事例2-6
後日、オカタイにて。
「及川さん、先日はご同行いただきありがとうございました。今回の報告書とそのデータです」
「わざわざ届けてもらってありがとうございます。確かあのあと学校からの報告も……」
「はい、生徒指導の概要と当該生徒の経過観察についても記載済みです」
及川のデスクの前にはメガネをかけた男が快活そのものの表情で立っている。
「助かります――三浦さんに関しては特に問題はなさそうですね」
報告書の印刷された紙をめくりながら及川が呟く。生徒指導の期間などを考えるとかなり早く報告書を仕上げてきている。及川は私怨のこもった感情を大和に抱いているものの、この迅速な対応には毎度感謝の気持ちを抱かざるを得なかった。オカタイ内の部下でさえ報告書の締め切りをぶっちぎってくる人間は複数人いる。課外の人間である大和は本当に仕事が早い上に内容も正確で過不足がない。ありがたいことこの上ない。
「はい。三浦麗に関しては教師の見守りの中、徐々に他三人と距離を置くようになっているそうです。無理して友人関係を築いていた上に進路もまったく違うようなので……教頭からの話を聞いている限り、一時の寂しさを彼女自身は感じているかもしれませんが、その執着はおそらく無意味だと本人も気づいている、と」
「執着、ね……」
他人事には思えない話と、そして中学生ながらに己よりも達観した考えを得ることができたかもしれない少女の話を同時に聞かされ、及川はなんとも気まずい思いだ。
それを知ってか知らずか、大和は別の話題を切り出す。
「ところで、オカタイ側の報告書は……」
「担当の日野が外回り中でして。僕が既に預かっていますのでお渡ししますね」
及川がデスクの引き出しから印刷された報告書とデータの入ったメモリーを取り出し、大和へ引き渡した。大和は手渡された報告書をその場で素早く確認していく。
「……R寺のどの仏様が関わっているのかと不思議だったんですが、吉祥天ですか」
「はい。幸福や富を顕す神、もしくは御仏ですね。三浦親子もその幸福にあやかろうとしていたのだと思います――今時御百度参りをするような人間も珍しい。そのため、吉祥天の御心も彼女たちに傾いてしまったのでしょう。大和さんはご存知かと思いますが吉祥天はヒンドゥー教の女神の一柱・ラクシュミー……一説では愛の神・カーマの母ともされている。人との関係性、友人愛に飢えた三浦さんとカーマを重ね合わせてしまったのかと……そういう推察もできますね」
「なるほど。母心が今回の事件を招いたと」
「そうですね。坊主がお経を上げたお守りや札ならまだしも、吉祥天の祈祷を直接授かったような小石はやはり普通の人間には荷が重すぎた、というところです」
「屋上の人影は検証結果として『実在した』。フェンスや屋上の構造物の影が重なるタイミングで人間大の影が発現する……しかし、吉祥天に感応した三浦麗の精神が本人に何かが落下してきたという幻聴を聞かせたんですね」
「ええ。そこから集団ヒステリーに発展した、というわけです。『人影』は転落すらしていないのに、皆が一様に『落下した』と思い込んでしまった。思春期の女子同士は特に互いに感化しやすい……学校へ忍び込もうと言い出したのは誰でもなく、吉祥天が三浦さんに囁いたのでしょう。もしくは三浦さん自身が発言した可能性すらある。本人は無自覚でしょうが、ね。そこから自然と話が膨らんでいき……あとはご存知の通りです。警備システムも検知に少々タイムラグ発生していただけで実は働いていた。彼女たちはそれに気づいていなかった、というだけのこと」
及川の精悍な顔立ちは今は少しだけ疲れているようだった。そして「はあ」と溜め息を漏らす。
「……なんでもないただの石っころが綺麗に見えて、それをちょっとした宝物として持ち帰ったつもりが、実はとんでもない代物だった。少々気の毒ですが三浦さんは事故に遭ったのと同じようなものです――だから、神社や寺のものはたとえそれがどんなゴミに見えようとも持ち帰ってはいけないんですよ。神や御仏の領域内のものはすべて、その力が関わっている……あっ、すみません……話しすぎました……」
一通りの考察は報告書に記してあるのだが、愚痴めいた文句を漏らさずにいられなかった。
昔では「常識」だったことが今や忘れ去られつつある。神々や御仏の領域内のものの持ち出しは危険だという認識をどの程度の人が持っているのだろう。そもそも私有地内のものを持ち出すのはどんなものであれ法令的に見て単純に窃盗行為になるのだが――そんなことを考えていると及川は頭痛がする思いだった。
一方、及川の語りを聞いていた大和は満面の笑みを浮かべると、首を左右に振った。
「謝らないでください。むしろ興味深い。やはりオカタイの方々と仕事をするのは研究が捗ります。及川さん、今回も本当にお世話になりました。また何かあればよろしくお願いします」
快活に歯切れよく挨拶を告げると、満面の笑みのまま颯爽と立ち去っていく大和。
――皐月さんが絡まなければ、本当にただの良い人なんだよなあ。
及川はまたも居心地の悪い思いで後頭部を掻きむしった。
出張が長引くこともなかった日野は及川と共に帰宅し、一緒に晩御飯を食べていた。そんな中でふと思い出したように箸を止めた日野が言葉を発する。
「そういえばこの前の報告書……」
「あー、あれ。皐月さんが出張に行ってる間に案の定大和さんが来てくれたから渡しておいたよ」
「あっ、マジかよ」
「え、もしかしてどこか訂正でもあった?」
悔しそうな表情を浮かべる日野に対して、及川は内心冷や汗をかく。
一応、報告書の内容はすべて目を通したつもりだったが。何か問題を見落としただろうか――。
しかし、及川の不安はすぐに裏切られる。
「いや、そういうわけじゃねえけど。今日出張先で美味しそうなお菓子買ってきたからそれも一緒に渡せたらよかったなあって思ってさ」
日野は年上から好かれやすく、日野も懐く相手にはとことん懐く。及川にとっては面白くない事態だ。
「ふーん……残念だったね」
「ま、明日にでも渡しにいくから良いけど」
「……そうだね」
面白くない。だが、面白くないと思っていることを悟られたくもない。そうなると及川ができることは少ない。無理矢理笑顔を作るのも癪だったので、無表情に相槌を打ち、食事を進めることだけに集中する。
今日の晩御飯のメニューをゆっくり味わう――マインドフルネスだ、及川聖……。
しかし、そんな及川の努力も虚しく、長年及川の恋人を続けてきた日野にとって目の前の男が多少ならずいじけていることくらいはお見通しだった。
「なあ、聖」
「……なに」
口内に広がる米の甘みをじっくり味わうばかりに、日野への返答が少しだけ遅れる。茶碗に落としていた視線を日野の方へ向けると、女に見紛うほど美しい相貌を持つ男は、食事中だというのに食卓へ頬杖をついて優しく笑みを浮かべていた。
「今日の出張先で良さげなカフェを見つけたんだ」
「……うん?」
「お前と行きたいと思ったから、まだ立ち寄ってなくてさ」
「……うん」
「今週末、車出してくれよ。予定、なんもなかっただろ?」
「……皐月さんは、ずるいな……そうやって言ってれば俺の機嫌が取れるとでも思ってんでしょ」
日野の意図を察した及川は唇を尖らせながら、しかし浮かれる気分は抑えることもできず、言葉尻が少しだけ弾んでしまった。
わかりやすく、素直な恋人に、日野はまた愛おしさを募らせるばかりで、右目の奥がまた疼き出すのを感じた。
<終>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます