ep.6 微睡の向こうで見た光景

「夏希ちゃんは今後のプランとか考えてるかな?」


「プラン?」




耳元で聞こえた問いかけに反応して青葉を見上げる。


いま夏希は着替え終わり一息ついていた。青葉の膝の上で逃げられないようにがっちりホールドされたうえでだが。もう力では勝てないと分かってしまったので抵抗はしなかった。


こうして青葉の膝の上に収まってしまうあたり、男性の頃と比べて随分と夏希は小さくなってしまった。


最近子供たちとスキンシップがめっきり減ってきている青葉は腕の中に夏希を抱きしめてニコニコとご満悦の様子だ。




「そ、プラン。大人になるとあれやってみたかった、これやっておけばよかった。とか後悔ってあるじゃない。こうして二度目の人生が始まるわけだけど目標とかあるのかなっと」


「あー、なるほど」




目標。目標ね。


たしかに後悔はいっぱいしてきた。もっと勉強しておけばよかった。そうすればもっといい仕事につけたかもしれない。けれど反対にもっと遊んでおけばよかったとも思う。中途半端に頑張っても中途半端な人生にしかならない。それなら目一杯遊んで楽しんでしまえばいい。


いろいろ考えてきた。考えただけで行動は一切起こさなかったのだが。


始めても続かない。何をやっても本当に本気になれない。すぐに飽きてしまい興味を失う。だったら何もしない方がいい。そうして逃げ道を作って何もしてこなかった。




あたらめて思い起こした自分が歩んできたつまらない人生に夏希は苦笑いを浮かべてしまう。


子供のころにぼんやりと思う浮かべていた自分の大人の姿はどんなものだったろうか。あの頃はよく考えていた訳ではないぼんやりとぼやけた未来図。なにかやりがいのある仕事をしていて、家族がいて毎日を楽しく暮らして、休日は変わらず友達と笑い合っている姿を想像していた。そんな気がする。




それがどうだ。まわりに家族も友達もはいない。両親は遠ざけ、自分の家族を作る努力もしない。かつてはいた友達ももういない。学生の頃は毎日顔を合わせて笑いあったのに、いまはお互い思い出の中。


ただ仕事はしている。生きるためにしょうがなく働いてお金を稼いで無為に過ごす。別に生きたいわけではない。死ぬ理由がないだけ。




「まだわからない。けど今度は楽しく生きたいかな」


「いいじゃん。じゃあ、そうなるためにはどう行動していく?」




楽しく生きる。考えた末に出てきたのは漠然としたものだった。


楽しいの感情は人それぞれだ。友達と話すのが楽しい。人と触れ合うのが楽しい。仕事が生きがいで楽しい。ひとりでも趣味があり充実していればそれで楽しい。


思いついたのは一例でしかないが、以前の夏希にはすべてが欠けていた。


羨ましかった。周りは自分には持っていないものを持っていた。だから目に入れないように、目を背けていた。




「友達を作りたい」


「うん。いっぱいできるといいね」




青葉は夏希の頭撫で優しく返事を返す。


いっぱいなんて贅沢なことは言わない。ずっと一緒にいてほしいとか貪欲なことは言わない。かつていた友達のように楽しく笑って過ごしたい。長く大人になってもずっと友達でいてほしい。


かつて友達だった人たちは自分を置いてどこかに行ったのではなく、自分が知らず遠ざけていた。


拒否されるのが怖かった。その友達にも交友がある。友達とその友達が遊んでいるのに嫉妬した。自分を選んでくれないのが辛かった。


学校ではいつも一緒にいる。その立場に甘えていた。プライベートで連絡することはほとんどない。本当はもっと話したかった。遊びにも誘いたかった。断られるのが怖くて誘えなかった。


