七物語
佐藤宇佳子
ごあいさつ/プール
皆さま、本日は七物語の会へ遠路はるばるお越しくださり、誠にありがとうございます。ここに集われた六名さまは、わたくしの七物語開催の呼びかけにご興味をお持ちになり、応じてくださった方々でございます。どなたさまも互いにご面識がないことと存じますが、これ以上のご紹介など、会の趣旨ににそぐわないばかりか、無粋の極みでございましょう。割愛させていただきますことをご承知おきくださいませ。
七物語につきましては、呼びかけのおりにご案内させていただいておりますが、立待月を眺めつつ、七人の面識のないものたちが、これまでで最も不可解で忘れがたい『喪失』について一話ずつ順に語っていくという、ただそれだけの会でございます。
ええ、そうでございますね。伝承によれば、七物語とは百物語の呪術的要素を凝縮した、失せもの探しのまじないだったそうでございます。そのむかし、ひとびとは現代よりはるかに少ない道具を使って生活しておりました。大切に扱い、こまめに手入れをし、代々受け継いで使い続けたものでございます。すべてのものには神が宿り、それらは道具であると同時に素朴な信仰の対象でもありました。粗末に扱えば祟られ、失くせばたちまち生活にひずみが現れます。七物語は生活になくてはならない、大切な秘術でもあったのです。
しかし、失う対象は、なにも、ものに限られるわけではございません。
わたくしたちは生まれ落ちたその瞬間から喪失を重ねつつ人生を紡いでいく、そう申しても過言ではないのではないでしょうか。喪失ということばには宿命論じみたセンチメンタリズムが付きまといます。わたくしは自分をことさら感傷的な人間だとは思っていないのでございますが、それでも、喪失には常に心がざわめきます。自分の思いもよらぬ喪失がこの世にはいくらでもある。そう思うと、もっと知りたいという気持ちがむくむくと沸き起こり、居ても立っても居られなくなるのでございます。
さて、皆さま、先ほど上った月が、いまや右手の窓からご覧いただけるようになりました。さっそく照明を落として月明りを愛でつつ、皆さまがたのとっておきのお話を聞かせていただくことにいたしましょう。
それでは、失礼して、照明を――。
そら、何と美しい月明りでしょう。二日前は満月でございましたね。四月の満月はピンクムーンと呼ばれるそうです。もちろん、月がピンク色になるわけではございませんが、かすかにおぼろがかった空は赤銅色の月光に照らし出され、あたかもピンクゴールドに輝いているように見えないでしょうか? 満月を越して欠けはじめた今宵の月には、満月にはなかった深い趣きが感じられるようでございます。
皆さま、まだご緊張の面持ちでございますね。それでは、僭越ながら、まずはわたくしが前座を務めましょう。とは申しましても、年寄りの昔語りでございます。どうぞ、お寛ぎになりながらお聞きくださいませ。
もう四十年近く昔のこととなります。わたくしは地方の小さな国立大学に通っておりました。苦学生でございます。学校とアルバイト先を往復するような生活で、なんとか学業を続けておりました。唯一の息抜きが絵を描くことでした。美術部に入っていて、これでも、なかなかまじめに油絵を描いていたのですよ。主に静物画でございます。部室に転がっていたワインの空き瓶や飲み会でたびたび使われるグラスをしばしばモチーフにしておりました。キャンバスに絵具を荒々しく盛り上げるような画風を好んだものですから、どうしても高くつくのが頭の痛いところでございました。絵具も、キャンバスも、それなりにするのですよ。もちろん、絵具は部が代々お世話になっている画材屋さんに学生割引きしていただいたり、キャンバスは自作の木枠に自分たちで張ったり、ときには下塗りしたベニヤ板に描いたりもいたしました。食費を切り詰めてちょっと発色の良い絵具を買ったこともありましたか。たとえ空腹であっても、鮮やかな絵具をパレットに絞り出すと、心が躍り、深い満足を覚えるのです。油絵には抗えない魅力と癒しがございました。
当時、美術部には同期が四、五人いたのでございますが、とりわけ親交が深かったのは、文学部のNと法学部のTでした。出身も学部もばらばらでしたが、NもTも絵が好きで、時間さえあれば美術部の部室に入り浸っておりました。ふたりには比較的裕福なご両親がいらっしゃいましたので、バイトに明け暮れることはなく、学業のあいまに部室で自由に創作に励んでおりました。Nは油絵、でもわたくしとは異なり、人物画がメインでした。彼に誘われて裸婦デッサン会に参加したことがございましたが、それがかえってわたくしを静物画一辺倒にさせたのかもしれません。Tは器用なたちで、油はもちろんのこと、水彩画やパステル画まで描き、ときにはシルクスクリーンでデザイン画やTシャツを制作したりもしておりました。
ああ、失礼いたしました、話がそれておりますね。年を取ると万事がこの調子、情けないことでございます。
