第十一章 腕時計
エントランスに消えていく汐梨の後ろ姿を見送った慶之は、わずかな寂しさを覚えながら車を出そうとシートベルトを締め直した。
その時、後部座席に汐梨が荷物を置き忘れていることに気付き、届けようと車を降りて汐梨の部屋に向かう。
階段を上っていると、汐梨が誰かと話している声が聞こえた。
「ど……どうして……。お願い……離して……。うぅ……」
それは酷く怯えているようだった。
「やめて……嫌……嫌なの……」
ただ事ではないと感じた慶之が急いで階段を駆け上がり目にしたのは、見知らぬ男に押し倒され馬乗りになられている汐梨の姿だった。
「汐梨っ」
慶之は急いで駆け寄ると汐梨から男を引き剥がそうと後ろから掴み掛かった。
「何してんだ!離れろ!」
汐梨から男を引き剥がし渾身の力で押さえ込む。
汐梨は廊下の端に寄って膝を抱えて座り込み、怯えていた。
「離せ!誰だお前‼」
「お前こそ誰だ!女性にこんなことしてっ、最低だぞ‼」
「うるせぇっ!しーちゃんは俺のモノだ!関係無いヤツは引っ込んでろ!」
「‼まさかお前……。お前なのか⁉」
それは一瞬だった。汐梨の海での出来事やその時見た身体の痣、山で汐梨の身に起こった事、搬送時の状態、失った胎児の事……閃光のように脳内を走った。
汐梨にむごいことをして苦しめた男はこいつか——。その男を目の前にし、怒りがマグマのように溢れ出し、更に強く抑え込んだ。
騒ぎを聞きつけた住人が警察に通報し、当たりは騒然としていた。
駆け付けた警官によって賢一は取り押さえられ、慶之は賢一の目に触れないように汐梨を抱き寄せた。
「しーちゃん!俺のモノになるって言ったよね⁉しーちゃんには俺しかいない筈だろ⁉しーちゃんっ」
警官に拘束されながらも尚、賢一は汐梨への一方的な気持ちを喚き叫んでいる。
汐梨は激しく怯えながら両手で耳を塞ぎ、慶之の腕の中でガタガタと震えていた。
連絡を受けて駆けつけた松本は、現場の様子を見てただ呆然と立ち尽くした。かつての部下の落魄れた姿と、気に掛けている部下が再び酷く傷付けられた姿を目の当たりにし、少なからずショックを受けていた。
警察に連行された賢一が松本の前を通り過ぎる時、二人は一瞬目が合った。するとそれまで激しく抵抗していた賢一は急に大人しくなり、そのまま警察車両に乗せられて行った。
「松本さん!」
松本の存在に気付いた慶之が松本の名を呼ぶ。
松本は我に返り、床に座り込んでいる二人の元に駆け寄った。
「大丈夫か?一体何があった?」
「どうやら待ち伏せされていたようです。あの男なんですよね?今まで汐梨を苦しめてきたヤツは」
「……あぁ、そうだ。まさか保釈されていたとはな……。警察とは俺が話をするから、水無瀬のことを頼む」
「分かりました」
慶之は、近くにいる警官に賢一がここにいた理由などを問い詰める松本を遠くから眺めながら、未だ腕の中で怯え続けている汐梨を強く抱きしめ、守ってやれなかったことを悔しく思った。
もう汐梨を一人にすることはできないと強く感じた慶之は、汐梨を自分のアパートに呼び寄せ、引っ越しまでの間一緒に暮らすことを提案した。
これには汐梨も素直に応じ、早いうちに汐梨のアパートを引き払うべく、時間を見つけて荷物の整理を始めることにした。
汐梨が新生活に必要な物はごく僅かだった。日用品や家電の殆どは慶之の部屋にある物を使うことにし、あとは処分することに決めた。
「この中の物はどうする?」
クローゼットに積まれた段ボール箱を指して慶之が尋ねる。
「あぁ……。中身確認したいから、出しておいてくれる?」
「了解」
慶之がクローゼットから運び出そうと箱を持ち上げると、重さに耐えられなかったのか、段ボール箱の底が抜けて中身が床に散らばってしまった。
「うわー、やっちまったな」
床に散乱したものを拾い集めながら壊れた物はないかと見ていると、蓋の開いた小さなクッキー缶が目に止まり、思わず手に取り中を覗いた。
「これって……」
中に入っていたのは学生時代の名札や校章、キーホルダー。そして腕時計が二つ。
一つはシンプルな女の子向けの腕時計で、文字盤のガラスが割れていた。
もう一つは男性物の黒のGショックで、慶之はそれを手に取るとある日の出来事を思い出した。
十二年前の冬。
中学生だった汐梨は雪の降り積もる無人駅に下車し、街灯がポツポツと灯る日暮れの道を自宅へ向け歩いていた。
日中除雪された道も足首程まで雪が積もり、俯きながら雪を掻いて歩く。
やがて汽車の音が遠くに消え、辺りはしんと静まり返った。
少しして、後ろから音もなく一匹の犬が汐梨を追い抜いて行った。
初めは野良犬と思いドキッとした汐梨だったが、すぐに首輪をしていることに気付き、そしてその首輪には鎖が付いていて、どうやらどこかの家から逃げてきたのだろうと思った。
