第5話「ひび割れた幸せの鐘」

直樹と仁がいつも営業で使っている白い社用車のミニバンに二人は乗り込んだ。直樹は昨日の土曜日に1日かけてボディーを洗車して、室内を清掃した。特に助手席周りはチリひとつ無いように気を配った。いつも書類やら資

料やらをほうり投げてある後部座席もゴミが落ちていないか気になり、バックミラーをチラチラ見ていた。

凛は車内に乗り込むと、運転している直樹のことがよく見えるように腰を少しドアの方へずらしていた。仁は足が長すぎていつも椅子を後ろに目一杯ずらすので、その位置のままの座席は凛には広すぎるような印象だった。し

かし、直樹には自分から少し距離を置かれて座っているように感じてしまった。

「あのさあ、先に言っておきたいんだけれど、僕さあ、デートって今回が初めてなんだよ。慣れてないから多分、不快な思いさせちゃったり嫌なこと言っちゃったりするかもしれない。ゴメン、先に謝っておくよ」

「え?ああ、私もそうだよ。一生懸命車を運転してもらうのにただ座ってていいのかなって。」

「運転はもう日本中飛び回っているから大丈夫なんだけどさ、長距離運転すると安全第一になちゃってデートだって忘れちゃうかもしれないんだよね。」

「そんなあ、当たり前じゃない。むしろ、疲れないように色々サポートするのが女の子の役目じゃないかな?」

「そうなんだ。昨日の夜、ネットでドライブデートのマナーとか色々検索していたんだけれどさあ、全然頭に入ってこなくて。」

「え?そう。じゃあ少し寝不足?」

実は凛もソワッソワしてよく寝付けなかった。直樹に運転させている時に居眠りをしてはいけないと考え、密かにカフェイン錠をカバンに忍ばせていた。そして、そのカフェイン錠をポーチの中から探し、箱を開けて銀色のパッケージから取り出そうとゴソゴソしていた。

その様子に直樹はこう言った。

「ああ、それ知ってる。女の子ってドライバーが疲れたり眠くなったりしないように飴とかガムとか用意してくれんだよね。」直樹は昨日ネットで読んだ記事を思い返していた。

「え?違うよ。カフェインの錠剤だよ。他にも酔い止めとか、消化剤とか・・・」凛はそう言いながら銀色のパッケージから錠剤を取り出してそれを直樹の口元に持って行った。

「はい」「う・・にが・・」

凛は顔をしわくちゃにする直樹をニコニコしながら「よし、よし」と頷いた。

直樹はこのやり取りにネットの情報も当てにならないなと思い返し、

「そうなんだね。違うんだね。僕も情報に振り回されて窮屈な思いをするより、その場その場で思ったことを言うようにするよ。」と言った。

「フフフ。そうね、自然体でいればいいのよね。」と少しリラックスしたような顔を直樹に向けた。

スペースレイルの上を転がる鉄球のように凛を乗せた直樹の社用車は海ほたるPAに吸い込まれて行く。海ほたるPAは東京湾に浮かぶ人工島に作られた客船を思わせるパーキングエリアだ。人工島なので緑地や土の部分はほとんどない。建物は5階建になっている。4階、5階が展望デッキや売店、レストラン、ゲームセンターそして足湯まである。4階木更津側デッキに「幸せの鐘」があり、「大切な人へ思いを込めて鳴らすと幸せになれる」と言われている。この「幸せの鐘」の前が第2のチェックポイントである。

こんなロマンチックなロケーションにたどり着いた二人だが、直樹は先ほど凛に飲まされたカフェインの錠剤のためにトイレが近くなってしまっていた。

売店近くに着いたところで突然直樹は

「ごめんね、ちょっとトイレに行ってくる」情けなさそうに凛に笑いかけて走り去っていった。凛はちょっと小首を傾げながら直樹を目で追っていた。

「売店でお土産でも探してみようかな」そう独り言を呟いて売店の品物をゆっくりと見て回っていた。

海ほたるくん&海ほたるちゃんキーホルダーを見つけ凛の顔が明るくなった。

「カワイイ」

それを手に取りレジへと向かった。日曜日という事もあってレジには人が並んでいた。

「ここで一日過ごしても楽しいかも」とそんなことを考えながら凛は自分の番が来るのを待っていた。その時、背中の方に強い重みを感じた。初老の男性が凛にもたれかかるように倒れてきたのである。咄嗟に凛はその男性を抱えた。

