ずっと母のターン(三)
「シュタインハウアー侯爵様にぜひご紹介したい方がいるのですわ」
ホストであるヴァイス夫人の申し出に、侯爵は断る理由がなかった。彼は静かに頷き、グローナウ子爵も渋々ついていく。
ヴァイス夫人に連れられ、シュタインハウアー侯爵とグローナウ子爵がダイニングホールに隣接する応接間に入ると、そこに一人の女性が立っていた。
彼女の名は――セレナ・アルディス。
漆黒の髪に透き通るような白い肌、優美な曲線を描く顔立ち。細く長い指がハープをそっと撫でると、その動きだけで音楽の流れが想像できるほどの気品があった。
彼女こそ、世界に五人もいないと言われる究極職【ミスティックサイレン】の吟遊詩人。
「お初にお目にかかります、シュタインハウアー侯爵様」
深みのある落ち着いた声が、まるで朝露が光をまとって滴るかのように響く。その一言だけで、ただの美貌の女ではないことが明らかだった。
「これは……」
シュタインハウアー侯爵の目が、わずかに見開かれる。
彼は由緒正しい旧家の当主であり、芸術への造詣も深い。
そして――
吟遊詩人が究極職まで至ることが、いかに困難かを知る者でもあった。
吟遊詩人はその職業特性上、単独で戦うことはほぼ不可能であり、パーティーの支援役に徹する。しかし、それゆえにレベル上げが困難を極め、ただの上級職に到達することすら難しい。
それが究極職――ミスティックサイレンにまで至るのは、世界広しといえど五人すら存在しない。
そしてヴァイス家は、そんな超越者を国が傾くほどの莫大な資金で囲い込んでいる。
これはつまり、ヴァイス家の財力がいかに規格外であるかの証明でもあった。
「では、少しばかり演奏を」
セレナが微笑み、竪琴の弦に指を触れる。
――そして、空気が変わった。
美しくも繊細な旋律が奏でられ、中庭にいた貴族たちは思わず会話を止める。
それは決して華やかな宮廷音楽ではなく、むしろ素朴な田園の風景を描くものだった。
しかし、その音色は並の演奏家には到底表現できない、洗練された技巧と深みを持っていた。
シュタインハウアー侯爵は目を閉じ、心から陶酔する。
「……素晴らしい」
彼は静かに呟いた。シュタインハウアー侯爵は、貴族社会において軽視されがちな田園音楽の真の価値を理解する、数少ない人物の一人だった。
田園音楽は、技巧に走れば軽薄になり、感情に流されれば粗野になる。だが、セレナの演奏は完璧だった。
音楽の真髄を知る侯爵には、それがわかった。
「……ふん」
一方で、グローナウ子爵は違った意味で陶酔していた。
彼は音楽に感動していたわけではない。単純に、美貌の吟遊詩人に見惚れていたのだ。
「……なかなかのものだな」
そう言いながらも、心中では嫉妬の念が渦巻いていた。
(ヴァイス家め……こんな女まで囲い込むとは…)
音楽に疎いグローナウ子爵でも、楽曲がシュタインハウアーのために選ばれた田園音楽であるとすぐに分かった。まるで彼のためだけに紡がれたかのような優美な音色が、宴の空気を染め上げる。
(……くそ、よりによって奴のために、か)
嫉妬が胸を焦がす。これほどの音楽を、これほどの女が、自分ではなくシュタインハウアーのために演奏している。ヴァイス家の力が及ぶ範囲の広さを思い知らされるようで、ただでさえ癪に障るのに、この状況がさらに彼のプライドを傷つけた。
ヴァイス夫人は最初から、グローナウ子爵を味方に引き入れるつもりはなかった。
だからこそ、彼の嫉妬心を煽るような形でセレナを紹介したのである。
そして、その効果は絶大だった。
「……」
グローナウ子爵の表情が硬くなっていくのを見て、ヴァイス夫人は心の中で満足げに微笑んだ。
シュタインハウアー侯爵は芸術の感動に心を奪われ、グローナウ子爵は嫉妬に燃える。その結果、彼らの間に横たわる感情の溝はさらに深まった。
ヴァイス夫人の「連環の計」は、昼食の時点で確実に前進したのだった。
そして、この音楽の余韻が冷めやらぬまま、午後の戦場――晩餐会へと舞台は移っていく。
ヴァイス家の城の大広間に、百人を超える賓客が集った。
中央にはダンスのための空間が確保され、その周囲を囲むように円を描く形でテーブルが並べられている。煌びやかなシャンデリアが黄金色の光を放ち、会場全体を優雅に照らしていた。
帝都から訪れた役人たち、ミュンツフルトの名だたる企業の代表者、大襄やワコクなどヴァイス家と親交の深い外交官や商人――それぞれの分野で名を馳せる面々が一堂に会し、豪華ながらも格式に縛られない和やかな雰囲気に包まれていた。
