第2話 病膏肓に入るを下

扉を開けかけていた少年が声に振り返り、好奇心に満ちた表情で踏み出しかけた足をぴたりと止めた。縁側にあった腰掛けをぎいっと音を立てて引きずり、寝台の前に置いてどっしりと腰を下ろす。「おじいさん、何かご用ですか?」


老人は肘でぐっと床板を押し、背中が壁に密着したのを確かめてから、少年の手にした薬碗を指さした。「明日から薬を煎れるのはよせ」


少年は薬碗の縁を指先が白くなるほど強く握りしめ、「おじいさん! 薬を止めたら治りませんよ!」と声を震わせた。


皺の刻まれた顔に苦笑を浮かべた老人が首を振る。「年寄りはいつか死ぬ定め。薬で治るなど、己を欺く戯言にすぎん」


「そんなことない! 絶対に治してみせますから」少年の瞼が朱に染まり、涙が睫毛の先で光り始める。「どんなに苦労しても…もっと稼いで…立派な漢方薬を買って…きっと…!」


「ははは……げほっ……はあ……ごほん…馬鹿な子め」老人は孫の頬を伝いかけた涙を、指節の硬い人差し指でそっと払う。「男子の涙は軽々しく流すものではない」少年は慌てて袖の内側で顔を拭うと、すぐさま老人の激しく波打つ胸元に手を当て、呼吸を整えるようにゆっくりと撫で下ろした。掌の温もりが肋骨の凹凸を伝い、かすかに痰の絡まる呼吸音が部屋に響く。


老人は少年の背中をさする手を掴むと、視線で制止の意を示してから、重いため息を吐いた。透き通るような眼差しは生死を超越した者のそれだった。「人は必ず死ぬ。お前の理屈なら、金持ちは皆不老不死か」


「でも……でも……」少年は言葉に詰まり、「ううっ……おじいさん死なないで。死んだら……阿華独りぼっち……本当の孤児になっちゃう……薬飲んで。なんでも言うこと聞くから……一人は嫌だ……ちゃんとするから……」腰を滑らせて椅子から転げ落ち、少年は顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。混乱した頭では自分が何を訴えているのかも分からない様子だ。


「阿華よ」老人は少年の頭を撫でながら、自らの目頭を抑えるように言った。「この身もう八十六。隣の大金持ち・張善人ですら、わしより長生きできまい。蘇家の代々が積んだ徳のおかげで十分すぎるほどの人生じゃ……生死は天に任せるもの、執着するでない」


「おじいさん……」老人はきっぱりと手を挙げて遮った。「よいか。まだ息のあるうちに伝えるべきことがある」


少年はぽかんと老人を見つめ、数秒遅れて眉を顰めた。「今は養生が第一です。そんな話より……」震える声が絞り出されるように続いた。


老人は手をぐいと差し出して孫の言葉を遮り、「お前の父母に関する話だ。両親がどこへ消えたのか、知りたくはないのか?」

「幼い頃、しつこく両親の行方を尋ねていたではないか」

老者の瞳が鋭く光り、じっと孫を見据える。深淵を覗かせるような視線で相手の心の奥まで透かすようだった。「今さらその興味が失せたなどと、爷爷(おじいさん)に言うつもりかね」

ここまで言われて少年は思わず肩をすくめて俯いた。


「それならば」老人は悪戯っぽく笑みを浮かべ、目尻の皺を深く刻ませながら続けた。「両親の消息は語らぬことにするがよい」

「いや! 聞きたいです!」少年は慌てて顔を上げ、甲高い声を張り上げた。


「親を失う気持ちがどんなものか、爷爷(おじいさん)はよく分かっている。お前が道を踏み外さぬよう、『両親は旅に出た』と偽りを伝え、希望の糸をつないでやったのだ」老人の指先が少年のこめかみを優しく撫でる。「だが十六年も経ち、お前も十六歳となった。そろそろ真実を告げる時じゃ」


「じゃあ……父さんと母さんは一体どこに? どうして……どうして僕を置き去りにし、おじいさんも見捨てたの? おじいさんがこんなに重病なのに、なぜ一度も帰って来ないんだ!」少年の拳が軋むように固く結ばれ、微かに震えていた。


「もう帰らぬ」老人は淡々と言い放った。


少年が口を開こうとした瞬間、「死んだからだ」老人の頬を初めて涙が伝う。「死んでしまった」


少年の拳がベッド枠を叩きつけ、木製の枠が軋むと同時に、拳から鮮血がにじみ出た。歯を食いしばる音が軋むように響く。「死んだなんて……そんな……嘘だ!」少年の目が真っ赤に染まり、今にも涙が溢れんばかりだ。「信じない!」


他人が父の厳しい叱責を受け、母の優しい庇護を受ける姿をずっと羨ましく思っていた。周りの子供たちは皆そうやって育ってきた。それなのに自分だけが虚しい期待を抱き、いつか両親を見つけ出せば、事情を聞いて孝行しようと願い続けてきた。それがたった一言で、全てが崩れ去った。


老人は少年の様子を見て深く首を振った。「お前は生来心優しいが、峻烈さに欠ける。ただ細やかな気配りは持ち合わせている。それがなければ、この身が死の淵にあっても決して真相は語らなかったものを」咳き込みながらベッド柵に体重を預ける。「一時の悲しみで済むなら、一生の苦しみよりましじゃ」


「ついに我慢できんくなった。この無念さ! 天下を縦横するあの感覚は、わしの人生で最も刺激的で、最も楽しいことだった!」老人の瞳に追憶の色が波紋のように揺らいでいる。


「神仙の話を聞いたことがあるか」


「おじいさんが話すのは父母の事じゃなかったんですか? どうして神仙の話に?」少年は首を傾げつつも答えた。「酒場の講談師がよく語る、剣を飛ばし風雨を操る存在のことですか?」


「そうだ! お前の父母はまさにその神仙だ」老人の目が燦然と輝き、鋼を断つような口調で断言した。「このわしもまた、かつては仙であった」


「おじいさんまでが……」少年は青天井を仰ぐような表情で口を開けた。短い言葉だが、その衝撃はまさに天地を揺るがすほどだった。


暫くして少年はようやく我に返り、「両親が仙ならなぜ死んだ? まさか……」喉を詰まらせながら問う。


「そう! 彼らを殺したのも仙だからだ!」


「わしが仙になれぬのも、仙のせいだ!」老人がそう言い切る時、両目は焔のように輝き、その視線は人の胸郭を貫いて心臓をえぐり出すかのようだった。


少年の脳裏でただ一文字が反響する。「仙」「仙」「仙」……止まることなく渦巻き、頭蓋骨を打ち付けるように鳴り響く。


「一体全体どうなっているんです!」

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