第8話 空白を埋める幽霊


「幽霊ってどこ行ったら出会えるんだろうねえ……」


 御法川みのりかわさんは唐突にそう言った。


 夏。むせ返るような暑さにベンチの木肌が汗ばむ皮膚にべたついている。


 ジーワジーワと蝉が大音響を鳴らす中を、いつもの公園の日陰のベンチで、長い髪を後頭部で二つのお団子に纏め、半袖ワイシャツという涼し気な恰好で、水色の水筒を太ももに挟んで座っている御法川さんは、今日も暇そうにしていた。


 御法川さんがいきなり話を切り出してくることは、山に登るとポテチの袋がぱんぱんになることぐらいに当たり前であるために、僕はいまさらつっこむことをしない。


「廃墟とか、墓場とか、薄暗いトンネルとかじゃないんですか?」


 夏だからか幽霊の話をする御法川さんに、僕は無難な回答をする。すると、彼女は小さく首を振る。


「そこらへんはもう徘徊済みさ。廃墟も墓場も薄暗いトンネルも有名な城址もいわくつきの物件も、いろいろとね。が、成果はゼロ。それっぽい枯れ尾花を見かけることすらなかった」


 心底残念そうにため息をつく御法川さんを、僕はなんだか意外に思う。


 幽霊。それは夏の風物詩。フィクションの一分野としてホラーはそれだけで一山を築いているし、愛好家も枚挙にいとまがない。が、実際に出会うとなると尻ごみする人が大半だと僕は思う。幽霊が出ると噂の物件は、心理的瑕疵ありということで家賃が最大半分にまで下がるという話も聞いているし。


 しかし、今のところ御法川さんが幽霊を怖がっている様子はまったくない。


「幽霊、好きなんですか?」


 そう聞くと、御法川さんはまたも首を振った。 


「そうでもない。ホラー映画とか見ると、それから三日は、シャワー浴びるときに目をじっとつぶる必要が出てくる」


 水場が怖くなる、というのはなんとなくわかる。


「じゃあ、なんでまた」


 御法川さんは水筒の中身を一口含み、入道雲が積みあがっている青空を見上げた。


「それでも人生一度は出会ってみたいって気持ちの方がデカくてね。ほら、幽霊って科学的には証明されていないだろ?」


「まあ、そうですね」


 証明されていたら、今ほどホラーに人気はなかっただろう。


 水晶ドクロなどのオーパーツの謎が解明されて、なんだかがっかりしたときのことがふと脳裏をよぎった。


「だからもし、仮に私が幽霊と出会ったとしたらだよ?」


「ええ」


 御法川さんはそこでぐっと拳を握って、


「同じく科学的に証明されていない超能力やUFOやUMAなんかも、実在するやもしれない。そう希望が持てるじゃないか!」


 と気炎を上げてそう言った。


 その発想はなかった。


「なりますかね?」


「なるとも。で、日本では超能力やらUFOやらよりも、幽霊なら見たって話をよく聞くだろ? だから目があると思って全国を渡り歩いているんだが、これがなかなか見つからなくてねえ」


 そう言って、肩を落とす御法川さん。


 この人いつ仕事してるんだろう。


 内心そう思いながら、僕は言った。


「幽霊なら、見たことありますよ」


 御法川さんのぎらりと光る瞳が、射るようにこちらを見つめてきた。


 身を乗り出すように顔を近づけてきて、


「それは本当かい!?」


 あまりの勢いに、僕は軽率な発言だったかとぎくりとする。


 顔を逸らしてハードルを下げるように、


「まあ、子どもの頃の記憶ですけど」


 そう言うのに構わず、御法川さんは嬉しそうにバシバシと僕の肩を叩いてきた。


「なんだい君! そんな顔しておいて、そんな面白そうな体験を独り占めしていたのかい? ずるいじゃないか」


 そんな顔ってどんな顔?


「いや、そんな面白い話ではないですけど」


「構わないさ。君の話を聞いてみたい。話してくれたまえ」


 わくわくと輝いた目でこちらを見てくる御法川さんに、僕は後にひけなくなって、遠くの青空を眺めながら、昔の記憶を掘り起こした。


 ――あれは今日と同じような入道雲が育つ、小学校の夏休みのある日の出来事でした。


 僕は宿題の忘れ物をして、それを回収しに学校に行ったんです。僕のいた学校では夏休みの間、基本的に昇降口の鍵が閉め切られていて、そういう予定外の生徒が学校に入る場合、正門近くの事務室で名前と来た目的を書く必要がありました。


