水槽のリヴァージョン
うみゃうにゃ
第1話 水槽のリヴァージョン
俺は、人として死にたい。
淡水魚と海水魚を、一つの水槽で共存させることは本来不可能なはずだった。生まれ育った環境が違うのだから、当然といえば当然だ。しかし、それを覆す「好適環境水」というものがある。
これは、海水から魚に必要な成分だけを抽出し、絶妙な塩分濃度で調整した特別な水。見た目は淡水に近いが、そこには淡水魚も海水魚も生きられる環境が作り出されている。まるで、異なる世界に生きるもの同士が、奇跡的に交わるための舞台のように。
異なるルーツを持つ魚たちが、同じ水の中で泳ぐ──それは、一つの理想郷のようにも思えた。
「安食くんはさ」
藤野千景(ふじのちかげ)は、安食阿佐美(あじきあざみ)に声をかける。
「好きなの?ネッシー」
「…」
少年は答えない。あるいは答えたくないのか。
「見て!ネッシーがこんなに近くに来てくれた!」
明るくなった少女とは裏腹に、無表情で水槽を見つめる少年。
「動物がそうやって人に近づくのは、別に愛情があるわけじゃないだろ。餌をくれる人には、どうしても好かれるもんだ。ただの勘違いだろ。」
「それでも、ネッシーの仕草が優しくて、心が温かくなるんだ。動物って、ちゃんと自分の気持ちを表現してくれるから好きなんだ。」
「気持ち?それを『愛情』とか言い換えたところで、それが本当に愛だと証明できるものなんてないだろ。動物はただの本能に従ってるだけだ。愛情なんて、結局はお前の一方的な解釈だよ。」
「でも、そんな言葉を聞いても、私は嬉しいんだよ。自分が信じるものを、信じ続けることって大事だと思う。安食くんだって、動物が好きなんでしょ?」
「……それは、好きだ。だが、それと人間関係は別だ。」
「それは分かってる。つもり…でも、動物だけは信じられる。」
「信じる、か……。お前はいつまでそんな幻想を持っていられるかな。」
「で、何しに来たの?デートじゃないんでしょ?」
「当たり前だろ」
顔を背ける少年。
「兄貴がここに来る気がする。まあ、勘てやつだな」
「スタンド使いは惹かれ合う?」
「本当のジョジョ好きは安易にジョジョネタ使わない。覚えとけ。」
「はーい。」
「真面目に話すと、あのネッシーとかいうのはおそらく兄貴の"回帰"に近い力で生み出されたものだ。」
回帰。彼らは自らの人としての領域を超えた異能をそう呼んでいた。神話の時代に戻り、その権能を奮う。故に回帰。安食阿佐美の兄、安食消悟(あじきしょうご)は、この世ならざる生き物、異形を産み出す回帰の能力を所持していた。
ーーーーーーーーーー
「グリーンライフ」
安食消悟は、乳母車をそばにした女性にそう告げる。
「僕の回帰の名前です。この水族館のように、生物多様性を重視した名前にしました。」
薄く笑う男の言葉がはっきり嘘だと分かると、見えないように歯噛みした高田もれは、自分の赤子を見守りながら、いつでも臨戦体制に入れるように、その特有の爪を伸ばす。比喩ではなく、爪が伸びて鋭利なナイフのようになるのだ。この女性は。
「さながら、私たちの神様ってところですかね?」
嘘には皮肉で返す。矜持ほどではないが、一種のマナーとして、高田もれは安食消悟に問い返した。
「ええ。そうですよ。」
…この男には皮肉が通じない。理解が出来ていないのではなく、こちらの文脈を踏み躙るほどの"力"を持っていることを、もれはひしひしと感じざるをえなかった。
…無尽蔵ではないはず。きっと何か制限がある、それを暴ければ、この男に勝てる。
もれは今にも飛びかかりそうな怒気で消悟を睨むが、さきほどと同じように、男は意に介さない。
