第7話



 蒸気船は、にわかに賑やかになった。

 あちこちをメイド服の奴隷人形たちがパタパタと歩き回り、指定の『蹄の跡』を探している。

 すでに他のメイドが足跡を見つけて立っていれば、見なかったかのように通り過ぎて他へ行く。

 交錯する足音、翻るエプロン、機械仕掛けの青眼が忠実な光を宿して灯台の光のように空を切った。

 すでに壁際からは、半数近くの人形がいなくなっていた。

 ありったけの脂貨(ラード)を奴隷人形たちの動力源として突っ込んだ。勝ったところで祝儀の一つ弾んでやれない。

 それでいい。

 

 慶は操舵室にいた。

 螺旋階段の一つから甲板に出て、そこに小さな砦のような操舵室はある。

 誰もいなかった。

 銀の装飾ベルトを絡められた舵輪は、操舵手もないままに独りでに動いている。

 眺望ガラスの向こうは、真っ黒な海と空がどこまでも続いている。

 慶はその景色の中から、飛んでいる鳥でも見つけようとしているかのように眼を細めながら、足を組んで眺望席に座っている。サイドテーブルに、古風なポラロイドカメラが置かれていた。

 傍にいるエンプティが、四枚の写真を札束のように抱えている。


「順調ですね、慶様」


 一枚一枚、エンプティはテーブルに写真を置いていった。

 そこには蹄の跡が撮影されている。

 蒸気船内にある唯一のショップカウンター〈ミスティ&シェイド〉の看板に蹴りを入れたと思しき足跡が一つ。

 休憩用の船室の羽毛ベッドに飛び乗ったらしきものが一つ。

 真っ赤な蒸気を吐き出し続ける、八本ある煙突のうちの一基に一つ。

 そして、操舵室の舵輪の根元にも一つ。

 それで四枚、全て自動人形たちが、沈黙したままに慶に示した場所の写真だった。

 べつに撮影する必要はなかったが、人形に注ぎ込んだ脂貨がわずかに余ったので、ポラロイドカメラをカウンターで購入して、証拠を残しておくことにした。脂貨さえあれば、この船では大抵のものが自由になるようだ。

 慶は、手に持った名刺の蹄と、四枚の写真の中の蹄を見比べた。

 同一。

 

「さて、これからが問題だな」


 窓の向こうの船首甲板に、何機かの奴隷人形が彷徨っていた。

 これだけいて見つけられないということは、もう甲板には足跡は残っていないと見ていいだろう。後は、慶が見て回っていない区画、ということになる。


「エンプティ、あとはカジノホールの下にある、ボイラーデッキだけか?」

「はい。慶様がご覧になっていないのは、もうそちらだけです。降りますか?」

「降りる」


 そう言って動かない慶を、小さな宝物を見る少年のような顔で、エンプティが見る。


「……何を考えていらっしゃるんですか?」

「ボイラーデッキに足跡が『一つ』しかなかったら、どうするかな」

「きっと大丈夫ですよ」人形は微笑む。

「すぐに気にならなくなりますから」


 そして、それは当たった。


 ○


 螺旋階段を最下層まで降りたボイラーデッキは、蒸気と熱に満ちていた。

 なぜこれだけの熱気が螺旋階段を逆流してカジノへと流れ込まないのかが不思議でならない。

 慶は真紅のシャツの襟元に指を突っ込んで、空気を取り込もうとした。

 鋼鉄の扉が一つあり、そこから蒸気が漏れている。そこが、ボイラー室のようだ。

 エンプティが涼しい顔で、扉の鍵を開けた。まだ片手に食べかけのハンバーガーの包みを携えている。

 