 普段とは違い上履きではなく事務室で借りたスリッパを履いて、三階にある自分の教室へ。教室へと向かう階段や廊下を行く間、いつも通っている学校なのになんだか違う印象を僕は覚えていました。


 中学校とは違って部活がないからか、夏休みの小学校は驚くほど静かなんです。廊下を歩く自分の足音が響くし、学校の周りにある通りや住宅から聞こえてくる物音がはっきりと耳に届くんですよね。そのことが、普段とはまるで違う雰囲気を形作っていたんです。


 かすかな心細さを感じながら、僕は教室に入りました。そのとき、夏なのに涼しかったことを今でも憶えています。


 教室の窓は全て開かれていて、緑の匂いを含んだ風がけっこうな勢いで吹き込んでいたんです。その風に揺られて、備え付けられたベージュ色のカーテンがバタバタと音を鳴らして蠢いていました。教室正面からはチクタクという時計の音が。


 なんだか不安になって、心なし足早に、回収すべき宿題を自分の机の抽斗から引っ張り出して、カバンの中にしまって帰ろうとしたそのとき、僕は足を止めました。


 バタバタと揺られるカーテンに紛れて、誰かがいる。そう思ったんです。


 そのとき、図ったかのように一瞬だけ風がやみ、カーテンの陰に隠れていた人影を目にしました。


 曲がった背。


 皺の深い顔。


 ゆっくりと、薄い唇が動く。


「……」


 声は聞こえなかった。ただ、その人影は静かにほほ笑んでいるように見えた。


 ――おばあちゃんだ、と当時の僕は思いました。


 この夏に入って、僕のおばあちゃんは心臓の病気で亡くなって、夏休みに法事を終えたばかりでした。


 死んだおばあちゃんが、会いに来たんだ、と子ども心にそう思ったんです。


 でも、そのおばあちゃんは、僕が立ち尽くしている間に、また思い出したかのようにバタバタと揺れ始めたカーテンに隠されて姿を消しました。一瞬の出来事だったように思います。さっきまでおばあちゃんがいたあたりをしばらく探しましたが、やはり、そこには誰の姿もありませんでした。


 あとは、おぼつかない足取りで、事務室まで戻って、そのまま家に帰りました。


 ――はい、これでこの話はおしまいです。


 僕の話が終わると、御法川さんは半ば放心したように口をぽかんと開けていた。


「――あまり、面白くなかったでしょう?」


 なにしろ一瞬の出来事で、ホラー映画のようなドラマチックな事件が起きたわけでもない。


 しかし、御法川さんは首を振る。


「いや、興味深い話だった。……君は幽霊を信じているのかな?」


 僕は膝の上で組んだ手をじっと見つめた。


「僕としては、当時の僕が空白を埋めただけだと思っているんです」


「空白?」


 御法川さんは子どもっぽく首をかしげる。


「たとえばですよ」


 僕はその辺に落ちていた木の棒を拾って、地面に文字を書き始めた。


『1+4□5』


「これ、読み上げてもらえますか?」


 御法川さんは素直に答える。


「いちたすよんはご」


 僕は笑ってこう言った。


「正確には『いちたすよんしかくご』ですよ」


「あ」


 御法川さんはもう一度地面の文字を見返して、それから眉根を寄せてペテンにあったかのような顔をした。


 じっとりしめった目つきで僕を睨んで来た。


「それなんだかずるくないか?」


「すみません。でも体験できたでしょう? 人間、与えられた情報が揃うと、勝手に脳内で空白を埋めちゃうんですよ」


 御法川さんはあごに手をあてて、


「つまり、君の見た幽霊も、『埋めるべき空白』が浮き上がらせた蜃気楼だってことかい?」


「ええ、まあ」


 真昼間にも関わらず誰もいない教室、どこか遠くで聞こえる人の生活音、大きく開かれた窓から入りこむ風に揺られてバタバタとはためくベージュ色のカーテン、不安がる心、そして、どこか心の中でおばあちゃんの面影を追っていた僕自身。


 それらの状況が、教室で幽霊を浮かび上がらせてきたのかもしれない、と今になっては思う。


 そう思う僕の目を、御法川さんはまっすぐに見つめている。


「私は、信じたいけどね。おばあちゃんが君に会いに来たって」


「……どうですかね」


 なにしろ、小学生の頃の話だった。記憶ももう当てにはならない。


 僕は、言った。


「ま、こういうものは本当かどうかわからないぐらいがちょうどいいんだと思いますよ」


「……それもそっか」


「そういうものです」


 空の高みからゴーッという音が降ってきた。


 僕と御法川さんは、二人同時に顔を上げて、空に架かる一条の飛行機雲をしばらく眺めていた。


 夏は、真っ盛りだった。

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