「しかしネッシーの血ねぇ。どういう異形だったかな。あれは。いやあご先祖様の文献一応調べてるんですけど、出てこなくて」
「不老不死ですよ」
わざと焦らす消悟に、不意打ちのように答えを突きつける。
「あの異形を食べて、私達の祖先は不老不死になったんです」
あ、そうでしたか、と、本当は分かっていたにも関わらずとぼける安食消悟。
「で!そこの赤ちゃんも自分と同じにしようと!そういうわけですね。」
「ッ…」
皮肉で返せなくなる。何故こんな軽薄な男が神にも等しい能力を持っているのか。何が回帰だ。回帰使いはみなひとでなしだ。
「では、てはず通りに…」
会話を打ち切ったもれを横目に、まだまだ遊べそうだなと男は舌なめずりした。
ーーーーーーーーー
「お兄ちゃん、また泣いてるの?」
「カフカが死んじゃった…なんでこんな回帰を授かったんだろう。もういやだよ…」
カフカと呼ばれた骸は、上半身が猫の姿、下半身がタコの姿をしていた。
「大丈夫。僕の回帰があるから」
弟は兄に手を差し伸べる。
「うん。気が楽になった。いつもありがとう!」
「ううん。お兄ちゃんには笑っててほしいから家族みんなに笑っててほしいから。」
お母さんにもお父さんにも、お兄ちゃんにも、みんなに笑ってて欲しいから
ーーーーーーー
「安食くん?」
「あっ」
不意に声をかけられ、我に帰る。白昼夢というやつだろうか。考え事や記憶を思い出していると、会話が耳に入ってこなくなる。
「お兄さん、みつかりそう?」
「あ、ああ、兄貴というより、アイツは自分では実行せず、他人にやらせるからな。兄貴の息のかかってそうな人を探した方が良いと思って。」
「そんなの分かるの?」
「俺も異形を産み出すことはできなくても、異形の気配ぐらいならなんとなく分かる。まあその血が俺にも流れてるってことだな」
ふと、阿佐美は目を見開く。
「ちぃ。」そう言って千景と共に壁に隠れる。
「えっ」
「あっ、その、小さい頃はそう呼んでただろ、いや、咄嗟に出ただけだから。」
「あー、丁寧な舌打ちかと思った。」
「あそこの水槽の前の、乳母車引いてる女の人。あの人異形だ。」
「全然普通の人に見えるけど…」
「確か人型タイプの異形は吸血鬼とかが居たな。まあ伝承にあるタイプはほとんど兄貴の回帰ではまだ作れないはずだ。おそらく俺のご先祖が産み出した異形だろう。」
そして阿佐美は目を疑う。
乳母車に近付く兄の姿。
「なあ、もれさん」
ゆったりとした声が響く。
「この子、可愛いだろ?」
「?爆弾はまだ…」
布の下から見えたのは——人間の赤子のようなもの。
いや、しかし……その肌は異様に光沢があり、機械的な筋が浮かび上がっている。
呼吸のような微かな膨らみと縮みを繰り返しながら、時折、その小さな腕をピクリと動かす。
「まさか……」
もれは即座に理解した。
これはただの赤子ではない。爆弾と融合した——安食消悟が作り出した最悪の"異形"。
「なんてことを……!」
鋭く睨むもれに対し、消悟は笑みを深めながら肩をすくめる。
「何がそんなに問題なんだ? 赤子と爆弾——どちらも、うるせー音を出すのが得意だろ?」
次の瞬間、異形の赤子の小さな口が不自然に大きく開いた。
「ぎ、ぎゃああ……」
——警告音。
甲高い電子音のような泣き声が響いた瞬間、水槽全体が振動した。
まるで空間そのものが波打つような衝撃。
「ッ!」
もれは即座に乳母車を抱きかかえ、後方へ飛び退る。
水槽のガラスにひびが走る。
ガコン……ガコン……ガコン……
その亀裂は、まるで生きているかのように波打ちながら広がり、
ついに——
——ドォォォォォォォン!!!!
