第2話
厨房に買い物カゴを渡して仕事を完了させると、私は気の進まない足をどうにか動かして、ご主人様のいる屋敷の書斎兼執務室へ向かった。元々は単なる後者に過ぎなかったのが、もののついでという魔法の呪文によって大量の研究書や実験道具が持ち込まれ始め、今となっては部屋の半分以上がそれに埋め尽くされているのだ。無論その掃除と管理は私の仕事である。
「ご主人様、カハルです。今戻りました」
コンコンコン、とノックをした上でドアノブに触れると、扉の真ん中に取り付けられた小さなタペストリーに縫い取られた小鳥が羽ばたき、
「オソイ!オソイ!ナニシテタ、ナニシテタ!」
「古い友人にあったので立ち話してたんです」
「オンナカ!オンナカ!」
「クリストファー・タヴェナントです、ご主人様。偶に研究室にお茶を飲みにきていたでしょう?」
「それを早く言え、カハル」
途端に扉が内側に向かってガタンと開かれ、中から背筋がゾッとする程冷たい風が吹き放たれた。見ると部屋の中央─左右には天井に届く程に背の高い本棚が据えられ、それでも溢れ出た書物が床に野積みされている─に置かれたデスクの上で、紺色のジャケットを召したご主人様が何やら怪しげな実験に興じている。手元には青白い光が仄かに灯っており、そこから震えが止まらなくなる程に冷たい空気が机の上に置かれた桶の様な器具に向かって放たれていた。
桶の中央にはぐるぐると勝手に回り続けるハンドルが取り付けられており、そのせいか何かを削り取る様なごりごりという音も響いている。それで分かった、あれは─
「あの!一体何をなさっているんですか!?」
「アイスクリームを作っているんだ、魔法で。お前が帰ってきたら出してやろうと思ってな」
「非効率ここに極まれりな魔法の使い方はやめてください、ご主人様。本に霜が降りて駄目になりますよ」
「おっと、それは困った。一度作業を止めよう」
パチン、と指を鳴らす音が響くと同時に全ての作業が止まる。私は氷の浮かぶ北極海を彷彿とさせる寒さの部屋を元の温度に戻す為に窓を開けると、金型からアイスクリームを取り出して呑気にグラスに盛り付けているご主人様に白い目を向けて、
「あの、ご主人様。呑気にアイスクリームを盛り付けるのはやめていただけますか」
「思考には糖分が必要なのさ、カハル。魔法もまた然りだよ。ほら、お前の分もあるぞ、特別にウエハース付きだ」
机の上の材料を見ていると、近年価格高騰が著しいキュウリに、地下の酒蔵から持ち出してきたと思しき高級コニャックの壜が並んでいて、思わず頭がくらくらしてくる。こういうことの積み重ねで、数百年続いた公爵家が傾いてしまうのだろう。
「(最近はまともな振る舞いが増えたと思っていたんだけどなあ)」
嬉しそうにスプーンを舐めるご主人様を見ながら、私は深いため息をついた。王国でも指折りの魔法学者である筈のこの人は、その実中身はいたずら好きの少女時代をそのまま引き摺っているのだと、今更ながらに思い知らされる。周りの人間はいつもこの人の才能と気まぐれに振り回され、疲れ果ててしまうのだ。無論、一番側でお迎えしている私も例外ではない。
「まあ、材料が勿体無いので頂きますけど」
「おう、食え食え。おかわりも作るぞ」
「やめて下さい、危ないでしょ!」
「いや、さっきまでの塩梅でアイスクリームをピンポイントで作る魔法が出来た。見てろ」
ご主人様は机の上に置かれた材料を乱雑にボウルの中に混ぜ合わせ、それをアイスクリームメーカーの中に嵌め込まれた金型の中に流し入れる。本来であればこれを囲い込むように氷を詰めるのだが、ここを魔法で代用すると言うのだろう。
ご主人様がニヤリと笑って深い深い青の瞳を見開くと、ごく一瞬そこに常ならぬ光が宿る。やがて、氷の無いままにハンドルがぐるぐると高速で回転し、水蒸気が結露した竜巻状の白い痕跡だけが器具の外側に残った。
