Ⅲ
レティシアの父であるバートネット公爵ユリウスがアナスタシアの元にやってきたのは、昼を過ぎてからだった。
「レティシア! 無事だったか!」
「ご心配をおかけしました、お父様。お母様は……」
「リリーの方が気丈だった。お前を案じてはいるが、今回ばかりは私の方がリリーに支えられたくらいだ」
部屋に通されるなり脇目も振らずレティシアに駆け寄ったユリウスは、思いっきりレティシアを抱きしめる。力強くレティシアを抱きしめるユリウスの腕は微かに震えていた。
──お父様……
バートネット公爵家は、アリスティア王国の中でも一際歴史が深い名門だ。
その当主であるユリウスはその肩書きに恥じない堂々たる紳士で、どんな場所でも泰然自若とした雰囲気を崩さない。公爵家の当主でありながら優れた剣術家でもあるユリウスはガッシリとした体つきをしていて、そろそろ五十に近い齢を感じさせないほどにその見目は若々しい。
そんな父がこんな風に感情に突き動かされるように振る舞う姿を、レティシアは初めて見た。腕を解かれると同時にこぼされた大きな安堵の息にもユリウスの心配の深さが見えたような気がして、レティシアは思わず目元が熱くなるのを感じる。
──お父様は、厳しい方だけれど。
同時に深い愛情を家族に向けてくれているのだと、こんな時に実感する。
「バートネット公爵」
そんな父娘のやり取りを傍らで見守っていたアナスタシアが柔らかく声を上げた。
そこでようやくこの場にアナスタシアもいることを思い出したのだろう。ユリウスはわずかに動揺を見せながらもレティシアから一歩距離を取る。
「アナスタシア殿下、失礼いたしました。お見苦しいところを……」
「まずは、愚兄に代わって謝罪を」
だがアナスタシアはユリウスの振る舞いをあげつらうことなく、その場で
「あ、アナスタシア殿下っ!?」
「愚兄アルバートがレティシア嬢に取った振る舞いは、どれだけ謝罪をしようとも許されるはことではありません。王族を代表して、まずはわたくしから謝罪をさせてくださいませ」
ユリウスに構わず、アナスタシアは朗々と言葉を続けた。そんなアナスタシアの言葉で自分達を取り巻く状況を思い出したのか、ユリウスの顔に常の冷静さが戻ってくる。
「この度、このような不祥事を未然に防げなかったこと。レティシア嬢とバートネット公爵家の誇りを傷付けてしまったこと。大変申し訳ありませんでした」
──アナスタシア様……
アナスタシアがこんな風に頭を下げる必要性は、本来ならばないはずだ。アナスタシアはレティシアをあの場から救い出してくれた恩人なのだから、むしろバートネット公爵家から礼を言われてもいいくらいだとレティシアは思っている。
だが立場で言えば、アナスタシアはアルバートの妹で、外交に出ている国王に代わって国を預かっている身だ。アルバートが直接謝罪をしてこない以上、彼に代わって王族の不祥事を詫びるのはアナスタシアになる。
──それでも、アナスタシア様は……!
