聖女様の護衛姫〜王太子に婚約破棄された武闘派公爵令嬢は、国のラスボスである聖女の最愛となる〜
安崎依代
序
「レティシア・バートネット! 貴様との婚約は、今この宣言を
──いつかは言われると、思っていた。
空気が凍りついた大広間の中に宣言の余韻が溶けて消えていくのを聞きながら、レティシアは無表情に王太子……つい数秒前まで己の婚約者であったアルバートを見つめていた。
レティシアとアルバートの婚約は、アルバートが生まれた時に決まったものだという。つまり当人達の意思など一切関係のない政略結婚だ。
そうでなければ、アルバートがレティシアを婚約者などに選ぶはずがない。
──殿下の好みとは見事に対極ですからね、わたくしは。
並の男性よりも一段高い身長。魅力に乏しいスレンダーな体格。顔立ちは凡庸で、髪も赤みを帯びた茶色とあまり貴族らしいものではない。歳もアルバートよりみっつ上だ。
アルバートの好みが、歳下の可憐な、……まさしく今アルバートの腕の中に収まっている『社交界の妖精姫』と名高いソフィア嬢のような女性なのだということは、前々から承知していた。
むしろ自分などが婚約者として指名されていたからこそそんな趣味になったのだということも、レティシアは薄々察している。レティシアが『バートネット公爵家』という国有数の家名を背負っていなければ、アルバートはもっと早くレティシアとの婚約を破棄していたことだろう。
「お前のような女らしさの欠片もない、可愛げも何もないガサツ女との婚約など、ウンザリしていたんだっ!!」
──とはいえ……
『女らしさの欠片もない』という言葉は、レティシアの外見や性格に加えて、特技が剣術というのもあるのだろう。
公爵令嬢という身分にありながら、今のレティシアの剣の腕前は近衛兵と競る域にある。もちろん、常に守られる側の身分を享受しているアルバートなど、レティシアに敵うはずがない。それがアルバートの不興を買ったのだということも分かっている。
だからこそレティシアは、もしも婚約破棄を宣言されたとしても、抵抗することなく受け入れようと前々から決めていた。
……それでも。だけども。
──『殿下を支え、お守りできる存在たれ』と家から課せられてきたことを、忠実にこなした結果が、これか。
自分だって、好きでこんな外見に生まれついたわけではない。好きで剣を握っていたわけではない。許されるならば、年頃の御令嬢らしい生活を送りたかった。
そんな嘆きとも、恨みとも、怒りともつかない感情は、ずっとずっと心の奥底にある。
──でも、もう、それもどうでもいい。
今はただ、全てが虚しいだけだ。
「レティシア! 貴様は……っ」
どうせこれからアルバートは
──そんなことまでしなくても、わたくしはもう何もする気はありませんのに。
そんな諦観を、心の奥底で転がした、その瞬間だった。
「お待ちなさいっ!」
パンッと、空気が割れるような心地がした。
アルバートの一方的な宣言に凍りついていた人々は、その声に叩かれたかのようにハッと声の方を振り返る。レティシアも、そしてアルバートまでもが、反射的にその動きに
先程までとは種類の違う静寂が、大広間を支配する。
その中にカツリと、ひどく上品な足音が響いた。さらにシュルリと微かな衣擦れの音が響き、月光が人の姿を得たかのごとき神秘的な少女が姿を現す。
「お兄様、お気は確かでして?」
背まで流れ落ちる癖のない白銀の髪。雪のように白い肌。月をそのまま閉じ込めたかのような金の瞳は、ヒタとアルバートだけを真っ直ぐに見据えていた。夜空を映し込んだような深みのあるダークブルーのドレスが、彼女が宿す淡い色彩を鮮やかに引き立てている。
レティシアにも、見覚えがある少女だった。
「アナスタシア様……」
レティシアが思わずポロリと少女の名をこぼすと、場に集った面々がザワリと動揺の声を上げる。
「アナスタシア王女殿下……っ!?」
「『白銀の聖女』が、なぜここに」
「このような場所に
凍りついていたはずの空気は、一気に揺れ動き始めた。
だがアナスタシアはそれらに一切構うことなく、アルバートに向かって真っ直ぐに歩を進めてくる。アナスタシアが進む先に立つ人々は自然と後ろへ下がり、アナスタシアのために道を開けた。
その様を呆然と見つめているレティシアも、周囲と同じく動揺を隠せずにいる。
──アナスタシア様が、なぜこのような場所に?