「室内は熱気に満ちていますので、お気をつけください、慶様」


 そう言って、エンプティがボイラー室の扉を開けた。

 熱い蒸気が顔を打つ。一歩、慶は足を踏み入れる。

 鋼鉄の機械が満ちていた。ボイラーだ。

 燃料を放り込む火炉と、水を蒸発させる気缶、外輪を動かす機関部が組み合わさったものが、両壁に所狭しと並んでいた。

 慶は蒸気機関というものを初めて見た。

 上半身裸の男たちが、スコップ片手に、トロッコから『何か』ぶよぶよしたものを火炉へと投げ込み、蓋が一瞬閉じ、燃料が燃焼して発生した高圧蒸気がボイラーから曲がりくねったパイプを通って機関部へと流れ込み、魔王の愛馬のように不穏なロッドとクランクが力強いストロークを繰り返し、ギッシギッシと外輪を回している。時々、パイプが破裂して蒸気の霧が溢れ出し、それと覆面をした機関士たちが碗から杓で掬った『何か』を振りかけ、塞いでいる。銀色の唾液のようにしか見えないそれは、速効性のある接着剤になっていて、噴出する高圧蒸気をパイプの中へ再び封じ込める。

 

「ボイラー室か」

「いいところでしょ?」


 慶は答えずに、奴隷人形の姿を探した。部屋の隅には、なぜか干草と、使い古しの衣服が山積みになっている。それをかき集める西洋熊手(レーキ)は土と泥で汚れたまま床に打ち捨てられている。

 

「あれ……慶様」エンプティが言った。


 慶は、エンプティが指差した方向を見た。そして、目をパチパチと瞬いてから、ぎゅっと揉んだ。しばらくしてから、再び見開く。

 ボイラー通路の途中、裸の男たちが働く中に、奴隷人形がいた。


 ――踊っている。


「……何やってんだ?」

「さ、さあ……」


 その奴隷人形は、黒髪を短く切り込んだ、少女型だった。顔に捻れた曲刀のような刺青が走っている。

 無表情に、なんの疑問も感じていない様子で、その場をぐるぐると回っていた。

 慶は近づいて、その奴隷人形に声をかけた。


「おい」

「こんにちは、ご主人様」と人形が答える。

「何してる?」


 人形はにっこり笑って、回り続けた。返答できない、ということのようだ。慶はさらに尋ねる。


「お前は、俺の命令に従って動いているのか?」

「はい、当然です、ご主人様」

「なァ、エンプティ。お前、どう思う」

「どうやら、この子は、足跡を探している途中だったみたいですけど……」

「そうだろな」


 慶の視線が、踊り続ける奴隷人形の足元に注がれた。


「この女、少しずつ前進してるな」

「あ、ほんとだ」

「足跡を、探してる――」


 どん、と慶に機関士の一人がぶつかった。トロッコに入れたぶよぶよの『何か』を運んでいる。

 

「おい、邪魔だ! どけ!」


 慶にぶつかった機関士は、一基のボイラーの前でトロッコを止め、スコップでその火炉に『何か』を放り込み始めた。そのたびに蓋が開閉し、内部の圧力を絶妙に調整している。漏れた蒸気に晒された機関士たちの剥き出しの肌が、赤く焼けている。

 

「エンプティ、あれはなんだ? 何を投げ込んでる?」

「脂貨ですよ。動物の脂。それが、この蒸気船の燃料なんです」


 慶は、顎に手をやって、ボイラーを見た。


「――ふうん」視線を切って、

「ところでお前、唇に汚れがついてるぞ」

「ん」とエンプティは口を突き出した。

「正気かお前」


 慶は彼女の唇を親指で拭ってやった。ボイラーを振り返る。

 答えは、分かった。秘密はここで燃えている。

 踊り続ける自動人形を押しのけ、慶は一基のボイラーに近づいた。

 火炉の蓋が、数秒置きに開閉し、その奥から火粉が溢れている。チリチリとした熱を頬に感じながら、慶はポラロイドカメラを取り出した。ファインダーを覗き込む。

 

「慶様、何を……?」

「いいから」


 カシャリ、と慶は写真を一枚、撮った。ポラロイドカメラから吐き出された写真を指で挟んで掲げる。

 閉じた蓋の分割部分に、蹄の跡がつけられていた。

 慶の背後で、踊り続けていた奴隷人形がお辞儀を一つして、去っていった。慶は写真を見ながら言った。

 