「お父様……!」
レティシアは反射的に顔を跳ね上げると父を見上げた。考えるよりも早く唇はアナスタシアがいかに自分の心を掬い上げてくれたかを説明しようと動き出している。
だがレティシアがアナスタシアを弁護する言葉を紡ぎ出すよりも、軽く片手を上げたユリウスが口を開く方が早かった。
「謝罪を受け入れます、アナスタシア殿下」
すんなりとアナスタシアからの謝罪を受け入れたユリウスに、レティシアは思わず驚きで口をつぐむ。対するアナスタシアはピクリと肩を震わせたものの、なおも頭は深く下げられたままだ。
そんなアナスタシアに、ユリウスは表情をかき消してから言葉を付け足した。
「ただし、当家が許すのは
「当然のことです」
深く頭を下げたままのアナスタシアの声には、ユリウスの声に
「わたくしとて、許すつもりはございませんもの」
「……左様ですか」
ユリウスの言葉が落ちてから、部屋の中はしばらく沈黙で満たされた。レティシアはハラハラと二人を交互に見やるが、口を挟む勇気はない。
そんなレティシアと、跪き続けるアナスタシアに何を思ったのだろうか。
ユリウスは重く溜め息を吐き出すと、剣呑な空気をフッとかき消した。
「頭を上げてください、アナスタシア殿下。私はまだ貴女様にお礼のひとつも言えていない」
苦笑いを含むようなユリウスの声に、アナスタシアがようやく頭を上げる。そんなアナスタシアに手を差し伸べて立ち上がるのを手助けしてから、ユリウスはゆっくりとアナスタシアへ頭を下げた。
「私の愛娘をあの場から救ってくださったことに、感謝を」
「バートネット公爵」
「お恥ずかしながら、私ではレティシアをあの場から助け出すことはできなかった。……貴女様以外の、誰にもできなかったことでしょう」
下げた時と同じ速さで頭を上げたユリウスは、レティシアに向ける笑みと同種の柔らかな笑みをアナスタシアに向けた。そこに恨みや怒りといった負の感情が一切ないことに、レティシアは思わずホッと息をつく。
「バートネット公爵。そのことに関しても、わたくしは貴方に謝罪をしなければなりません」
だが安堵するレティシアとは対照的に、アナスタシアの表情には緊張が滲んでいた。強張った体からは、アナスタシアの緊張の強さが伝わってくる。
「謝罪?」
「父親である貴方に話を通すことなく、レティシア嬢に結婚を申し込みました」
小首を傾げるユリウスに、アナスタシアは緊張が隠せていない声で告げた。そんなアナスタシアにユリウスはわずかに目を見開く。
──昨日の舞踏会には、お父様もいらっしゃった。お父様もあの時のアナスタシア様の言葉は聞こえていたはず。
レティシアはあの言葉からもアナスタシアの『本気』を感じたが、あの場にいた全員が全員それを素直に受け取ったとは限らない。
むしろアナスタシアが何の含みもなく、ただ純粋な恋慕からレティシアに求婚したと思っている人間の方が少数派だろう。大半の人間は、政略や派閥問題から手を差し伸べたのだと考えているはずだ。
「バートネット公爵。あの場でわたくしが口にした言葉は、何の含みもない本心です。わたくしは随分長く、レティシア嬢をお慕いしてきました」
ユリウスを真っ直ぐに見上げたアナスタシアは、視線以上に真っ直ぐな言葉をユリウスに向けた。緊張に体中を強張らせながらも、その姿勢からはレティシアへの恋慕を隠すつもりもなければ、ユリウスにそのことを誤魔化すつもりもないという主張が感じられる。
「卑怯な手段だとは思いますが、先にレティシア嬢本人から承諾の返事もいただいております」
アナスタシアが続けた言葉に、ユリウスの肩がピクリと跳ねる。だがユリウスの視線がアナスタシアから
「バートネット公爵。全てに根回しを終えてからこのようなことを申し上げるのは、汚いやり口であると分かっています。その上で、改めてお願い申し上げます」
挑みかかるようにユリウスを見上げたアナスタシアは、片手を己の胸に置くと、もう一度ユリウスへ跪いた。
今度の礼は、騎士が取る礼だった。儚く月光に溶けて消えてしまいそうな麗しい少女でありながら、アナスタシアにはそんな勇ましい一礼がひどくよく似合う。
「レティシア嬢を、わたくしの伴侶として迎えさせてください」
再び緊張が張り詰める中、ユリウスはしばらくアナスタシアを見つめたまま口を開かなかった。対するアナスタシアもユリウスを見上げたまま口を開かない。
──アナスタシア様……
アナスタシアは聖女だ。アナスタシアが命じれば、バートネット公爵であるユリウスといえども逆らうことはできない。『レティシアを伴侶に迎える』と一言宣言すれば、アナスタシアとしては問題ないはずだ。
だがそれでもアナスタシアは、真摯に結婚の承諾をユリウスに求めた。あくまでも聖女の強権を行使することなく、己の気持ちのみでユリウスにぶつかっていくアナスタシアの姿に、レティシアはまた甘い感情が胸をふさぐのを自覚する。
「ひとつ、確認したいのですが」
だがそんな甘くも切ない感情は、ユリウスが上げた冷え切った声に蹴散らされた。
「今回のこの一件、貴女様が裏で糸を引いていないという証拠はございますか?」
「お父様?」
ユリウスの思わぬ言葉に、レティシアは思わず信じられない者を見るような視線をユリウスに向ける。だがアナスタシアを冷たい瞳で見据えるユリウスの表情はどこまでも真剣だった。
「貴女様ご自身で言ったことです。随分長くレティシアを慕っていたと」
ユリウスの物言いに、レティシアは思わず喉を震わせる。
──確かに表面上の流れだけを見て、今のアナスタシア様の発言を聞いたら、そう疑いたくなるのは分かりますが……!