犬は汐梨には目もくれず、小さく息を吐きながら小走りで走って行く。
鎖の端が足元を過ぎようとした時、何を思ったのか反射的に汐梨はその鎖を掴んでしまっていた。
犬の扱いに慣れていない汐梨は、犬が走るまま、まるで引っ張られるかのように犬に付いて行く。
犬はペースを崩すことなく走り続け、やがて急勾配の坂を上り始めた。
「嘘でしょ……」
流石に怯んで足を止めた汐梨。
この坂を犬のペースで上り切る自身が無かった。
鎖を掴む手を離してしまおうかとも思った。が、この犬が一体どこへ向かっているのか、それを知りたい気持ちもあった。
一瞬犬も足を止め汐梨を振り向いたが、すぐにまた走り出し、汐梨もつられて坂を上る。
息が上がり、吐く息がヒューヒューと鳴る。ようやく坂を上り切った頃には口の中がカラカラに乾いてしまっていた。
犬はどんどん先へ行く。汐梨も必死に付いて行った。やがて国道沿いの道に出ると、犬は迷うことなく道路を渡り始めた。
汐梨もつられて車道に飛び出した、その時——。
「わっ‼」
幾数台もの車に踏み固められまるでアイスバーンのようになった路面で靴が滑り、汐梨は激しく転倒してしまった。 一瞬のことで何が何だか分からず、気が付くと汐梨は左側臥位で倒れていて、鎖も手放してしまっていた。
頭を上げると犬はもうずっと遠くまで行ってしまっていて、楽しかった気持ちと犬の無情さに虚しい気持ちとが入り混じり複雑な感情を抱いた。
「いっ……たぁ……」
立ち上がろうと体を起こすと、固い地面に体を打ちつけたせいか腰と腕に痛みが走りすぐには動けずその場に留まる汐梨。
帰宅途中だった慶之が国道へ向かい歩いていると、道路の向こう側で車道に座り込んでいる汐梨を目にした。
(なんだアイツ、転んだのか)
交通量の多い道路はとても滑りやすい。滑って転ぶことはよくあることなので、この時は特に何とも思わずにいた。
しかし、車道に座り込んだままの汐梨は一向に立ち上がる気配がなかった。
(……?)
汐梨の様子を窺いながら道路端まできた慶之。汐梨は座り込んだまま俯いているようだった。
(何やってんだ)
すると、遠くから音を立てて車が走ってくるのが見えた。
汐梨も肩越しに後ろを振り向き、車の存在には気付いたようだった。流石に避けるだろう、慶之はそう思って見ていた。しかし、汐梨はその場から動こうとしない。
車は徐々に近付いてくる。このままでは——。
「危ない‼」
慶之は咄嗟に道路に飛び出し車道の反対側まで全速力で駆けると、汐梨が背負っているスクール鞄を鷲掴みにし、そのままの勢いで二人諸共歩道に飛び込み雪に埋もれた。
「うぅ……」
「大丈夫か⁉」
慶之はすぐに起き上がると汐梨に駆け寄り声をかけた。
言葉は発せずこくんと頷く汐梨。
「立てるか?」
汐梨が顔を上げると、手を差し伸べた慶之がこちらを見下ろしていて不意に目が合ってしまった。
反射的に目を逸らし、下を向いてまた頷く。
「ほら、手」
今度は目を合わせないよう、恐る恐る伸ばされた手にだけ視線を向け、両手で掴まる。途端に大きな手が力強く引っ張り上げ、気が付くと汐梨はもう立ち上がっていた。
汐梨があちこちに纏わり付いた雪を払い落としていると、突然慶之が汐梨の左腕を掴んだ。
「汐梨、時計……」
見ると、腕時計の文字盤のガラスが割れてしまっていた。きっと、滑って転んだ時に打ちつけてしまったのだろう。
「ごめん」
「え……?」
「俺が乱暴に投げ飛ばしたせいだな。ごめん。弁償するから」
「えっ、ち、違……。大丈夫、です……」
さっき転んだ時に割れたのだと、簡単なことなのに相手が慶之だと思うと上手く言葉が出てこなかった。
怖い。早くこの場から走り去りたい。よく分からない緊張で頭に血が上り、顔が熱い。
「じゃぁ……」
そう言いながら慶之は自分の腕から時計を外すと
「これ、お前にやるよ」
と言って汐梨の手に握らせた。
それは全体が黒くてベルトがラバー素材の、男子に人気の腕時計、Gショックだった。
「……えっ」
突然のことに言葉が詰まった。断るべきか、お礼を言うべきか、何と言うのが正解か。
「新しいの買うまでそれ使ってろ。あと、返さなくていいからな」
慶之はそう言って歩き出す。
汐梨はまだ混乱の中にいて、手の中の時計を呆然と見つめながらその場に立ち尽くしていた。
「汐梨」
名前を呼ばれ、ハッと顔を上げると慶之がこちらを振り向いて言った。
「帰るぞ」
慌てて慶之の後を追うと、少し距離を保ちながら二人は雪の中を家路についた。
「——あいつ、ずっと持ってたのか」
思わず文字盤の下にある『G』のロゴが付いたボタンを押す。
しかしそれは電池が切れてしまっている時計だ。もちろん、文字盤が光ることはなく、慶之の口からは「フッ」と笑い声が漏れた。
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