自分は友達といるために学校という鳥かごがなければいけなかった。分かってる。それは言い訳だ。夏希は友達にさえ一歩踏み出す勇気のない意気地なしだ。


その積み重ねが続いた先にできたのが自分。




「いっぱい話して、いっぱい遊んで、一緒に大人になりたい」


「できるよ。夏希ちゃんなら」


「今度は後悔したくない。本当のわたしは自己中心的で我儘だけど、それを隠さず自分に素直に生きたい」


「我儘だっていいじゃないか。夏希ちゃんが道を踏みはずそうものなら、どれだけ嫌がろうが私が連れ戻してあげるよ」


「家族を大切にしたい。親孝行しときたかった」


「じゃあ。私も親孝行をしたいと思ってもらえる良い母親になれるよう努力しないとな。私の当面の目標は夏希ちゃんにお母さんって呼んでもらえるところから始めよう」


「あはは。なにそれ」


「友達作るために学校行こうね」


「なっ! 謀ったな!」




いつの間にか夏希は青葉に背を預けていた。


これだけの時間を人と話したのはいつぶりだろう。夏希は人見知りするので出会ったばかりの人と話するのが苦手だ。


頑張れば話せる。でも何を話していいか分からないだけ。


昔はそんな事はなかったはずだ。誰とでも話せて友達になれた。自分本位とその場のノリで喋っていた幼少期。


それが通用しないと知った青年期。自分と相手の会話にあるズレに気付いてしまった。それが怖くて、変な奴と思われたくなくて自分のコミュニティに閉じこもることにした。夏希を理解してくれる人以外の会話を排除してきた結果。気づけばコミュ障になっていた。




そんな夏希がいつの間にか自然に話せていた。


青葉が聞き上手なのか、これまでの経緯的に遠慮する必要がないと判断したのか。それとも身体が小さくなったことにより性格まで退行してしまったのか。


長らく忘れていた。肩ひじ張らず話すのは楽しいものだった。




『こらー! おとーさん! いま二階にいっちゃいけないって言われてるでしょー!』




下からのドタバタと騒がしい音とともに女の子の叫び声が聞こえてきた。




『もー。ダメって言ってるのに。よしっ、捕まえた! あ、こら暴れないでよ!』




「こらえ性のない子たちの我慢の限界がきたみたいだね」




徐々に近づいて来る声を聞き、青葉は扉を見つめそう呟いた。


聞こえてきた内容から香月家のお父さんがここへやって来ようとしていて、青葉の言いつけを守って娘さんが阻止しているように聞こえる。父が娘を止めるじゃなくて娘が父を止める。どういう状況だろうか。夏希は少し不安になった。


もしかしたら、この状況を香月家のお父さんは潔く思っていないのかもしれない。


この家に夏希が住むことは昨日今日で急に決まった。青葉がどう説明しているのかは知らないが他人を、しかも未成年者を住まわせるなど簡単に受け入れることができるだろうか。


娘の静止を暴れてまで振り切ってくるくらいだ。夏希の件に関して猛反対なのだろう。




怖かった。夏希のお腹を抱くように回された青葉の腕を知らずに強く握っていた。


足音が近づいて来る。


人生をやり直す気になっていた。ここで、青葉の協力のもとなら人生をやり直せるものと思ってしまっていた。だが、こんな奇跡のような話がすべてうまくいくはずがない。面と向かって反対されたら黙って出ていこう。


