第5話

「王后ルクレツィア、失踪」


 朝7時、王后の寝室が無人である事が発見された。

 直ちに離宮の全ての部屋と家具が改められ、彼女の不在が確定となると、離宮関係者が前述の結論に至るまでにそう時間はかからなかった。

 レグザムバーグ離宮の警備担当者から発せられたこの緊急報告は、公民保衛委コンヴァシオンが庁舎として使用するマレクティナ館へ即座に打電された。

 主席委員イシドール・ツェルヒンは、9時に彼のオフィスへ出勤すると同時にその報告を受け取った。


「現状は?」


「はっ。規定に従い直ちに駅と四門を封鎖。首都より伸びる全ての街道にも検問を設置。しかし、既に西門衛長室より出所不明の高額兌換券が発見されております。担当者エルドー門衛長以下当直兵10名は確保済みです」


 手袋を外しながらツェルヒンは彼の書記官に状況を尋ね、書記官ヨゼフ・イレネーは即座に答える。


「既に市外へは脱出済みの可能性が高いか。だが、念の為今日一日中は封鎖を継続するように。地図を」


「ここに」


 対応がわかれば、次は対処である。

 主席委員の指はゴルドシュミットの西に伸びる道を辿り、その先にある地名を確認する。


「西から出たとなれば、近隣の街はローエンとカルヌート辺りか。この2市と外洋港のあるデ・ハルヴの地区委員会には重点的に網を張らせ、廷吏隊の増援も送れ。南西の街道結節点となるエレリア市にもだ。行き違いを防ぐ為に捜索隊は首都からのみ出す」


「了解しました」


 その言葉を元にイレネーが命令文の末尾に地名を書き入れこれを完成させ、タイプライターが弾き出した命令書に印を押して待機している秘書官に手渡す。

 そして電信役の元へと移送された。


「エルドー・ジャストと彼の部下は何か吐いたか」


「昨晩西門を通過したのは4頭立て大型馬車1台のみ。側面にはファーレンス伯爵の紋章があったと主張しています。御者2名、乗員2名。応対したのは乗員の内、黒衣黒髪の若い女であるとの事です」


「黒髪の娘か。その娘が「王后ルクレツィア」であると奴らが知っていた気配はあったか?」


「いえ。「良家の子女であろう」としか認識しておりません」


「もう1人については?」


「「従者らしき男」とのみ」


「御者は?」


「顔の特徴と絵は控えさせました」


「ここまでの自白内容に虚偽や隠匿、誤認の可能性は?」


「他10名の証言との間に、齟齬は見受けられません」


「そうか、ならばもう良い」


 西門における不正に「裏」は無い。


 それが「事実」となった以上、この僅か1分に満たぬ間の供述確認により、エルドー「元」門衛長らの運命は、彼らが被告席に立つどころか、市民法廷の判事に起訴状が届けられるよりも以前に、既に決定させられていたのである。


 もし彼らが何かしらの陰謀に加担する者であれば、彼らの寿命は今しばらく延長なされたかもしれない。

 その増えた時間が、彼らにとって幸福であるかは別として。



 さて、ここに至るまで執務室の空気は張り詰めてはいたが、ツェルヒンもイレネーもその言葉が詰まる事はなかった。

 詳細こそ即興の所はあるが、基本的には予め定められた手順に則るように粛々と進められた。

「王家の逃亡」は、委員会内部で発生が想定、いや望まれていた事件である。

「いざ、事の発生時には何をすべきか」については彼らの中で既に議論が尽くされており、むしろ逃げろと言わんばかりに「王室の運命」に対する公開の討議を行い、精神的な圧迫を図っていた。


 あの10月の砲弾はエルブリヒトのほぼ全ての秩序と常識、あらゆる伝統を打ち砕いたが、辛うじて命脈を繋いだ物も幾つかある。

 例えばそれは、このマレクティナ館のようなかつては宮廷の一角であった建造物であり、その内の調度品である。

 あくまで王に忠誠を誓ったが為に、国王夫妻ともども公爵により離宮へと押し込められた数えるばかりの廷臣に近衛隊もそうである。


 そして、王室であった。


 シルクラッド公爵らの守旧派による宮廷クーデターは、彼らを政治と世情より隔絶した。

 皮肉な事に、この「公爵の横暴」があったが為に、王室は過去の政治的失点を清算し、その直後に押し寄せた破滅の荒波から避難する事もできていたのだった。


 公爵一派が首都から敗走した後も、彼らは離宮に留め置かれた。

 無能で無策な王に対する期待は既に尽き果てており、彼らが宮廷へ凱旋する事こそなかったものの、やはりそれでも民衆にとって王は王であり、共に同じ「公爵の被害者」である国王夫妻を無碍にする事もできなかった。

 故に、果たしてもとよりいかほどの人間がそれを信じていたかはともかくとして、「国王陛下のご病気」は長期化する事となったのである。


 ともあれ、革命後に首都で新たに成立した市会中央代表者大会コンセントラシオンという新政府はこの「旧体制の遺産」をどうするかで真っ二つに分かれた。


 一つは、残して象徴シンボルとする事。

 一つは、消して象徴アイコンとしてしまう事である。


 イシドール・ツェルヒンの思想は後者であり、その最先鋒の論客であった。


 来るべき新時代、彼は「人間は等しく生を享受し、求めに応じて働き、成果に応じて受け取る」事こそが理想であると日々主張していた。

 生まれながらにして「厚底の靴」を履き、それを脱がず脱げずな「青き血の魔力」は消し去らねばならない。

 その為には必要ならば「外科手術」をも執り行うべきであるとも発言する程であった。


 その為に、彼は王室が国家、そして国民と分離するのを待ち望んでいたのである。


「しかし、消えたのは王后のみか。王は?」


「余を置いて逃げたのかあの外国人は!と嘆いておいでです。三文芝居もいいところですが」


「成程?お可哀想に。しかし、王后のみか…」


 しかし、ここで初めて2名の官吏の言葉が止まった。


 ルクレツィア・エステライエは、革命以前においても王后という宮廷でも最上位の席次と十分な素質がありながら、「夫の指導力不足」やその姓が示す「出生」、未だ成人を迎えぬ「若さ」に、そして何よりも「女」であるが為に、その能力は王宮内で「浪費」されるばかりであった。