アナスタシア・ヴェルデ・アレスティア。
彼女はアルバートのふたつ歳下の妹だ。アルバートの婚約者として王家と私的な交流があったレティシアは、アナスタシアとも親しくさせてもらっている。
だがいくらレティシアがアルバートの婚約者であると言っても、本来ならばレティシアはアナスタシアと気軽に口をきけるような立場にはない。
なぜならば彼女は『王女』である以上に、この国に神の加護を授ける『聖女』であるからだ。
『神の代弁者』とも『神裁の代理執行官』とも言われている聖女は、このアレスティア王国を支える柱だ。その地位は王よりも高く、公爵家の人間といえどもただの臣民でしかないレティシアは、本来ならば直接言葉を交わすことなど許される立場にはない。レティシアが私的な立場でアナスタシアと交流できていたのは、全てアナスタシアがそう望んだからだと聞いている。
レティシアの前を通り過ぎるように歩を進めたアナスタシアは、一瞬だけレティシアへ視線を向けると淡く微笑みを浮かべた。たったそれだけで張り詰めていた空気が緩み、月光のごとき冷たさを帯びていた美貌がフワリと真綿のような柔らかさを帯びる。
──あ……
状況など、先程から何ひとつとして変わっていない。
だが『アナスタシアに微笑みかけられた』というだけで、レティシアの肩からはホッと力が抜けた。知らず知らずのうちにガチガチに固まっていた体が解けて、無意識の底から『もう大丈夫なのだ』という安堵が染み渡る。
そんなレティシアの内心が、アナスタシアには手に取るように分かったのだろう。
レティシアを肯定するように軽く頷いたアナスタシアは、レティシアを背にかばう形でアルバートと対峙した。
その瞬間、アナスタシアの纏う空気が厳寒の夜空のように冷たく張り詰める。
「お兄様とレティシア
「できるからこそ、こうして宣言しているんだろうが」
予期せぬアナスタシアの登場に動揺を見せたアルバートだったが、アナスタシアの糾弾に応戦するアルバートの声は強さを失っていない。
そんなアルバートの様子に、アナスタシアはより一層目元の険を強める。
「隣国へ外交に出向いているお父様に代わり、国主代理として国を預かっているわたくしは、一切何も聞いておりませんわ」
「お前はあくまで『国の顔』としての代理だ。父上不在時の
──確かにそれは、事実と言えば事実ですが……
確かにアルバートは、王太子として父王不在時の国政を預かる立場にある。
とはいえ、十八歳という若輩の身であるアルバートには、全てを負えるだけの度量も権力もない。『預かる』と言ってもそれは名目上のことであって、実際の政務は宰相を始めとする大臣達が担っているはずだ。
──つまり殿下には、本来こんなことを独断で
そのことはいくらアルバートといえども分かっているはずだ。
それでもこんなに強気で事を押し進めているということは、それができるだけの強い後ろ盾が今のアルバートにはあるということだ。バートネット公爵家を敵に回し、アナスタシアに楯突いても大丈夫だと思えるほどの後ろ盾が。
──となると、ただわたくしに愛想を尽かした、というだけの婚約破棄ではないのかもしれない。
アナスタシアの介入のおかげで、レティシアの思考はようやく回り始めた。どうやらレティシアは感情が凍てついてしまった己を『冷静であり続けている』と錯覚していたらしい。
「そもそも、この婚約破棄の発端は……っ!」
「それ以上の説明は結構。レティシア義姉様を
どのみち、王宮主催の舞踏会という、
──こうなってしまったからには、次に考えるべきことは。
一旦この場を退却し、こんな馬鹿らしい舞台からアナスタシアを即急に連れ出すこと、だろう。
「あ、阿呆の戯言だとっ!? レティシアは持ち前の暴力を以て、僕が目をかけていたソフィア嬢を……っ!!」
「訂正いたしますわ。『阿呆』の部分を『救いようのない馬鹿』へと」
「なっ……!? それが兄に対する態度かっ!?」
「ただ先に生まれついただけの、中身が