これからやってくる人物に何を言われても自分は大丈夫。夏希は覚悟を決めた。


閉まり切っていなかった部屋の扉はドアノブが回ることなく開かれた。


扉がカリカリという引っ掻く音とともに押され開くと、にゃー。と鳴き声を上げて一匹の猫が部屋の中に入ってきた。




「ね、ねこ?」




ゆったりとした足取りで夏希に近づいて来ると、スンスンと鼻を鳴らしてにおいを嗅いだ。




「あーどうしよー。私はダメって言ったのに入っちゃったよー。お話の邪魔になるといけないし回収した方がいいよね。だから、私はしょうがなく入ります。お邪魔しますー!」




猫によって開け放たれた扉の向こう側から、やけに棒読みのセリフが聞こえたと思うと女の子が飛び込んできた。




「こらー! お話の邪魔しちゃダメでしょ! おとーさん!」




慌ただしく部屋に入ってきた女の子は、夏希の匂いを嗅いでいた猫を補足すると捕まえ抱き上げる。


夏希はてっきり香月家のお父さんが入ってくると思っていた。


実際に入ってきたのは猫が一匹と女の子がひとりで、待てどお父さんが入ってくる様子はなかった。




「お、お父さん?」




なんの冗談か女の子は猫のことをお父さんと呼んだ。それを確かめるべく夏希は猫を指さして確認を取った。




「そうだよ! 紹介するね! ウチの猫のおとーさん!」




夏希の聞き間違えではなかった。


問いかけに対して女の子は抱きかかえた猫を夏希に見せつけるように雑に掲げて見せた。


なー。と猫は答えるようにひと鳴きし、自分を指さす夏希の人差し指を舐めた。


予想と違う出来事に夏希は気が抜け力なく腕を下した。




「お母さんお母さん! だれこの子?」




今度は女の子が夏希を指さして問う。




「そう慌てない。ちゃんと冬里たちにも説明するから。そうだな、冬里は先に行って春樹をリビングに来るよう呼んできてくれる?」


「ハルくんならもうリビングに居るよ。なんかね。顔を真っ赤にしてテレビ見てた!」


「そうか。なら私たちもリビングに行こう。そこでこの子のことを紹介するよ」


「わかったー! ほら、あなたも一緒に行こう。案内してあげるね!」


「わわっ!」




冬里は抱いた猫をポイっと捨てると、座った夏希の手を取って引っ張り上げた。投げ捨てられた猫は着地すると一足先に部屋から出て行った。








夏希は冬里に手を引かれるがまま一階のリビングに移動した。


着いた先ので夏希が起きて最初に出会った男の子の春樹と再開した。テレビを見ていた春樹は夏希を見るや否や驚いて逃げ出そうしたが、青葉に首根っこ掴まれて止められた。


夏希たち子供らに青葉は四人掛けのテーブルに着席するように言った。




「そういう経緯があって今日から夏希ちゃんをウチで預かることにしたから。三人とも仲良くするように」


「はーい!」




元気よく返事を返したのは冬里で、春樹は驚きで目を見張る。


現在リビングに集まったのが香月家の全員で、簡単に紹介された。母親の青葉に、その子供の春樹と冬里。


そして夏希の紹介をしていった。


夏希が香月家で暮らすことになった経緯が青葉の口から説明された。よくもまあ、あれだけのでまかせがさらさらと言えるものだと夏希は感心した。




青葉曰く。夏希は香月家の親戚の子供で、幼い頃から病弱でありこれまで学校にも通えず、ずっと病院での入院生活をしいられていた。世界的にも珍しい病気で治療法はまだなく死を待つのみだった。その夏希のことを知った青葉は治療薬を開発すべく研究を重ねた。そして遂に完成した新薬で夏希は一命を取り留め、こうして日常生活を送れるまでに回復した。そんな折に夏希の両親は交通事故に遭い帰らぬ人に。香月家の縁者で夏希をどうするか話し合いが行われることに。病は治ったが体が弱く、日常生活がやっと送れる程度で学校に通うことはできていなかった夏希を誰もが腫れ物扱いした。それを見かねた青葉が引き取ると宣言して今に至る。




そう春樹と冬里に説明した。


まるで夏希を物語の悲劇のヒロインのように悲惨な半生を説明した。当事者の夏希すらも話の途中で何度も驚いてしまいそうになってしまった。そういう情報は前もって打ち合わせしておいて欲しかったと心の中で青葉を非難した。




「うわーん! なっちゃんが可哀そうだよ! 私たちのことは本当の家族と思ってくれていいからね。私ことは冬里おねーちゃんって呼んでいいからね」




話を聞き終えた冬里は涙を流して夏希に抱き着いてきた。


夏希の精神年齢は冬里の倍以上は離れているはずなので、年下の少女相手にお姉ちゃん呼びするのは勘弁願いたいと思った。


テーブルを挟んで向かい側の春樹も同情じみた視線を向けており、夏希は非常に居心地が悪かった。




「はいはい! いつまでも暗い雰囲気でいたら夏希ちゃんも馴染めないでしょ。まずは春樹から自己紹介していって」




リビングに漂った重苦しい雰囲気を青葉が手を叩き終わらせる。こんな雰囲気にしたのは青葉だけどなと夏希はツッコミを入れたかった。


ちなみに青葉はあえて話を悲劇的にした。そうする事で目論見通り子供たちは夏希に同情し深く事情を掘り下げようとはしなかった。それに自分が夏希の病気を治したことにする事で、春樹と冬里から尊敬の眼差しと称賛を受け、母親としての株を上げた。




「えっと、俺は春樹だ。よろしくな。夏希ちゃん?」


「わたしのことは夏希でいいよ。よろしくね春樹くん」


「お、おう」




ぎこちない自己紹介をする春樹に、最初の掴みが大切と考えた夏希は笑顔で返事を返した。すると春樹は顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。


自分で言うのもなんだが夏希の容姿はいい方だと思う。そんな女の子と突然一緒に暮らすことを知らされたうえに、可愛い女の子から笑顔を向けられるとドギマギしてしまう。あと最初の出会いが半裸だったのもあるのかな。