あれは大学二年生の八月半ばのことでございました。私はスーパーのアルバイトを終えて、夜十時ごろに中古の自転車をがたがたいわせながら大学へとやってまいりました。翌日は日曜日、大学は休みでございますし、アルバイトは夕方までありません。少なくともNとTは絵を描いているだろうから、一緒に夜中まで描いてから家に帰ろうと思ったのです。部室棟の前に自転車を停めながら美術部の部室に目をやると、案の定、こうこうと明かりが灯っておりました。
Tシャツの袖で額の汗をぬぐいながら部室のドアを開けると、新しい絵具のかおりがぷうんと鼻を突きました。ふたりは黙々と絵を描いております。わたくしも早速、絵具の乾き具合を確かめてから色を塗り重ね始めました。
その日は恐ろしく蒸し暑い日でございました。部室にはエアコンなんてなく、開け放った窓辺で、何代も前の先輩が寄贈してくださった――と言えば聞こえは良いのですが、置きっぱなしにされた古い扇風機が、かた、かたと音をたてながら首を振っておりました。
暑過ぎるよ、ちょっと泳ぎに行こうぜ。そう言いだしたのはNでしたか。彼の白いTシャツは汗で背中に張り付き、額にも鼻の頭にも、汗の玉が浮いておりました。おう、俺も行く。顔をてらてらと光らせたTもうんざりした声で同意いたしました。彼らのアパートにはエアコンが付いておりましたから、家に帰れば涼しいだろうに、とちょっとおかしくなりましたが、今晩はまだ絵を描いていたかったのでしょう。わたくしもうなずき、部室の片隅から自分の水着を取り出しました。
三階建ての部室棟のすぐ横に、二十五メートルプールがございました。体育に水泳の授業はなく、それを使っているのは水泳部だけでした。S県は、今はどうだか存じ上げませんが、当時は水道料金がことに高いことで有名でした。水泳部だけのためにプールに水をはり、定期的に交換していたなんて、ずいぶんとぜいたくなことでございます。大学から美術部に交付される部費の微々たる額に不満を持っていたわたくしたちは、水泳部に対する破格の優遇に声をあげる代わりに、ときおり、密かにその恩恵に預かっておりました。暑さに耐えきれなくなると、夜に忍び込んで泳ぐのです。
水着に着替えると、連れだって部室棟の玄関をそっと出ました。その日は薄曇りの闇夜で、日本海側の夏特有のむっとした暑さがあたりをつつんでおりました。プールへ向かう小道の脇にあるプラタナスの葉もその下草も、そよとも動かず、夏虫ですら鳴いてはおりませんでした。
プールの出入り口は金網の扉でございます。施錠されていたので、わたくしたちは、いつものように、フェンスを乗り越え、プールサイドに入り込みました。靴を脱ぎ、黒々とした水面にそっと体を滑りこませます。昼間の熱気を存分に吸い込んだ水はぬるりと生ぬるく皮膚に絡みつきますが、それでも、ゆっくりと水をかき分けて進むと、ほてった体にはたまらなく気持ちが良いのです。わたくしたちは、声を上げず、てんでに、水の感触を楽しみました。
平泳ぎで二十五メートル泳いだあと、頭までざぼりと浸かり、ゆっくりと水面に顔を上げたときでございます。入ってきたフェンスと反対側のプールサイドに何か置かれているのがおぼろげながら目にとまりました。物を置きっぱなしにして帰ってしまうなんて、几帳面な水泳部にしては珍しいことです。興味を引かれ、ゆったりと平泳ぎで近づき、闇の中で目を凝らしました。バケツでした。プラスチックの、たぶん青い、どこにでも売っていそうなものでございます。でも、その中に何かが立てられているようなのです。なぜか嫌な気持ちになりました。反動をつけて重たい体をプールサイドに引き上げると、近寄り、ずいとバケツに顔を寄せました。水をはったバケツにつけられていたのは、花束でした。誰かにプレゼントするにはやや慎ましいボリュームで、根元には麗々しくリボンが結ばれております。闇の中にあっても、その色が、全ての色の光を吸い込んでしまう濃色であることが見て取れました。体に残っていた熱までもが、たちどころにそのリボンに吸い込まれていきました。
すぐにNとTに声をかけ、水から上がらせました。訝しがっていたふたりですが、その花束を見て動きを止めました。三人でそそくさとフェンスを乗り越え、美術部の部室に戻って着替えると、NとTは顔をこわばらせたまま帰っていきました。わたくしは三十分ほど、描きかけの絵に絵具を盛っておりましたが、奇妙なけだるさを感じたので、パイプ椅子をいくつか並べた上で仮眠を取りました。
ふと目覚めると、窓の外はもう明るくなっておりました。時計を見ると五時過ぎでございます。奇妙なだるさはなくなっておりましたが、変な姿勢で寝ていたからか、肩がすっかり凝っておりました。起き上がって、首をぐるぐるとまわしながら描きかけの絵に目をやり、顔をしかめました。絵の中から、ワインの瓶が一本とグラスが一脚、消えていたのでございます。
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