第3話 煙たい彼女とコインランドリー その2
また朝が来る。
目覚ましの音。
いつもと同じ時間、いつもと同じリズム。
目を開けると、薄暗い部屋の中にぼんやりとした光が滲んでいた。
天井を見つめながら、数秒だけ何も考えないふりをする。
しかし、視界に入るのは机の上。
開きっぱなしのノートパソコン。
画面には、小説の原稿ファイルが開かれている。
昨夜の自分が残した数行だけ。
その先には、何もない白い余白と、点滅するカーソル。
書ける気がしない
見ていると、息苦しくなる。
考える前に、そっとノートパソコンを閉じた。
部屋の隅に、積み上がる洗濯物を見つける。
心の澱と同じ速度で積み上がる。
そろそろ限界かもしれない。
今夜、仕事が終わったらコインランドリーへ行こう。
そう決めて、布団を跳ね除けた。
夜。
バイトを終え、アパートへ戻り、そのまま洗濯物を抱えてまた外に出た。
夜の街は静かだった。
街灯の光がぼんやりとにじみ、冷たい夜風が肌を刺す。
全てがどこか遠くの世界のことのように感じる。この街に住み始めてからはずっとそうだった。
足を進める。
コインランドリーに到着する
自動ドアが音もなく開く。
蛍光灯の白い光に包まれ、無機質な空間が広がる。
誰もいない。
乾燥機の回る音だけが、規則的に響く。
洗濯物を洗濯乾燥機に放り込み、硬貨を投入する。
機械が唸りを上げ、水が流れ込んでいく。
横にある自販機に目を向ける。
余った硬貨を入れて缶コーヒーのボタンを押す。
機械音とともに、缶が落ちる。
取り出し口から手を伸ばすと、指先に温かい感触が伝わる。
それを持ったまま、店の外へ出る。
灰皿が備えられたベンチに腰掛ける。
一息つく。
夜の静けさが、身体の中に染み込んでくる。
疲労感がどっと押し寄せる。限界だった。
少しだけだ。
目を閉じる。
すぐに眠りに落ちた。
夢は見なかった。
ただ、遠くで乾燥機の回る音だけが、微かに意識の奥に残っていた。
不意に、何かの気配を感じる。
意識が浮上する。
重いまぶたをゆっくりと開ける。
視界に、誰かの顔が入ってきた。
「懲りないね、あんた」
暗がりの中、女が覗き込んでいる。
あの日と同じ女だった。
自分の肩には、前と同じ薄手のストールがかかっている。
健太郎は何も言えず、ただじっと女の顔を見つめた。
眠っていたらしい。
肩にかけられたストールの感触を指先で確かめる。
少しだけ温かい。
女はストールを取り返しながら、くすりと笑った。
「今日はどんな夢?」
少し考え、短く答える。
「夢は見なかった」
「じゃあ、前は見てたんだね」
探るような目。
健太郎はそれ以上何も言わず、夜の静寂に目を落とす。
女がポケットやバッグを探る。
「あれ?」
舌打ちしながら、もう一度服のポケットをまさぐる。
ライターが見つからないらしい。
それを見ながら、ポケットに手を入れる。
銀色のデュポン。
指でなぞるようにして、それを取り出した。
何も言わずに差し出す。
女は一瞬こちらを見たあと、無言で受け取った。
タバコに火をつける。
火が灯る一瞬、指先がかすかに震えた気がした。
煙が静かに夜の闇に溶けていく。
「ありがとう」
健太郎は小さく頷く。
「お礼だよ」
女はふっと笑い、煙を吐き出した。
「何をしてるの?」
問いかけられる。
少し間を置き、缶コーヒーを片手に答える。
「洗濯物が乾くのを待ってる」
「私も」
軽く肩をすくめる仕草。
「帰って待てばいいのに」と健太郎は言う。
「一度下着を盗まれた」女が答える
そしめ試すような目が向けられる。
それを受け流しながら、缶コーヒーを口元に運ぶ。すっかり冷たくなっている
「私、今日は待ち合わせしてないよ」
女が思いついたように言う。
「そうか」
「だから、遊び行く?」
「また?」
「また、ってなに?」
