第3話
こてんと、伊里院さんはあたしの肩に顎を乗せてくる。
長い髪が、あたしの頬を優しく擽る。少しだけ、くすぐったい。
身体中を密着させたまま、彼女の右手はあたしの右手の上に重ねられる。
爪を、指を、産毛を撫でるように、優しく指先が這う。
――どうしてこんなことになったのかを説明しよう。
結局昨日は書類作成したり学校案内したり――、学年主任の先生に「懐いてるみたいだし、このまま案内任せて良いか?」なんて頼まれちゃったので、結局2時間ほどかけて学校中を案内した。
そこまでは、まぁ予想してたので良しとしよう。
じゃあなんで急にあたしの家に来ているかと言うと――
「授業がどこまで進んでるか教えて貰いたいんだけど」
「……あたしそんな成績良くないけど大丈夫?」
「授業中ずっと寝てるとかじゃないなら構わないよ」
「それなら大丈夫ね」
聞いてるだけで右から左に流れているが、というところは置いといて、少なくとも今教科書のどのあたりを進行しているかくらいは分かるので了承した。
あたしの家を使うことになったのも――
「私の家は、あまり他人が入りやすい家ではないよ」
と言われたからである。
そりゃそうか、とどこか納得してしまった。送迎が面倒だからとこんな綺麗な娘を一人で高校に通わせるような親だし、先生曰く、結構ゴリ押しだったらしいし。
あまり他人に会わせたくないタイプの親なのだろう。ウチは割と家族仲が良い方だとは思うけれど、女子高なんて複雑な家庭環境の子だって多いのだ。
あたしが珍しく家に友達を連れてきたから、お母さんなんて嬉しさのあまりケーキを買いに行ってしまった。何祝いよ。そりゃ中学くらいから家に連れてくる子なんて幼馴染くらいだったけどさ。
それで、向かい合わせだと説明しづらいから自室のローテーブルで隣同士に座って、教科書を開いて――、はて、どう説明すれば良いか悩んで止まってしまった。
なにせ教科書。紙だ。目が見えない人に、紙の教科書の中身を説明するには全文読み上げるしかない。
かと思えば、伊里院さんは、私が開いた教科書にそっと指先を当てると――
「あぁ、このあたりか」
そう言ったのだ。
「え、待って何が分かったの?」
「普通の高校は、やっぱりちょっと早いね。大学に行く人も多いからかな」
「あー、それはあると思うけど……、待って、見えてないのよね? 本当に?」
「何も見えてないよ」
「じゃあ、今ので何が分かったの?」
「137ページだね。日清戦争の原因が書かれているところ」
「そっ、そうだけど……、」
教科書のページを指でなぞる。たったそれだけで、彼女は内容を言い当てた。
内容もだが、ページ数が分かったのもおかしい。私は付箋の貼ってあるページを開いたから、音で聞いて判断なんてのも不可能。こんなの教科書すべて丸暗記してないと不可能な芸当だ。
――しかし、
「こんな目だけど、趣味は読書なんだよ」
「……どくしょ?」
ってあれ、あたしの知ってる読書で合ってる? 書を読むで、読書よね?
「侃は、……うぅん、大抵の人は意識してないだろうけど、こう触れるとね、文字のところが少しだけ盛り上がってるのが分かるんだ」
「……盛り上がってる?」
教科書に触れてみる。うーんツルツルだ。
でも、絵のところと白紙のところで肌触りが違うということくらいは、なんとなく分かる。つまりこれを文字全てにやってるってこと? ……本当に?
「ぜ、全然分かんないんだけど……」
「慣れると分かるよ。まぁ、盲学校でもこれが分かるのは滅多に居なかったけど……」
「そ、そう……」
「こんな手品が出来るお陰で、教科書をそのまま読むことも出来るんだ。……まぁ、晴眼者より時間はかかるけどね」
「へぇ……、えっと、じゃあページ数はどうして分かったの?」
「それは覚えてただけ」
「覚えてただけ!?」
オウム返ししちゃった。いやだって、現実的じゃなさすぎて。
そういえば昔読んだ推理小説に、本の内容を覚えるんじゃなくて、本のページを丸々頭の中に記憶する少女が出てくるものがあったな。ああゆうの、サヴァン症候群って言うんだっけ。
私の反応がよほど面白かったか、伊里院さんはくすくすと笑う。
それにしてもこの子、よく笑うわね。でも、他の子みたいな愛想笑いとは少し違う。
楽しくて、笑ってる。どうしてか、そう思えてしまうのだ。
「印刷機によっては全然分からないんだけどね、この教科書は随分読みやすいから、転校が決まってからずっと読んでたんだ。だから、内容もだいたいは覚えてるよ」
「へ、へぇ……、じゃあ82ページは?」
「82……紫衣事件のあたりかな」
「……合ってんのね……」
教科書の該当ページすら開かずに適当に聞いたのに、しばらく考える仕草をしただけで答えられる。
そのページを探すと、左上には確かに紫衣事件と書かれている。私はとっくに履修してるはずなのにこの事件が何だったのかも覚えてないわ。
「どうかな」
「……どう、とは」
「一緒にやってけそう?」
「そう、ね……」
教科書を丸暗記するレベルで覚えてて、よく分からないスキルで教科書の文字を読むことも出来る。確かにそんなことが出来れば、普通の学校で授業を受けることも不可能ではないのだろう。
てっきり読み上げソフトとか使って読むもんだと思ってたのに、まさかの指先の感覚頼り。伊里院さんのお母さんはこれを知ってて普通の学校に入れようと思ったのだろうか?