つまりユリウスは、レティシアがアナスタシアの手に落ちてくるように、アナスタシアがあえてアルバートにソフィアをあてがったのではないかと疑っているのだ。
大々的に婚約破棄をさせれば、不名誉な過去を背負ったレティシアをあえて欲しがる者はいなくなる。そこに親切を装って手を差し伸べれば、レティシアには『アナスタシアの手を取る』という道しか選べない。
この状況を作ったのはアナスタシア本人ではないのか。そうでないと言うならば、それを証明できるだけのものがあるのか。
ユリウスが言っているのは、そういうことだ。
「バートネット公爵がそうお考えになるのもごもっともなことです」
何より、今の発言は誠意を
だがレティシアが衝動的に口を開くよりも、アナスタシアが真摯な声音のままユリウスに答える方が早かった。
「今この場でわたくしが無関係であることを証明することは不可能です。それをできるだけの証拠が、わたくしの手元にはありません」
ユリウスの指摘に怒りを見せることなく、詭弁を弄することもなく、アナスタシアはすんなりとそのことを認めた。変わらず誠意と緊張が滲む顔でユリウスを見上げたアナスタシアは、胸に置いた手にキュッと力を込めながら言葉を続ける。
「わたくしが今言えることはこれだけです」
スッと深く息を吸い込む音が、なぜかレティシアの耳を引いた。
満月のような瞳に力が込められ、続く言葉は空気を叱咤するかのように部屋中に響き渡る。
「わたくし、アナスタシア・ヴェルデ・アレスティアは、レティシア・バートネット嬢の幸せのみを心の底から願っております。自分勝手な思いで、レティシア嬢を不幸せにするような振る舞いは、神に誓っていたしません」
凛と響く声に、パンッと空気が割られたような気がした。
あの大広間で、アナスタシアが手を差し伸べてくれた時と同じだ。
アナスタシアの声に、場に纏わりつく全ての負の念が浄化されていくような心地がする。
──アナスタシア様。
あの時、レティシアはアナスタシアに一方的に救われるだけの立場だった。
だけど、今は違う。……アナスタシアに助けられるだけの立場ではなくて、アナスタシアとともに戦う場所に立ちたいと、レティシアの心は願っている。
「お父様」
その願いに突き動かされるように、体は無意識のうちに動き出していた。
「わたくしは、アナスタシア様のお言葉を信じます」
ユリウスの隣からアナスタシアの隣へ立ち位置を移したレティシアは、自らもアナスタシアの隣に跪くとユリウスを見上げた。そんなレティシアの振る舞いに、ユリウスのみならずアナスタシアまでもが目を丸くしてレティシアを見やる。
「アナスタシア様が向けてくださった心を、わたくしは信じます。アナスタシア様が一心に注いでくださる愛情を、わたくしは信じます」
証拠なんて、何もない。アナスタシアから想いを向けられた当人ではないユリウスには、これでは不十分なのかもしれない。
それでも、アナスタシアから気持ちを向けられた当人であるレティシアには分かる。
アナスタシアは、レティシアを害するようなことは絶対にしない。己の想いとレティシアの幸せを天秤にかけた時、アナスタシアは必ずレティシアの幸せを取る。レティシアの心と幸せを守るためならば、己の想いを殺して、レティシアに微笑みかけられるのがアナスタシアだ。
アナスタシアは、己の中に『聖女としては不適格な
アナスタシアがレティシアに注ぐのは、真綿で包み込むような温かさだ。置かれた立場に心を凍らせることしかできなかったレティシアを、アナスタシアは全てで包み込もうとしてくれている。