その時、凛の足元に黒いハーフコートが滑り込んできた。投げ込まれた方向を見ると直樹が走り寄り「頭にコートを敷いて気道確保」と叫んでいる。言われるままに凛は男性を静かに寝かせて顎を持ち上げて口を開けた。すぐさま直樹はしたまぶたを広げ一瞥した後、時計を見ながら脈をとり始めた。そして「ほっ」とため息をついた。そして凛に向かって

「学生証を提示しながら連れの人を探して」と言った。

同時に、足元に周り足首を掴んで持ち上げた。その時だった。

「何しているんですか!」

凛がキツい目で直樹を見てそう言い放った。

「あなたのやっている事は違法行為ですよ。もし、脳溢血だったらどうするのですか!」

「大丈夫、のぼせて貧血を起こしただけだから。眼瞼結膜蒼白、脈拍やや遅め。寒い外から急に暖かい室内に入って血管が急に広がったんだ。」

「医者でもないあなたがそんな勝手な診断で患者を動かすのは違法です。」

「なら、あんたは何してたんだよ。こんだけ人がいる中で俺より早くここに駆けつけたヤツがどこにいるんだよ!」

「それは、知識のない人間が患者に無闇に触ってはいけないと学校で習っているのです。」

「俺は知識はある。資格がないだけだ。」


直樹の頭に「涙を流しながら必死に専門書を読み漁る中学生の時の記憶」が蘇ってきた。

「父さんがやらないなら俺がやる」そう呟きながら辞書と2、3冊の専門書を交互に読みながら必死にノートにペンを走らせていた。


「資格がなければあなたの知識を証明することはできません。」

「そんな悠長なこと言っている間に死んじまったらどうするんだよ。自分に知識がないってわかっているなら勉強すればいいだけだろ。医療は医者だけのものじゃないんだ!」


「目の前で母親が倒れ、大勢の人の前で必死に蘇生しようとしている中学生の直樹の記憶」で頭がいっぱいになっていた。周りの人たちは誰も直樹に手を貸そうとしない。哀れみの視線に囲まれながら自分の大切な人が生死を彷徨っている。これほどに無知を痛感するような気持ちを味わった事がない。

「『父のような立派な医者になりたい。』と言っていた自分の言葉が上部だけのものだったなんて」と哀れみの視線が自分を嘲笑う。

直樹は震える手に初老の老人の足の重みが戻り、徐々に目の前の凛の輪郭が現れ始めた。

今まで冷静かつ穏やかだったあの直樹が、あまりに激しく怒鳴りつけるので、凛はついに涙ぐんでしまっていた。

「わかったよ」直樹は我に帰りそう小さく言った。そして凛から視線を逸らし立ち上がり周りを見渡した。

「すみません。僕たちは薬学部の学生です。応急処置はすみました。誰かこの方のお連れの方をご存知ありませんか?」

直樹と凛の言い合いに尻込みしていた一人の男性が近寄る。

「あの、父がどうかしたのですか?」と近づいてきた。

「ええ、ちょっとのぼせたみたいで倒れてしまいました。ほら、もう目を開けて意識は戻っています。この施設には救護室がないのですぐに救急車を呼びますか?僕は学生なので診断はできませんが、下まぶたの裏が白くなり、脈拍が下がっていたので貧血だと判断しました。なので足にある血液を脳に回したところ意識が戻りました。あ、ちょっと待ってください。」

そう言って初老の男性の頭に敷いていたハーフコートをゴソゴソを漁り出した。初老の男性は慌てて体を持ち上げた。

「あああ、もう大丈夫、もう大丈夫。」と連れの男性に声をかけた。

「あ、これ、僕の名刺です。救急車を呼ぶ必要はないと思うのですけれど、すぐに近くの病院に駆け込んだ方が良いと思います。もし、僕のした事でお父さんに何かあったらご連絡ください。」