「完成だ。これで夏の暑さにも耐えられるな」
「いい加減にして下さい!」
使用人の分際で出過ぎた真似を、と言われても仕方がないが、それがこの公爵家の家風である。私が雷を落とすとご主人様は不満げに頬を膨らませながら器具を(流石に手で)片付け、厨房付きの召使に取って行かせた。そして、グラスによそったアイスクリームの残りを食べながら、
「それで、カハル。梨と葡萄は買えたか」
「ええ、まあ。言われた通りどっさり買いましたけど」
「ならいい。明日になったら氷漬けにして、領地の方に送る。品種改良なんかを試してみたいからな」
「それなら、問屋で買い付けを命じられれば……」
「やれやれ、分からんかカハル。何故このわたしがお前にわざわざ買い物を命じたと?」
「何か、お考えでも?」
ご主人様は深海色の瞳を好奇心に煌めかせながらにっこりと笑って、
「単純に、クソ暑い中お前が買いに行くのをみたかっただけだ」
べしん。過去最も力を込めておでこを叩くと、ご主人様は痛い!と悲鳴を上げてそこを抑えた。本当にこの人は、使用人を慈しむのか使い潰すのか良い加減に態度をはっきりさせてもらいたい。
「つまり、私はご主人様の嫌がらせや鬱憤晴らしのために過酷な仕事を命じられたと」
「ま、まあそう怒るなよ。ほら、アイスクリームまだあるから食え、な?」
「頂きますが」
作りたてのアイスクリームはスプーンに乗せた時点で半分ほど溶けていて、舌の上に載せると瞬く間に液状化して形を失っていく。キュウリの清涼感ある香りとクリームの濃厚な甘味が混ざり合って、酷暑の染みついた体がゆるりとほぐれて行った。
「いいですね、これ。美味しいです」
「そうか、なら良かったよ。今度ディナーの付け合わせにでも出してみようか。夏場はどうしたって、食欲が落ちてしまうからな」
「そうですね、そうして頂けるとありがたいです」
早々に自分のグラスを空にすると、ご主人様はそのまま書きかけの実験記録や事務の文書を魔法で手繰り寄せ、何台か据えられたタイプライターの中に差し込む。すると、彼らは触れられもしないのに勝手にパチパチとキーを動かして文章を打ち込み始め、忽ちのうちに机の上にはしっかりと活字化された資料が順番通りに積み上がった。その間本人は何をしているのかと言えば、襟元の紐ネクタイを緩め、のんびりと安楽椅子にもたれ掛かりながら、目を閉じて深淵な思索の中に心を旅させている。この辺りだけを写真で切り取れば確かに稀代の魔法使いらしくは見えることだろう。
「そうだ、ご主人様。少しお話が」
「なんだ」
「明後日のお休みなんですが、少し外出してきます。先程お話ししましたが、クリストファーと話した時に家に招かれまして」
「お前一人か?」
「分かりませんが、恐らくはそうです」
「ならいい。もし舞踏会か何かだったら許さないところだったがな。日暮までには戻れよ」
「かしこまりました」
相変わらず、この人は私の側に女の影がないかどうか、常に神経を尖らせている様だった。その気持ちを完全に理解できないわけではないが、やはり私たちの間には決して埋められない身分の差というものが厳然としてある。それを乗り越えて尚、私に気持ちを向けておいでなのだとしたら、それこそ理解の埒外だ。
「(何というか、少し申し訳ない気持ちにもなってくるな。これだけ沢山のものを貰っているのに、私は何一つこの人が欲しいものを返して差し上げられないのだから)」
とはいえ、その考えが頭に薄らとよぎるあたり、私も使用人としては失格なのではあるまいかと少しの悔しさが滲む。ある意味似合の主従関係と言えなくもないのではあるまいか。そんな風に思った。
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