「アナスタシア様」
レティシアはそっとアナスタシアの袖を掴むと控えめに引いた。その動きに視線だけで振り返ったアナスタシアへ、レティシアは小さく首を横へ振る。
レティシアを助けようとしてくれるアナスタシアの心遣いは嬉しい。十分に心を助けてもらった。
だがここで今更どれだけアナスタシアがアルバートを糾弾しようとも、アルバートが婚約破棄を取り下げることも、レティシアに謝罪することもないだろう。
──わたくしは大丈夫ですよ、アナスタシア様。
だからこれ以上、自分のためにアナスタシアが馬鹿らしい茶番に付き合う必要はないのだと、レティシアは控えめな微笑みでアナスタシアへ訴えかける。
そんなレティシアの表情に気付いたアナスタシアが、小さく目を
「……今まで、お兄様のために、この国のためにと」
震える声で、絞り出すように言葉を紡いだアナスタシアは、険を増した眼差しを再びアルバートに置く。
そんなアナスタシアが放つ圧に、初めてアルバートがたじろいだのが分かった。
「年頃の公爵令嬢でありながら……己だって守られるべき可憐な女性でありながら、殿方同然に剣を握らされてきたレティシア義姉様の努力を、こんな風に踏みにじるのが、お兄様のやり方だというのですね?」
──アナスタシア様……
アナスタシアの言葉に、今度はレティシアが目を瞠る番だった。
──分かってくれて、いたんだ。
アルバートが『可愛げのない』と吐き捨て、レティシアが心の奥底に封じ込めてきた感情。
その全てを、アナスタシアの繊手が、そっと包みこんで掬い上げてくれたような心地がした。
「分かりました。こんな人でなしにレティシア義姉様はお渡しできません」
無防備に目を見開くレティシアの前で、アナスタシアがクルリと振り返る。
さらにアナスタシアは、アナスタシアのドレスの袖を摘んでいたレティシアの手を両手で
まるで天使が羽を広げるかのごとくひらめいたドレスの上を、幻想のごとき美しさの白銀が舞う。
「レティシア・バートネット嬢」
はるか夜空の内から滴るように現れた天使が、己の前に
そんな幻想の中から、銀鈴を振るかのごとく美しい声音がレティシアの名を呼ぶ。
「婚約破棄を宣言されたばかりの貴女に、今から無礼な発言をするわたくしを、どうかお許しください」
夜空を体現したかのように麗しく、幻想の中に生きるかのように可憐な聖女は、両手で取ったレティシアの指先に朝焼けの空に染まったかのごとき唇を落とすと、真っ直ぐにレティシアだけを見つめて凛と声を張った。
「わたくし、アナスタシア・ヴェルデ・アレスティアは、以前より貴女様をお慕いしておりました。貴女様がお兄様と一緒になられるならば、この気持ちは一生秘めて生きるつもりでした」
大広間の隅々にまで響き渡る声に、ザワリとまた動揺の波が走る。
だが先程までとは違い、それが大きなざわめきにまで育たないのは、レティシアを一心に見つめるアナスタシアが放つ静謐な空気に皆が
「ですが今、愚かな兄は貴女様の手を振り解いた。ならばわたくしは、もう誰にも貴女様をお渡ししたくありません」
今やレティシアの意識は、レティシアを一心に見上げるアナスタシアの瞳に引きつけられていた。
──アナスタシア様……
突然のことに、頭の中は真っ白になっている。
でも、だからこそ。何も考えられないからこそ。
「レティシア・バートネット嬢。どうかわたくしの伴侶として、わたくしの隣でともに生きてはいただけないでしょうか?」
──本気、で……?
アナスタシアの金の瞳が、レティシアだけを見つめて、甘く
騎士が愛を
──軽々しく答えてはいけない。
そう、思った。
それでもレティシアの指先はすがるようにアナスタシアの手を握り、頭は知らず知らずのうちにコクリと頷いている。
そんなレティシアに、アナスタシアは月下美人が花開くがごとく微笑んだ。
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