「これがあの人形が踊ってた原因だ。足跡は見つけはしたが、視界に入ると蓋が開き、足跡は『無くなって』しまう。だから人形は一度は立ち去ろうとするが、すぐに蓋が閉じ、そこに『分割』して捺印された足跡がまた現れる。俺の命令に従おうと火炉へ近づこうとするが、また蓋が開き……ってわけだ」

「わお」


 パチパチと小さく拍手するエンプティ。

 

「でも、残念でしたね」

「そうだな」


 慶は写真から顔を上げた。通路の先は、蒸気のカーテンに覆われて、先が見通せないが、奴隷人形がいる気配はない。

 人形は、一機しかいなかった。

 つまり、まだ未発見の足跡が一つ、ここではないどこかに残っている。

 

「こんなことだろうと思ってたよ」

「慶様、いい調子ですよ、このままいけば――」


 その時、誰かが来た。



 垢で汚れた灰色の背広を着た、どこにでもいる普通の男だった。

 青ざめた顔をして、開いた口の中でわずかに唾液が光っている。

 背広の男は、空虚な目つきで、ふらふらとボイラーに近づいてきた。猫背で、両手をだらりと落とし、いまにも風を喰らって倒れこみそうだった。紫色になった唇が何か呟いていたが、それは慶には届かなかった。

 そんな男に、慶は何も言わなかった。男も、慶に気づいていないようだった。隣を通り過ぎる。そして慶は、それを見た。

 

 男の身長が、縮む。

 

 最初は、しゃがみ込んだのかと思った。立ち上がっていられないほどの衝撃を受けたのかと。

 だが、男はしゃがみ込み続けた。縮み続けていたのだ。手足が短くなり、背広の中に吸い込まれて消えた。黒髪が頭皮に引きずり込まれて禿頭になっていく。あ、と男が呻いた。己の手を持ち上げて、袖が捲れる。そして彼はそれを見た。

 己の新しい前足を。

 醜く割れた『蹄』の先を。

 もう人間の形をしていない、ひしゃげた背広の中にいるそれは、動物だった。

 ピンク色の肌をして、縮れた尻尾を生やし、潰れた鼻で床の臭いを嗅ぎ回る、それは、豚だった。


「あっ、この野郎、いいとこに来やがった!」


 豚を見つけた覆面の機関士が嬉しそうに叫び、家畜の後ろ足を掴んで持ち上げた。

 かつて誰かだった豚は必死に抵抗し、愚図り、暴れたが、機関士は取り合わない。興味も持たない。火炉の蓋が開いた瞬間を見計らって、容赦なく豚を投げ込んだ。

 耳を劈く絶叫が、業火の中から迸った。

 家畜は必死に蓋の隙間から外へ逃げようとするが、機関士がブーツの底で灼熱の中へ蹴りこみ返した。家畜の悲鳴が段々と弱くなっていく。炎が肉を力に変えていく。

 やがて、蒸気室の喧騒だけが残った。

 蒸気船は、静かに走り続ける。

 慶は動かなかった。何もしなかった。

 ただ、その視線が、積み上げられた干草と、使い古しの衣服に向く。

 機関士の一人が服をレーキで拾って、その古着山の上にかぶせた。それで終わりだった。


「――このままいけば、慶様は『ああ』はならずに済みます」


 慶の背後、吐息が背中にかかりそうなほど近くで、奴隷人形がセリフの続きを言った。


「望んではいけないものを、望んでしまった愚か者――全ての脂貨を失い、肉体への欲求に飢えた魂は、この夢の船、『アリューシャン・ゼロ』の中で最後の夢を見ます……『家畜の夢』を。

 全てを失い、肉だけになり、そして、燃やされ、食べられ、消えて、無くなる……

 慶様、あれは『脂貨』なんです。あなたなんです。でも、きっとなんにも心配しなくていいんです」

 

 エンプティが、そっと慶の手を掴んだ。


「あなたが負けたら、わたしが、綺麗にしてあげますから」


 死者は吐かない。

 ただ、眩暈だけを覚える。

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