そう言って名刺を渡した。それを遮るように初老の老人がこう言った。

「なに馬鹿なこと言ってんだい、あんたは私を助けようとして一生懸命やったんだ。世の中捨てたもんじゃないよ。こんなに若いのに。」そう言って笑いかけてくれた。

そして、立ち上がり凛の方に向かい直って

「この若者はイイ男だよ。コイツを逃したら滅多な奴に出会えないよ。仲良くやりな」

そう言った。その言葉を聞いて凛はしゃがみ込んで泣きじゃくってしまった。安堵感が一気に押し寄せてきた。同時に現実を突きつけられて信念が崩壊してくような脱力感に見舞われた。

直樹は凛の肩をポンポンと叩き脇を抱え立ち上がらせ、その場を立ち去った。凛の肩を抱えながら歩く直樹の背中の方からパチパチと拍手が聞こえていた。

直樹と凛は「幸せの鐘」の台座に黙って座っていた。海風は冷たいが日の光は暖かかった。直樹は大きく広がった青空に手を広げて伸びをした。そして、すぐにその手を太ももに忙しなく擦り付けながら周りをキョロキョロ見渡した。

「凛ちゃん、ごめんね。大きな声で怒鳴って・・・。」そう言って凛の顔を覗き込む。

「撮影・・・。できる?」

「できない・・・。」

「そやそうだよね。どうしようね。今日は終わりかな・・・。」そう言ってスマホのアプリを開いた。「ペアルック」と言う文字が目に入ってきた。

このロケ地での課題である。

「ペアルック?あー完全に無理だわコレ」

直樹がスマホの課題を読み上げてそういうと凛がバッと頭を持ち上げた。


「お金払うの忘れてた!」そう言って、ずっと手に持っていた海ほたるくんと海ほたるちゃんのペアのキーホルダーを直樹の前でぷらぷらさせて見せた。

「よし!それ、俺が精算済ませてくるからその間に凛ちゃんは化粧室で顔を直しておいで」

「何それ・・・顔を直すって・・。ムカつくんですけど・・・。」

凛は嬉しそうに笑っていた。

10秒ほど「海ほたるくんと海ほたるちゃん」のキーホルダーが「幸せの鐘」の前でゆらゆらと揺れる映像がアップロードされていた。GPSでは二人が「幸せの鐘」の前にいることを長い間示していたが、やっと動画が上がったと思ったらよく意味のわからないこの映像である。

「何があった?」

「おまいら顔見せろ」

「凛、もしかして襲われた?」

「システムエラーか?」

「幸せの鐘は鳴ったのか?」

などとコメント欄は大炎上である。


そして、海ほたるの駐車場。直樹はハンドルの上に両手を組んで乗せ、顎を乗せたまま助手席の方を見ている。凛はまだ俯いたままだ。この駐車場からは再び東京方面に戻る事もできるし、このまま木更津方面に向かうこともできる。今の凛の心理状況でゲームが続行できるかどうか決めかねていた。


「もう、東京に帰る?」直樹がそう尋ねた。

凛は首を横に振った。

「じゃあ、元気出してまた続けられる?」

凛はまた首を横に振った。

「困ったなあ・・何がしたいんだよ・・。」

「コレ。」凛は海ほたるくんを直樹に突き出した。

「これもらってくれたら続ける。」

「え?」

「ペアルックして」

「え?もしかしてあの課題書いたの凛ちゃんだったの?」

「うるさい、うるさい。じゃあもういい」

「ああああ。わかった。わかった。ほらこの自動車のキーにつけようかな?」

「嬉しい?」そう言ってやっと凛は直樹の目を見た。

「嬉しい、嬉しい」

「全然嬉しそうじゃない。」

「そんな事ないよ、ほらこんなふうに頬擦りしたくなっちゃう」

「全然ロマンチックじゃなかった」凛は口を尖らせた。

「え?」

「私って、すごく嫌な女・・・。」また俯いてしまった。

「ふーっ。」直樹は深く息を吐いた。


「お腹すいたね。木更津で美味しいもの食べよう」と言ってエンジンを回した。

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