【幻想短編小説】神秘図書館の錬金詩術師 ~無限書架の夢見る蝶 ~(6,882字)

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ:迷宮の入り口

 私が目を覚ましたとき、そこは無限に広がる書架の迷宮だった。


 頭上を見上げれば、螺旋を描くように伸び続ける書架の列が、どこまでも続いている。足元を覗き込めば、同じように底なしの深淵へと続く本の海。古びた革装丁の背表紙が、新しい光沢を放つ表紙が、まるで呼吸をするように微かに震えながら並んでいた。


「ここは……どこ?」


 自分の声が、予想以上に空虚に響いた。どうしてここにいるのか、記憶が霧の向こうにあるようではっきりしない。いや、もっと根本的な問題として――私は誰なのだろう? 名前すら、うまく思い出せない。


 ただ一つ、確かなことがある。この迷宮に、私は導かれるように来たのだ。それは偶然ではなく、必然。そう感じられた。


 私の周りでは、本から漏れ出る光が、まるで蛍のように明滅している。その光は、どこか懐かしい。まるで遠い記憶の残響のように。


 手を伸ばすと、一冊の本が私を招くように輝きを増した。革の装丁は柔らかく、温かい。開くと、そこには見覚えのある情景が描かれていた。


 実験室。複雑な数式が並ぶ黒板。白衣を着た一人の女性が、真剣なまなざしで方程式を見つめている。その横顔は、どこか私に似ている。でも、違う。彼女は私より少し年上に見える。そして、その目には私には見たことのない確信が宿っている。


 ページをめくると、今度は公園のベンチで詩を書く女性。やはり私に似ているけれど、どこか違う。彼女の手元には、私には書けないような美しい言葉が並んでいる。


 本を閉じると、私の指先が微かに震えていた。これは、私の記憶なのだろうか? それとも、私になりえた可能性の残響?


「記憶も、可能性も、すべては物語になる……」


 どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。それは私の声にも似ていたが、同時に誰のものでもないような響きを持っていた。


 私は歩き始めた。この迷宮には、きっと答えがある。私が誰なのか、どうしてここにいるのか――その謎を解く鍵が。


 書架と書架の間を縫うように進んでいく。時折、背表紙が柔らかな光を放ち、私を導くように輝く、


「来なさい……」


 蝶の羽ばたきのような、かすかな声が響く。


 私は迷いながらも、その声に導かれるように歩みを進めた。それは始まりの一歩。無限の書架の迷宮で、私だけの物語を見つける旅の第一歩だった。

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