ヴァイス夫人の策略も、終盤に差し掛かる。
“金の力”ではなく、“心”を込めたもてなし。
「いかがでしょう、皆さま。本日の宴を楽しんでいただけておりますか?」
ヴァイス夫人の麗しい微笑みとともに、晩餐会は本格的に幕を開けた。
だが、この宴の本質は単なる贅沢の披露ではない。夫人の狙いは、「財力を誇示する」のではなく、「心を込めたもてなし」で賓客の好感度を最大限に高めることだった。
そのために用意されたのは、五感すべてを楽しませる極上の演出――
まずは至高の料理だ。ヴァイス家の専属料理人たちが腕を振るった料理は、単なる豪華な饗宴ではなく賓客の舌と心を満たす珠玉の一品ばかりだった。
特に、ワコクの商人が「本国の宮廷料理より美味」と絶賛した特製の刺身盛り合わせ、大襄の外交官が思わず笑顔を見せた本場仕込みの点心は、各国の文化への理解を示す計算されたメニューだった。
そしてセレナ率いる大楽団の快活な演奏。「さぁ、踊りましょう!」
ミスティックサイレンの究極職を持つ吟遊詩人、セレナ・アルディスが、朗らかに歌声を響かせる。彼女の声と演奏が混ざり合うと、それだけで空気が一変するのがわかった。
彼女に導かれるように、賓客たちは次々とダンスへと誘われていった。
最初は気取っていた帝都の役人たちも、やがて酒の勢いと雰囲気に押され、朗らかに笑いながら踊り始める。ダンスフロアでは老若男女が入り混じり、次々とパートナーを替えながら舞踏を楽しんだ。最初は戸惑っていた商人たちも、陽気な雰囲気に飲まれ、ついには即興のステップを披露する者まで現れる。
中には見事な舞を披露し、女性たちを虜にした者もいたが――
「お主、意外とやるな!」
「いやいや、君のステップには敵わないよ!」
気がつけば、舞踏会の場が即席の競技場と化していた。
そして大広間のシャンデリアの上に、突然現れる人影。
暗殺者かと一瞬賓客たちが驚いたが、よく見ると煌びやかな衣裳を纏った大道芸人たちだ。 「では皆さま、我々クライン兄弟が、十本のロープの上で剣舞を披露してみせましょう!」
突如始まった綱渡りの妙技に、会場がどよめいた。宙に張り巡らされた十本のロープを二人の剣士が軽やかに飛び回り、空中で交差しながら剣舞を繰り広げる。その圧巻の妙技に、観客たちは息を呑み、歓声を上げた。
宙を舞う二人の軽業師は、優雅でありながらも観客の心臓を締め付けるようなスリルを与え、時折見せるヒヤリとする瞬間に、賓客たちは息をのんだ。
「すごい…! あんな高い場所で…」
「本当に落ちないのか?」
歓声と拍手が響く中、次々と披露される驚異的な技の数々。
歓喜の渦の後には、一転して静寂が訪れた。
セレナが歌う旋律は切なく、儚く、美しい。
いつの間にか新進気鋭の作家が脚本を書いた悲恋劇をセレナが演じ始めた。
「愛し合う二人が、国の争いに引き裂かれる…か」
「……胸が締めつけられるな」
その深い余韻に、多くの者が杯を片手に物思いにふける。
しかし、しんみりとした雰囲気も束の間、今度は平民の娯楽として親しまれている的当てやクイズ、カードゲーム大会が始まり、会場は再び笑いと興奮に包まれた。
普段は格式ばった貴族や役人たちも、いざ競争が始まると目の色を変えて本気を出す。
「むむっ…あと少しで的の中央だったのに…!」
「ちょっと待て、あのカードの引きはおかしいだろう!」
まるで子供のように熱中する大人たち。
そして、それを眺める“本物の子供”はというと――
――返事がない。ただの飾りのようだ。
ウイルヘルム・ヴァイスは、ついに朝から晩までの長き戦役の中で観戦に徹し、寒霜功で退屈を凌いでいた。
(……せめて、戯れの札遊びくらいは許してほしいものだ。)
煌びやかに飾り立てられた衣装に身を包み、背筋を伸ばして座る。
次から次へとやってくる賓客に、完璧な挨拶を繰り返し、淀みのない受け答えをこなす。
それはまるで豪奢な衣装を纏った人形のようだった。
ダンスも、ショーも、クイズも、的当ても――
すべての賓客たちは、童心に返って楽しんでいるのに。体だけが本物の子供である自分は、それをただ眺めることしか許されない。
ウイルヘルムは、静かに天井を仰いだ。
(これが“貴族の跡継ぎ”の務めというものか……。)
彼の誕生日パーティーという名の戦役は、ついに終幕を迎えた。
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