「あ、書く方は? テスト受けたってことは書けるのよね?」
「うん、ノートあるかな」
「…………はい、どうぞ」
普通に机の上に置いてあるからそれ使えば、と一瞬疑問を覚え、そういえば何も見えてないんだ、と首を振る。全然慣れないわね。
ノートは、――どう渡せば良いか分からないので空いてるページを開き彼女の前に置くと、手を広げ、指でまんべんなくなぞった。
「……うん、これなら大丈夫」
「えっと、駄目なものもあるの?」
「罫線がなかったら、ちょっと厳しいかな。あと材質によっては、書いた文字が滲んだり読みづらくなるんだ」
「へぇ……、あ、ペンは……何か好みとかある?」
「それは大丈夫」
そう言って、唯一持参していた小さな鞄から取り出したのは、文具店に行けば大体置いてりそうな普通のボールペンだ。
筆箱はなく、鞄にペンがそのまま入っていた。シャーペンとかじゃなくてボールペンなのね。
「何か拘りあるの?」
「鉛筆とかシャープペンは、芯を当てる角度で文字が細くなってしまうからね。目が見えないとそういうことも分からないから……普段からこういうの使ってるんだ」
そう言って、彼女がノートにペンを滑らせる。
左上から、罫線に沿って文字が書かれていく。ペンを握る指は迷うことなく、すらすらと滑らかに動く。細かい漢字だって書き順まで合ってるし、罫線から文字がはみ出ることもない。目が見えてるのに字が枠に収まらない私がおかしい気がしてきた。
「えぇー……、ほんとに書けてる……」
「どう? 侃的には、上手い?」
「なんならあたしより上手いわ……」
これ、負けたわ。自分の字がそこまで下手だと思ってるわけじゃないけど、間違いなくあたしより上手い。ボールペン字でも習ってるんだろうか? ……どうやって?
一体何を書いてるのか分からなかったが、教科書に添えられた左手の方を見て納得した。左手で読んで、右手で筆写しているのだ。何これ特殊能力? 普通の人間は書くと読むを同時には出来ないのよ。だって目、二つあるけど同じとこ見てるものだし。
横から見ていると分かる。読むと書くが、完全に同時である。信じられない。なんなんだこれ。
これと同じことを晴眼者(目が見える人を指すらしい)がしようと思ったら、数文字暗記してノートに書いて、また教科書を見てある程度暗記して――を短い間隔で繰り返すことになる。読む→書くの繰り返しであって、同時処理しているわけでは断じてない。人間の目は、二か所のものを同時に見れるようには出来ていない。
「……ねぇ、教科書暗記してるとか、そういうことじゃないのよね」
ピタリとボールペンが止まると、あたしの方に顔を向けて笑った。
「まさか。そんなこと出来ないよ」
「そ、そうよね! ページ数まで覚えてたから……まさか全ページの全文字を覚えてるんじゃないかと思ったけど、流石にそんなことないわよね!?」
冷や汗流しながら早口で言うと、楽しそうに笑われる。
良かった、完全記憶能力者なんてここには居なかった。教科書しっかり読み込んでればページ数がなんとなく浮かぶくらいは……まぁ、出来るわよね、たぶん。あたしには絶対無理だけど。でも何度も読んだくらい好きな小説なら大体のページ数でどんなイベントがあったかは覚えてるしな、これは興味の問題だろう。
「これで、信じて貰えたかな」
「うん、信じたわ。あなたなら普通に授業受けられるわ」
「それは良かった。じゃあ――」
こてんと、肩に顎を乗せられる。
あまりの突拍子のなさに、「ひぁっ!?」なんて声を漏らしてしまう。
「……な、なに?」
「他の教科も、どこまで進んでるか教えて貰って良いかな」
「い、良いけど……」
この姿勢の意味は? 聞いちゃまずいやつ?