水槽が爆ぜた。
大量の水が弾け飛び、ガラスの破片が無数の凶器となって宙を舞う。
ネッシーの巨大な影が崩れ落ちる水槽の中から現れる……
突如、ギギギギギィィィィィィ……! という重厚な駆動音が響き渡る。
天井から降下してくるのは、災害用の巨大シャッター。
「閉じ込められた……!?」
非常時に水族館全体が浸水しないように設計された防護システムが作動し、
館内を完全に封鎖する。
だが、それがまるで「意図されたもの」のようにさえ思えた。
「ねぇ、もれさん」
静かな水音を踏みながら、消悟が歩み寄る。
「なにか困ったことでも?」
「計画はまだっ」
水が床を覆い、足元が不安定になっている。
もれは水に沈みかけたネッシーを見下ろし、奥歯を噛み締める。
「……ごめんなさい」
何より、ショアを守るために。
もれの指先が伸び、爪が鋭く変化する。
水の反射で煌めくその刃が、ネッシーの首元へと向かう——
ーーーーーー
ショア。
もれとその夫が名付けた赤子の名前。
「人を導く、なんて大それたことは言わない。この子が、誰かの道を、ちょっとだけ明るくしてあげて、そうしたらもう十分だよね。」
明るい笑顔。ショアにそっくり。違う。逆か。私には似てない。似なかった。私は化け物だから。何年も生きてきて、ようやく辿り着いた。でもあの人も、私と最後まで並んではくれなかった。ショアには私と最後まで一緒に居て欲しい。最後があるなら。
ーーーーーーーー
「できない…」
「は?」
「私には、殺せない…ここまできて、あなたに弄ばれて、ショアと生きていくためのチャンスなのに…」
「つまんな」
消悟の手のひらから赤ん坊が次々と生み出されていく。
その全てを、藤野千景が引き裂いた。
「…ははっいいねえ!俺と同じタイプか!」
「消悟ォオオオオオオオオ!」
叫ぶ阿佐美。千景の手は怯まない。青い瞳に、頭上から縦に伸びた耳。さながら猫を思わせる姿。千景の回帰は、極まっていた。
「ノクティス」千景の"人間大で猫の身体能力を使える"という回帰だ。
「ここで、あなたをコロす」
「俺も同じこと考えてた!」
次々と赤子の異形を産み出す消悟。それが起爆する前に全てを引き裂く千景。
…これは一旦無理だな。まさか俺と同じタイプが居るとは
消悟は赤子で壁を作りながら、シャッターを爆破して逃走経路を確保する。
「阿佐美ィ!お前の回帰じゃ俺に届かないから、この女に代わってもらおうってかあ!?随分なことだなあ!なんせ人の気を楽にさせる程度の回帰だもんなあ!」
違うんだ兄さん…俺の回帰なんだ…
「俺の回帰で…二人は戦ってるんだ…」
気を楽にさせる。それが安食阿佐美の回帰"クレイドル"…しかしそれは、突き詰めれば"人から罪悪感を無くすことができる"回帰であった。
逃走経路は確保した、後は…うん?何で天井が逆さになってんだ?あぁ。
千景の口元には、消悟の首がぶら下がっていた。
「つまんねーな、俺」
涙を流す阿佐美に、消悟は続けて声をかける。
「阿佐美ィ!これで終わったと思ってんのか!?俺は俺をたくさん産んでるぞ!この女みてえに不死なんだよ俺はあはーっはっハァ!」
それが、兄の最後の言葉だった。
涙を拭った阿佐美は、ネッシーに触れ、治癒とまではいかなくとも、痛みを和らげてやる。
「麻酔代わりだ…」
「ごめんなさい…今更謝って、どうなるものでもないけど…」
阿佐美はもれに振り返る。
「あなたは何もしていません。だから大丈夫。」
生首を口から落とすと、千景はその場に倒れ込む。それを阿佐美は分かっていたようにそっと支える。
「あれ…また寝ちゃってた…?」
「ああ、大変だったんだぜ?でもそこのお姉さんが助けてくれたよ」
「そうなんだ。もうちょっと…寝る。」
そう言うと、千景は阿佐美の腕の中で丸くなった。
「お休み、ちぃ。」
お父さんは…
声が聞こえる。直感で分かる。母だからか、異形だからか、そんなことはどうでもいい。ショアの声だ…
「お父さんは、お母さんが明かりだったんだよ。」
ショアの回帰は"ルーメン"言語ではなく、思念が伝わる。そんなメカニズムはどうでもよく、もれにとっては、
「私が、あの人の明かりだったんだ…」
「だから僕は、人として生きていきたい。お母さんと。」
ーーーーー
言葉を生み出したのは、思いを残したかったから。自分が死んだ後も、愛する人に思いが残るように。でも思いは誤解されていくもの。思いは呪いになり、呪いは人を信じられなくさせる。
阿佐美は兄を呪ったことはない。いつも自分の回帰を呪っている。兄を救うはずだったのに、兄の心を引き裂いて、好きな人の心を引き裂いて。
でも大丈夫だよ安食くん。
安食くんの罪悪感は、私が全部食べちゃうから。
ーーーーーーー
水槽のリヴァージョン
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