そんなアナスタシアだからこそ、応えたいと思った。
「わたくしは、アナスタシア様の隣にありたい」
真っ直ぐに告げると、アナスタシアはこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。一方ユリウスは、試すような瞳でレティシアを見下ろしている。
だからこそ、レティシアは挑みかかるようにユリウスを見据えた。
「わたくしとアナスタシア様の結婚を認めてください、お父様」
真っ向から告げた言葉に、再び沈黙の
「……ふっ」
そんな沈黙が支配した中に。
ふと、堪えきれないと言わんばかりの吐息がこぼれた。
「ふっ、ははっ! はははははっ!!」
沈黙を笑い声で破ったのは、ユリウスだった。突然屈託なく笑い始めたユリウスに、レティシアとアナスタシアは揃って目を
「はははっ、まさかレティシア、お前からそんな言葉が出るとは!」
「お父様?」
「いやいや、……不敬な物言いをお許しください、アナスタシア殿下」
ひとしきり笑ったユリウスは、笑いを引っ込めるとまずはアナスタシアへ一礼した。再び上げられたユリウスの顔には、いまだに笑いの気配が残っている。
「実は、アルバート殿下をそそのかした黒幕については、漠然と目星はついておりましてな」
ユリウスの発言に、アナスタシアはスッと表情を改めた。
「リンゼル侯爵と、ルーベルスの貴族達辺りかしら?」
「さすがは殿下、お耳が早い」
昨晩のアナスタシアは、今回の一件の黒幕に心当たりがあるようなことを言っていた。恐らくユリウスも昨晩から今日までの間に同じ情報に行き着いたのだろう。あるいは前々から何かしらの情報を掴んでいたのかもしれない。
「ですので、今のは少し、殿下を試させていただいただけなのです」
「……お父様」
「いやいや、アルバート殿下にあんな手痛い目に遭わされたばかりだからな。慎重になるのもやむを得んだろう」
レティシアが責めるように声を上げると、ユリウスは少し困ったように眉尻を下げた。
──案じてくださったことは嬉しいけども。
それでもアナスタシアの真心を踏みにじるような発言は、どうにもレティシアには許しがたい。
「婚約者であったはずなのに、あのバカが何か心を込めた物言いを私にしてきたことは、一度もありませんでした。レティシアがその件で何かを私に訴えてくることも、またなかった」
柔らかく告げたユリウスは、アナスタシアとレティシア、それぞれに手を差し伸べた。一本ずつ差し出された手を借りて二人が膝を上げると、今度はユリウスが入れ替わりに膝をつく。
「娘はどうやら、今度こそ幸せな縁を掴んだようだ」
アナスタシアの手とレティシアの手、それぞれを取った手に額を預けたユリウスは、深い思いを込めて呟いた。
深く重く載せられた感情が何と形容されるものなのかは、レティシアには分からない。レティシアに分かったのは、ユリウスがこの結婚を承諾してくれたということだけだ。
「愛娘を、どうかよろしくお願いいたします」
「わたくしの命に代えても幸せにすると、ここに誓いますわ」
凛と宣言したアナスタシアの声は、大広間で上げられた聖女としての声と同じ響きを帯びていた。
そうでありながら今の宣誓は、いつになくレティシアの耳に柔らかく響いていた。
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