじゃない?」
「……!」
「永久凍結とはつまり、凍結から解除してしまえば元の美春が帰ってくるっていうことだ。そして僕の知り合いの研究者は――ヒネズミを引き剥がす研究をしている。あとは、いかに適切なタイミングで本部を急襲し、ガードの硬い封印部から美春を取り戻すかなんだ」
「兄さんを、取り戻す……」
「そうだよ。そのために、僕は君の力が必要なんだ。この学校の連中は、果たして君を自由にさせておくかな? よく考えて」
琉生は、すぅ、と。芸術的と言っていいほどの美しい仕草で、静歌の方へと手を伸ばした。
「さぁ静歌、僕と一緒に美春を取り戻そう」
静歌は目を伏せた。
脳内に鳴り響くあらゆる人の声。兄への同情、批判、評価、罵倒。自分自身へかけられた、あるいは浴びせられた言葉の数々。
長く長く封印していたそれらは今、蓋を開けられたかのように渦を巻き、静歌の脳内に耳鳴りの豪雨を打ち付ける。
提示された可能性が頭の中でわんわんと鳴り響き続ける。ありとあらゆる不協和音に耳を塞いでシャットアウトしたいというのに、頭の中で直接鳴っている音は防ぎようがない。
「……っ」
静歌は息をのむ。自分に向かって差し出された、琉生の甘く伸びやかな手。数多の人を魅了する彫刻のような、美しい指。
とろりと甘い笑み。
轟音が、思考を塞いでいく。凄まじい雑音が堪らない、とにかく誰かに助けてほしい。
伸ばされた手。
共に兄を救ってくれるのだと、言った。
琉生以外の光景が、蜃気楼のように揺らいだ。ふらり。足が震えた。
「俺、は」
その時。
「静歌」
白い衣が、静歌の視界を覆った。
「静歌」
古い木の、懐かしい香り。背後から静歌をそっと抱きしめたホタルの腕の中。白い絹糸のような長い髪が、静歌の肩にさらさらと落ちた。温もりに包まれる。
深く整った声が、言葉を紡いだ。
「私の心はずっと、君と共に」
途端、すべての耳鳴りが、破壊の音が、悲鳴が、頭の中の雑音が、ぴたりと止まった。
同時に、静寂の奥から風に運ばれて届いた幽かな音があった。凛と澄んだ音。それは、幼い手が紡ぐピアノの音色だった。
頬を撫でた風、駆け踊った旋律、やわらかな温もり、桜の色。
そして、母の涙と声。
ホタルの腕の中で、静歌は確かにあの過去のひと時を感じた――
静歌は顔をあげた。そして、ホタルの手に自身の手を重ね、
「ありがとう、ホタル」
小声で、しかし硬く呟くと、改めて琉生へと向き直った。そして言った。
「お断りします」
琉生の眉がぴくりと動く。
「何故」
「俺の母が、とても優秀な人だからです」
「……は、はぁ?」
琉生は頬にかかった髪を耳にかけると、柔和な笑みを崩さないまま、しかし、ジリッと一歩静歌に向けて歩を進めた。グラウンドの砂が風に荒ぶる。
「ちょっと理解できないね。君の母親が優秀なことと、美春の永久凍結からの解放を諦める事、どう関わるというのかな?」
「俺の知る限り、俺の父と母ほど、兄のことを思って行動している人はいません」
ホタルの腕の中で聞いた、澄んだピアノの音。
それはまぎれもなく、兄が凍結され祖母の家に預けられた時。あの時の自分が弾いていたピアノの音だった。
――静歌。
――静歌のピアノは、綺麗だね。
それは、兄の事で憔悴していた母が、やっと微笑んで涙を流した、ピアノの音色だった。
静歌は、はっきりと言った。
「俺の母は、兄が凍結されて以降自分のキャリアを捨てて仕事を変え、兄とヒネズミを引き剥がす手段が無いか、ずっと探し続けているんです」
静歌は首を振った。
「母は優秀な人です。もしもヒネズミを兄から引き剥がす明確な手段を見つけた研究者が居たとしたら、母が見逃す筈がない」
すぅ、と息を吸い。静歌はきっぱりと言った。
「だからお断りします。それに、『引き剥がせるかも』じゃ、だめなんです。『絶対に引き剥がせる』というところまで断言できなきゃ、命を懸けた兄の意思を踏みにじる事になるんです」
琉生は小さくため息をついた。
「そうか」
そしてぎろり、とその目が光る。
「確かに多少大げさに言ったところはあるけど。大事な学友の弟であることは確かだから、穏便にしたかったんだけど、ねっ」
琉生が片手をあげた。
ぶわっ、と砂塵が舞う。空間を切り裂いて、巨大なトカゲが現れた。
その身から尻尾までの長さ、10メートルはあるだろうか。ぎょろりと光る眼は黄色く、鞭のようにしなる尻尾の先には、白い稲光がバチバチと音を立て弾け、地面のコンクリートを黒く焦がす。
琉生はトカゲの傍らでパキポキと自身の首を鳴らした。
「仕方ない。君に『来たいか伺う』のはここまでだ。ここからは『来てもらう』フェーズに移行しよう」
琉生が腕を振り下ろす。トカゲの背がぎゅっとしなり、静歌との距離を、一瞬で縮めた。
白い衣がはためく。ホタルが静歌の前に立ちふさがった。その向こうで、トカゲが刀のように尖った爪を振り上げたのが見えた。
その時だった。
突如飛び込んできた黒い影が、トカゲの前に立ちはだかる。
ガキンッ、と金属がぶつかり合う激しい音。
トカゲがよろめき、2歩、3歩と後退する。もうもうと立ち込める砂埃。
「間に合ったか」
聞き馴染みのある声。ぴくぴく、と動く狼耳。
前脚を――いや、前脚だけでなく後ろ脚までを狼の姿に変貌させ、その肉体を人間の姿の倍近くに巨大化させた日野が、肩で息をしていた。その眼光は鋭く、琉生を睨みつけている。
「琉生。退学の挨拶もせずに出て行ったくせにのこのこ帰ってくるとはな。大好きな先生への挨拶はどうした」
日野が低く唸る。
琉生はその時――心底嬉しそうに笑った。大きく口を開いたことで、それまで見えなかった彼の鋭い八重歯が光る。
「ああ。ご無沙汰していました、先生」
「おい琉生。静佳はな、フニャフニャした優男に見えて意外と頑固だぞ」
日野が前脚を地面につけ、臨戦態勢をとって言った。
「お前さんが口八丁でどうこうできる奴じゃねぇ。出直しな」
「いやだなぁ。相変わらず、僕――いえ、俺の事を何も分かってないんだから」
琉生はクスクスと花びらのさざめきのように笑う。
「世の中の真理も理も限界も、それに他人の意思なんて。そんなもの」
琉生は素早くポケットに手を入れると、ピルケースを取り出した。パチン、と開き、中の錠剤を4,5粒口に含め、ガリッと噛み締める。
「力さえあれば、なんとでもゴリ押せるんですよ、先生」
<続>
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