事例3-1 占い館・Fにおける噂について
落ちていく。溺れていく。
薄暗くて、呼吸もできず、浮上するものなら押さえつけられ、引き戻される。
理不尽という言葉の意味を初めて知る。
ただ、それが見えるというだけで、苦しい思いを強いられる。
誰が僕をこんな目に遭わせているのか。
お母さんは、周りの大人たちの言いなりで、非力な僕は抗うこともできずに水の中に沈められる。
水中から見上げた水面に、大人たちの影が映る。
このまま僕は死んじゃうのかもしれない。
諦めという言葉の意味を初めて知る。
水面にまたひとつ、新しい影が映る。だが、そんなものは希望でもなんでもない。その影もまた、僕に新たな苦痛を与えるだけのものだ。そう思っていた。
「ねえ、見てごらんよ。お前さんの表情を」
水中なのに、はっきりと声が聞こえて、でも苦しくて驚く間もなく、数多の水泡が渦巻く中、目を見開く。
瞼を開くと、まだ寝息を立てたままの聖の顔が目に映った。さらさらと流れる銀髪がカーテンから僅かに挿し込む光を反射して眩しい。夜が明けて随分時間が経っていることが察せられた。
――久しぶりに、嫌な夢を見た。
未だ、あの頃の記憶が蘇ってくるのが不思議だった。もう、昔のことだと割り切っているはずだ。だが、ただ思い出すのと、夢で追体験するのとではわけが違うのだろう。呼吸が荒い。心臓も嫌なほど拍動している。季節柄、汗ばんでもいた。
春の光を眩しくて温かく感じることの幸せはありきたりなものだ。そのありきたりなものこそ、俺が生きていることを証明してくれるものだった。
新年度を迎えてしばらく経つとオカタイにやってくる恒例業務がある。
日野は、後輩であり及川の唯一の同期でもある女性同僚から声をかけられる。
「日野さん、そろそろ行きますか?」
年頃の女性にしては化粧気が薄く、惰性で伸ばした黒髪を後ろにひとつ束ねただけ。背丈も日本人女性の平均身長で、埃ひとつないパンツスタイルのスーツは彼女の体型にフィットしているため清潔感だけでいえば抜群にあるが、女らしい色気のない人間だ。
「ああ、もうそんな時間か」
「いや、まだ余裕はあるんで、もし仕事が中途半端なんやったらキリの良いところまでやってもらっても大丈夫ですよ」
阿部の言葉に日野は軽く首を振ると、タイプしていた目の前のラップトップを閉じて、背もたれにかけていたジャケットを手に取り、立ち上がる。
「大丈夫。今やってるのはただの資料整理。行こうか」
「そうですか。ほな、行きましょか――及川くん、外回り行ってくるわあ」
阿部が日野越しにオカタイ部屋の奥に向かって声をかける。そこに配置されたデスクでなにやら必死にパソコンと向き合っていた及川が、視線をそこから外すでもなく「ふたりとも気をつけて」と軽くひらひら手を振ってきた。
怪異や霊的現象というものが公に認められるようになってから、霊感商法を利用した商売はそれまで以上に厳しく管理されるようになった。探偵業をするためには警察への申請が必要なのと同じように、占いやそれに類した商売をするには怪異対策課への申請が義務付けられた。そして原則として「霊感商法は禁止されている」。あらゆる占い――例えば、占星術や手相占いなど――を行うことは法律上は認められているものの、「祖先を呼び出す」、「神に声を聞く」などという「降霊術」は取り締まられる。そのため、いわゆる「イタコ」、「ユタ」、「口寄せ」と呼ばれる職業は表向きには激減した。しかし、文化や信仰の弾圧だという反発もあり、占星術や手相占いと謳いながらも今尚それらを生業とする人間が居るのが実情である。
そういった「違法な」商売を行う人間を精査し、法律違反が認められる場合は警察に応援を要請する。その精査を行うのがオカタイの業務だった。実際に霊感商法を行なっているかどうかを見極められるのは、霊的現象へ現実に直面している人間だ。実際に霊感商法が本物であれ偽物であれ、それはそれ、これはこれ、という問題である。そしてオカタイに所属する人間にとっては霊感商法が偽物であることの方が望ましい。それは手続きの問題もあるが、事後処理が極めて面倒くさくなるためだ。偽物であれば、警察が詐欺としてしょっぴくだけで終了のところ、本物であれば、その商売人を警察に引き渡して法的な制裁を受けさせたあとも、適切な管理下に置く必要が出てくる。憑物落としや霊媒は特定の施設、例えば市教委管理下の神社や寺で執り行うのが法律で定められているため、そこに斡旋するなど――そういった事後処理が発生するのだ。
要するにただ占いをしてくれているだけならどうでもいい、という話だ。霊感に頼らない――頼っていたとしても、ある一定の法則に則ったただの占い、つまり、ただの与太話を信じるか信じないかというのは客次第だからだ。
阿部の車の助手席に乗り込みながらスマートフォンで登録された占い師たちのリストを開き、日野は苦笑いを浮かべて運転席を見る。
「いつもすまん」
何に対する謝罪なのかわかっている阿部は、首を振りながら微笑む。
「片目だけの人に運転させる方が鬼ですよ、日野さん。迷惑なんて思ってへんから、気にせんといてください」
「……聖と阿部さんだけがそうやって直球で言ってくるよな」
「他の先輩らはなんて言ってはるんですか?」
「うーん……年上が運転するのが普通だとかなんとか」
「ふうん……まあ、皆さんも気遣ってはるんでしょ。日野さんは謝るよりもお礼を言わはる方がよっぽど健全やと思いますけど」
まさに正論だ。日野は阿部の指摘にさらに顔を苦いものに変化させる。それを見た阿部は「ハハッ」と声をあげて笑い、シートベルトを装着した。
「そんな顔させてんのが及川くんにバレてもうたら怒られてしまうし、やめてくださいよ」
「……そうだな」
日野と及川の関係性は周知の事実であった。そして及川が異様に日野に対して執着を見せていることもオカタイの皆が知るところだった。
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