春樹のそっけない態度を見て。その反応分かるなぁ。と男として思春期を一度過ごした夏希は思った。




「なっちゃん! 私は冬里だよ! なっちゃんはいま何年生かな? お姉ちゃんは中学一年生だよ」


「ええっと」




このお姉ちゃんマウントを取ってくる冬里の扱いをどうしたものか。


先ほど二階の部屋で読んだ書類では夏希の年齢は十三歳だった。昨日が誕生日で十三歳なので中学一年生になる。目の前の自分をお姉ちゃんと言い張る冬里とは同い年のはずだ。




「もおー。かわいいなー! なっちゃんは照れちゃってるのかな。恥ずかしがらなくていいんだよ。私むかしから妹が欲しかったんだよ!」




同じ年齢の二人だが身長は夏希は冬里よりも方が低い。それで勘違いをしてしまったのか夏希を年下だと思い込んでいる冬里はしきりに頭を撫でてくる。


妹ができたと思い込んでいる冬里に本当のことを言い出しにくく夏希は青葉に視線で助けを求める。




「あー、冬里。残念だけど夏希ちゃんは妹にはならないよ。同い年だからね」


「ええ! なっちゃん同い年なの!? け、けどまだ諦めない。なっちゃんの誕生日はいつ!?」


「きのう」


「うわーん。なっちゃんの方がお姉さんだったよぉ。お誕生日おめでとー!」




誕生日次第ではお姉ちゃんを継続しようとした冬里であったが、夏希の誕生日の方が早かったので思惑は外れてしまった。


なんの思い入れのない誕生日だがお祝いされてしまった。




「ぶふっ」


「あー! ハルくん笑ったな!」


「いやだって、あれだけお姉さんぶっといて、夏希の方が早生まれだったって。冬里無様だな」


「なんだとー! ハルくんなんて、なっちゃんが可愛くて恥ずかしがって視線も合わせれないくせに!」


「はぁあ! 違うし!」




お姉ちゃんマウントが空振りした冬里を笑った春樹に対して、冬里は恥ずかしがって夏希と目を合わせれなかったことをネタに応戦した。


ふたりは口喧嘩を始めてしまった。




「ちなみに春樹も十三歳で中学一年生だよ」


「双子?」


「いいや。春樹が四月生まれで冬里が二月生まれなんだ」


「なるほど」


「ふたりともそこまでにしなさい。いまから夏希ちゃんの夕飯兼歓迎会っするから準備するから手伝ってね」


「はーい! おかーさん今日のごはんなに?」


「鍋よ」


「えー。こんな暑いのにまた鍋かよ」


「お手伝いしない子は文句言わなーい」




生き絶え絶えの様子の春樹が献立に物申すも却下された。


いつの間にかふたりの口喧嘩は実力行使に移っていた。実力行使と言っても冬里が春樹をくすぐっていただけだが。


ここにきて夏希は初めて時計を確認した。


針は十八時を過ぎたところ。起きた頃まだ明るかった窓の外はもう薄暗くなっていた。


部屋の中に視線を移すとリビングから繋がる台所で、青葉は冷蔵庫から取り出した具材を切っていて、春樹と冬里がカセットコンロと土鍋を持ってくるところだった。




「あ、すいません。わたしも手伝います」


「主役は座って待ってろ」


「そうだよ。主役のなっちゃんはイスに座ってふんぞり返ってていいの! ちなみにこう言っておりますハルくんですが。なっちゃんに良いところ見せようと、普段はしないのに今日に限って進んでお手伝いしております」


「おまっ! ウソ言うなよ冬里!」


「ホントのことだもん!」 


「こらー。ケンカするなら手に持ったの置いてからしてよ。壊したら怒るからね」


「いや、ケンカ止めようよ」




また口喧嘩を始めようとするのを止めるのではなく、ふたりが手に持った物の心配をする青葉に思わず夏希はツッコミを入れた。それを聞いた春樹と冬里はそろって笑った。


春樹たちは、ああ言ったものの一人何もしないのも落ち着かないので手伝うため椅子から立ち上がろうとした夏希の膝に猫のおとーさんが飛び乗ってきてた。おとーさんは夏希の膝の上を退く気はないらしくイスから動けなくなってしまった。