なんか髪サラサラだし……良い匂いするし……。
ち、違う。私はノーマルよ。女の子同士とか、漫画とか小説なら嗜むけど、現実は無しよ。他人の恋愛観を否定するつもりはないけれど、私自身はナシ。ナシ、だから。
――はい、冒頭に戻ります。
教科書をテーブルに並べ、一冊ずつ開く。
授業が終わったところで付箋を挟むようにしているので、ほとんど内容を覚えていなくともページ数くらいは分かる。
ノートは、……開かないで良いだろう。あまり大学受験に本気な高校でもないので、偏差値の割に授業は甘い。ほとんどが教科書通りの内容である。
というのも、私が通っているのは中高どころか大学まで一貫の女子校だ。大学に行くつもりの子はほとんどが推薦による内部進学予定なので、一般的な大学受験的なものはない。
そんなこともあって、高校2年の秋というのに、外部進学とか就職予定の子以外は皆ふわふわと女子高生を満喫している、というわけ。恐らく、3年の卒業シーズンまではこんなノリになるだろう。
受験の代わりといってはなんだが、皆が本気になるものはある。それが、女子校生らしいこと。恋愛とか、まぁそういうのね。……あたしは、まぁ、ないんだけど。
中学の時に一度だけ告白された(もちろん女の子)けど、女の子をそんな目で見られないって断っちゃったっけ。
恋愛に憧れが、ないわけではない。
一緒に勉強したり、一緒に大学受験したり、ラブコメみたいな展開を、期待しなかったわけでもない。
でも、残念ながら女子校。自ら出会いを求めに動かなければ、男子と関わる機会なんて滅多にないのだ。だからノーマルな子も恋愛を求めて同性を意識するようになるのだろう。
中高どころか大学まで繋がる閉鎖的な環境というのは、人を狂わせるものだ。
「侃はさ、」
何冊目かの教科書を閉じると、耳元を擽るように小さな声で話しかけられる。
なんだかむずむずする。ちょっと低めの声が、吐息と共に耳にかかる。
遊びでも、こんな距離で声を掛けられることはない。鼓動がドクンと跳ねるのを感じ、ゆっくりと返事をする。
「……何?」
「恋愛とか、したことある?」
「えぇ、それはもう、信じられないくらい壮大なスペクタクルの大恋愛をね」
「…………」
「ごめんなさい、したことないわ。人生で一度も」
「そう」
小さな声で、返される。
何を考えているんだろう。そう思って首を少しだけそちらに向けても、瞼を閉じた彼女の表情は上手く読み解けない。
悲しいと嬉しいくらいは区別がつくんだけど、目の情報量ってかなり多かったのね。今更知ったわ。
なんで、こんなに密着してくるのか分からない。
もしかして、伊里院さんは――
「ねぇ、」
「うん?」
「あなたひょっとして……、」
しかし、これを言って良いものなのか。
これで「違う」と言われたらあたしが自意識過剰な恥ずかしいだけの女になるし、「そう」と答えられたら――
あ、駄目だ。聞けないわコレ。どっちって答えられても反応に困るもん。
「……勉強出来るのね」
なんとか誤魔化した。いや誤魔化せたか? くすくす笑った伊里院さんは、更にあたしに密着してくる。
空いていた左手を腰に回し、ぎゅっと、身体を寄せたまま、小さく口を開いた。
「侃はさ、」
「うん?」
「可愛いね」
「…………はぁ?」
えっと、……どういう意味かな?
幼馴染には昔っからチビって言われてきたし、親戚のオジサン連中にも「ちっこくて可愛いなぁ」なんて言われるけど、そういう意味……よねっ!?
「かっ、顔見えてないのに、可愛いもクソもないでしょ」
「そうかな?」
そっと、右手をあたしの頬に当てる。
あたしより少しだけ高い体温が、肌から浸透してくるように錯覚する。
ほとんど、顔同士が密着する距離だ。うーん、やっぱこの距離普通じゃないわよね?
「あぁ、やっぱり」
「……やっぱり?」
「可愛らしい顔だ。もちもちしてる」
「揉まないでよ!?」
誰が赤ちゃんだ。そういえば前他の子にも言われたな。
頬を撫でる手を、無理矢理押さえつける。いや力強っ! 全然下ろせない!
「ねぇ、絶対おかしい」
「何が?」
「この距離。女子同士だからって、こんなベタベタしないでしょ」
「しない?」
「しない」
ハッキリ断言すると、頬を撫で続けていた手が下ろされ、抱かれていた腰も離される。
――けれど、身体は密着したままだ。
なんかドキドキしてきた。いや、そういう意味じゃなくて。そういう意味じゃなくて、よく知らない相手とこんな距離で、しかも超絶美人――誰でもドキドキするでしょ。男子だったら今頃事後よ。知らんけど。っていうかなんか慣れてない? 元からこんな子なの?
「私と一緒に居るの、嫌?」
「待って、その質問は卑怯」
「卑怯、かぁ」
くすくすと笑われる。あぁ、だからそれが、それが卑怯って言ってるの!
なんか、流されそうになっちゃうじゃない!
がばっと立ち上がり、テーブルの向かい側に座る。
残りの教科書をバンと開いて、「次っ、数学ね!」と告げると、何事もなかったかのように、「はい、お願いします」と返された。
何よもう。まるで、あたしだけ気にしてたみたいじゃない。
――あぁ、
あたしの人生が変わってしまったのは、間違いなくこの日だった。
伊里院羽波。
彼女によって、あたしは変わった。
変えられて、しまった。
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