「前も言ってただろ」健太郎が言う。缶コーヒーはすぐに空になった。冷たい中身を飲み干したからか、少し寒気を感じた。
「言ったけど、断られたじゃん」
「今日も断るよ」
「なんで?」
「忙しいから」
「ねえ、あんたって女に誘われるの慣れてる?」
「どうだろうね」
「なんか話聞き慣れてるし、口もうまいし」
「そう見える?」
「うん、適当にあしらわれてる感じする」
「気のせいだよ」
「もしかして彼女いる?」
「いないよ」
「彼女いないのに、私の誘いに乗ってこないのは?」
「知らない相手とそういうことはしないから」
「……どこで働いてるの?」
急に話が切り替わった。
「なんだよ、急に」
「知ろうと思って」
女がイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「何でもかんでも無理やり知ればいいってもんじゃない」
「でも知らないと、しないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、知り合えばいいよね」
「そういう問題じゃない」
「どこで働いてるの?」
「…朝はコーヒーとホットサンド売って、夜は居酒屋」
「へぇ、ちゃんと働いてるんだ」
「働いてないかと思ったのか?」
「うん」女が笑顔のまま続けた
「ヒモかなんかかと思った」
「ヒモ?」意外な答えに少し声が裏返ってしまった。
「うん」
「僕、そう見える?」
「見た目は見えない。でも感じる」
「感じる?」
「女と話すの慣れてるし、なんか保護欲そそるから」
「保護欲?」
「なんか、放っておけない感じするんだよね。寝顔が可愛いからかな」
「初めて言われた」
「そりゃそうでしょ。自覚ない?」
「まったくない」
「そっか。でも私には分かるよ、あんたはヒモ向いてる」
「……」
「そんな顔しないでよ、傷ついた?」
「……人前で寝たりするもんじゃないな」
「なにそれ?」
女が笑う。
それから手の中のライターをまじまじと眺めた。
「いいライターね」
「そうだね」
「高いんじゃない」
「そうだね」
「女からもらったの?」
「自分で買った」
「タバコも吸わないのに」
「タバコも吸わないのに買ったんだ」
「変なの」
そこまで聞いて、健太郎は一度女の顔を見る。
デュポンのライター。女の手にちょうど収まっていた。その絵は悪くなかった。
視線を前の風景に戻し、再び女を見る。
思いついた。
そして、言った。
「あげる」
女が一瞬、驚いたように目を丸くする。
「え?」
もう一度、淡々と繰り返した。
「あげるよ、それ」
「いいの?」
念を押される。
短く「うん」と答える。
「タバコ吸わないから」
「タバコを吸わないのに、わざわざ買って、持ち歩いてたってことは……大事なものなんじゃないの?」
「捨てようと思ってた」
わずかに目を細められる。
「なんで?」
「もういらないものだから」
女はライターを手にしたまま、じっとこちらを見ている。
「知らない男にもらったものが気味悪いと思うなら、捨ててくれ」
そう言い、洗濯物をまとめるためにコインランドリーの中に目をやる。
自分の洗濯乾燥は終わっている。思ったよりも長い間寝入っていたようだった。女に目礼して中に戻り、洗濯物を回収して、それからまた外に出てから
「それじゃ、ストールをかけてくれてありがとう」
そう言い残し、早足で歩き出す。逃げ出すように。実際逃げたのだ。見知らぬ女に自分の情念を押し付けて。
背中に女の視線を感じたが振り返らなかった。
もうこのコインランドリーに来るのはやめよう。
そう思った。少し不便だが、5分も多く歩けば他のところもある。
夜風が少しだけ、心地よかった。
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