結局手伝いはできぬまま夕食の用意は終わってしまった。


ぐつぐつと煮込まれた土鍋から漂うにおいにお腹が鳴った。よく考えれば最後に食事をとったのは昨日の昼食だからもう一日以上の時間が経っていた。


隣に座った冬里が絶え間なく取り皿によそってくるので、食べ終わる頃には夏希はお腹いっぱいになっていた。


食後に夏希のバースデーケーキが出てきたが、縮んだ身体にはこれ以上の食べ物を入れるスペースはなく、一口だけ食べて残りは春樹と冬里のお腹に消えていった。




食べ終わるともう遅い時間になっていた。青葉に順番にお風呂に入るよう言いつけられ、冬里に風呂場まで案内され一番風呂をいただいた。


冬里は夏希と一緒に入りたがったが、さすがに事案になるのでご遠慮してもらった。


その冬里は『じゃあ私はハルくんが覗きに来ないように見張っておくねー!』と言い残して走り去っていった。


ワンピースと下着を脱ぎ、冬里に教えてもらった汚れ物を入れるカゴに突っ込んだ。




風呂場に入るとシャワーを浴びて身体を洗う。


随分と華奢な身体になってしまった。身体を泡立てたボディタオルで洗う。ボディタオルを持つ少女の手は小さく、腕は折れそうなくらい細かった。記憶にある子供の頃でもこんな華奢ではなかった。


男と女ではこんなにも違うものなのかと夏希は自分の身体を見回した。


彼女もいなかった自分に女性になった身体は目の毒かと思ったが、自分の身体だからか、それとも起伏の乏しい身体だからなのか興奮する事はなかった。


肩まで届く髪のシャンプーに苦戦したものの、全身をきれいに洗い終え湯船につかる。温かいお湯に肩までつかると張っていた気が抜けていく。




身体の力を抜いて目を閉じると眠気が襲ってきた。起きるまで随分な時間寝ていたようだが今日は精神的に疲れた。睡魔に負けそうになり首がカクンとなったと同時に、脱衣所の戸が開く音が聞こえた。


まさか本当に春樹が覗きにでも来たのかと思ったが、聞こえてきたのは青葉の声だった。




「夏希ちゃん? 着替え置いておくから」


青葉に言われて着替えを用意していなかったことに気づいた。


「もちろん冬里のおさがりだけど今日は我慢してくれ」


「ん、ありがと」




目はつむったまま風呂の縁に頭を預けた夏希は気のない返事を返す。




「どうだった新しい家族は」


「……。まだよく分かんない」


「そりゃそうか。まだ会ったばかりだもんな。これからゆっくり知っていけばいいさ。親のひいき目もあるけど春樹も冬里も素直でいい子だ。仲良くしてやってくれ。ああ、あと冬里はこっちで引き留めておくから今日はゆっくりするといい。おやすみ」




長くは語らず青葉は出て行った。


冬里は風呂上りにも夏希の部屋に突撃してくる気だったようだ。まだ短い付き合いだが夏希もその姿が想像ができた。それを阻止してくれるという青葉に感謝した。


風呂から上がるとバスタオルで身体を拭き、用意された可愛らしいピンク色のパジャマを着た。




二階の部屋にもどる。道すがら誰にも会うことはなかった。


なにもない殺風景な部屋。壁き掛かっていたスーツは既に片付けられていた。これで自分の私物はすべてなくなった。これから夏希として生きる。




SNSに届いた短い一文から再び新たな人生が始まろうとしていた。


やり直せるのか。本当に? やり直してどうする?


たとえ姿かたちが変わっても、根本の自分は変わらない。どうせやり直したところで、また同じようなつまらない人生になるのではないか。


ずっと考えないようにしていた不安が襲ってきた。押しつぶされそうになる。不安を振り払うように頭を振振りベッドに潜り込んだ。




目を閉じた。もう寝てしまおう。


何も考えないようにしていたが、先刻四人で囲んで食べた夕飯を思い出してしまった。


懐かしいという感情がこみ上げた。




最後に実家で家族全員食卓を囲んだのはいつだっただろうか。姉が進学して家を出ていってから。いや姉は自分とは違い実家に帰ってきていたので、自分が大学を中退して実家に帰っていたころが最後か。であればもう十年以上も前の話だ。


自分たちもあれくらいの年頃のころは賑やかな食卓だった。今日あった学校の出来事を話したりしていて毎日が楽しい食事風景だった。




食事があんなに楽しいものだと忘れていた。ここ十年間家での食事はずっとひとりで食べていたから。


微睡に薄れていく意識の中。思い浮かんだのはいつか本当の家族で囲んだ楽しい食卓。きっと起きた時には思い出せない朧気な記憶。




夏希の顔に一筋の涙が伝ったことに気付く者は誰もいなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る