 輿入れより7年の時が経過した今になっても、彼女を「外様」と見る人間は未だ多く、その失踪を告げた所で、この事件が民衆に与える衝撃は、国王が逃げた時ほどの物とはならないだろう。

 また、「嫁に逃げられた哀れな夫」という姿は、王家の権威を毀損はするだろうが、笑い話の一つとして一般大衆の卑近な同情を買う可能性もある。

 そして、「外国人」の王室からの離脱は、王室の国粋性にある種の純化を齎してしまうとも想定された。


 よって、この「逃亡事件」は逆に民心と王室の再接近を許す契機となり得るのである。


 ツェルヒンにとって「旧弊」とは、人民の怒りと失望の当然の帰結として正されねばならない存在である。

 事を急いて、消した象徴アイコン偶像アイコンとして復活する事などあってはならなかった。


「致し方あるまい。市中会コンセントラシオンの常務殿達には「王后陛下は拐かされあそばしになられた」と報告する事としよう。これを口実に離宮の警備も倍に増やせ」


「了解致しました」


 故にイシドール・ツェルヒンは、今は勝負に打って出る局面では無いと判断する事とした。


「レグザムバーグから消えたのは、彼女のみか?」


「使用人や庭師、掃除夫等には未だ確認中の者はおりますが、国王含む王族、王党派貴族の所在は確認済みです。ファーレンス伯爵は現在ホルトラントとの交渉に赴いておられますが、その行程は把握しております。しかし、近衛隊より数名の士官が失踪しており、その内に件の御者がいるのではないかと姿絵との照合を急がせています。


 修正を終えた彼らは再び現況の把握へと移った。

 そして、数年前であればまさしく雲の上のお人であったお歴々の名を、今や彼らはリストアップして順に読み上げ、管理していた。

 それが当然であるかのような態度は一種の傲慢なのかもしれないが、一切の驕りはそこに存在しなかった。


「ただ、その近衛隊隊長のトゥール大佐なのですが」


 だが、ここでツェルヒンの右腕たる書記官が歯切れの悪い言を吐く。


「が?」


 ヨゼフ・イレネーという男が言葉に詰まる時。

 それは、「不確実が確実」である時である。

 その為に、ツェルヒンは彼に続きを促した。

 

「トゥール大佐」こと近衛を率いる「ラスティナ・イヴライン・ツー・トゥール」は、その名における「ツー」の尊称が示すのは言うまでもなく、その家名は武の名跡として名を馳せる一門の名である。

 当然、彼女もまた「厚底」を履いた人物であり、今の、そしてかつてのエルブリヒト王国において、女性の身で大佐の位にある事は「厚底」の賜物である事に間違いがなかった。

 だが、この女は全てが横並びとなったとしても、いや、むしろ横並びとなればこそ今と同等か、それ以上の地位に立つだろうと彼は評価していた。


「彼女の副官、アレーン・シグリス少佐含む近衛隊の面々より、「王后失踪の発覚後、彼女を問いただした所、離宮からの逃亡に関与した事を認め、抵抗した為、略式に刑を処した」との報告を受けております」


「ふむ。「あの近衛隊長が王后陛下をお逃げ遊ばせ」、そして「あの近衛隊で内紛と私刑が発生」か。世も末だな。で、それらの証拠は?」


 その彼女が王后を逃した?

 そんな自分達コンヴァシオンに都合のいい軽挙妄動を?

 そして部下に殺された?

 その程度の女であればどれほど楽だったか。


 これが、両名の認識であった。


「逃亡幇助については彼らの証言のみです。私刑についても、「近衛隊内部の醜聞を漏らしたく無いために川に流してしまった。仔細についてはお任せする」との事でその遺体は現在も発見できておりません。しかし、シグリス少佐の顔には鼻の骨折や内出血等、彼女の抵抗の痕跡がしっかりと残されておりました。加減された様子は無く、少なくとも近衛内部で何かしらの諍いがあったのは確実かと」


「あの女大佐が王后陛下に同行せず、殿に残り抵抗するような状態で少佐が受けた傷が銃創でも裂傷でもなく、打撲なのが少々気になるが、傷は傷か。…仕方あるまい。事情聴取の終了後は業務に戻らせろ」


「はっ」


 先のエルドー氏と打って変わって、なんともまあ寛大な処遇である事だろうか。


 ともあれ、確認すべき事項が尽き、非常事態に対する対応が完了した今、マレクティナ館は本来の求められる働きに戻ろうとした。

 その為に執務室を後にしようとしたイレネーの背に、ツェルヒンが付け加えた。


「ああ、いや、そうだ、アレーン少佐以下、その「私刑」を敢行した者には叱責と一週間の謹慎を命じておけ。表向きは、そうだな、近衛隊隊長の喪に服すとして。なんせ、ラスティナ殿は離宮へと闖入した悪漢と相争い、無念にも殉職なされたのだから」


 ツェルヒン自身も、日常の業務に戻るべく昨晩から積み上がった報告書の山に目を通しながら次を告げる。


「しかし私刑は、いけない。それは反理性的衝動行為だ。反省を促し、再発防止に努めさせるように」

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