第六章 いぶき
6―1 ベゲーグヌン 縁
初夏の陽差しに萌える草花の薫りが風に乗り、夜月の髪を揺らした。心地よい午後がゆったりと流れている。
夜月は芝生に座って、ブラウンのサングラス越しに空を眺めていた。母の波月が通っていた
芝生の上に、ふいに影が差した。夜月は条件反射のように、隠し持っているブリッツシュネルス・シュヴァイゲンの柄に右手の指先を触れさせた。ゆっくりと視界に入ってきたのは、車椅子に座った青年だった。
「イヤホンやヘッドホンを使わないんだね」
青年の声は囁くように優しかった。
夜月は芝生の上に置いた古びた小型ラジオに視線を落とした。二十世紀中ごろに活躍した女性ジャズシンガーが報われぬ愛を歌っている。鼻にかかったように高音はこもり、低音は痩せている。そして
「再生装置の性能が高過ぎる事によって、聴こえてこない音楽もある」
夜月が答えると、青年の口元に笑みが浮かんだ。
「同感だ。ハイスペックなものが必ずしも音楽の本当の姿を見せてくれるわけじゃない。君は音楽が好きなんだね」
「嫌いではない」
澄んだ瞳で青年に見つめられて、夜月は目を逸らした。
「でも、花は嫌いなのか?」
はっとしたように夜月は手元を見た。無意識だったのだろう、花を何本も引き抜いていた。
「雑草だ。駆除した方がいい」
反射的にそう答えた。
「君はなぜ命を奪うんだ。雑草だと言って」
「私は……」
言葉が続かなかった。
「性能の低い音だからこそ聴こえて来る音楽があるように、優れていたり役に立つものだけに価値があるわけじゃない。音楽の本質を知る君になら、それが分かるだろう?」
夜月はサングラスを外して顔を上げ、むきになって反論した。
「限られたリソースを有効に活用する為には、無駄に浪費するだけの雑草を刈る必要があるんだ」
「何の存在意義も無いと蔑まれる者にだって、喜びも悲しみもある。それだけで生きる意味があるとは言えないだろうか」
なんだ、この男は。
止水のごとく静かだった夜月の心に漣が広がっていった。今までに出会った誰とも違う。穏やかに語りつつ、心の深い所に軽々と踏み込んでくる。夜月は警戒した。
青年は自分のスマホの画面を夜月に見せた。そこには、『佐久谷愛鐘』と表示されていた。夜月は小さく首を傾げた。
「さくやあべる、と読む。僕の名前だ。君にもあるだろう?」
愛鐘をじっと見つめて、夜月は呟いた。
「……夜月」
「夜の月、かな。珍しい名字だね」
「名字じゃない」
「そうか、失礼。じゃあ名字は?」
「大崎」
ガルヴァキスに名字はない。夜月は奇左衛門にそう言い放った。でも本当は心の中にある。
親に捨てられて九院に引き取られた。ガルヴァキスの子供たちは全員がそうだ。だが、アルテ・メンシェンとの関わりを絶ったのは自らの意思だ、という強い想いを込めて、誰も名字を口にしない。
夜月も例外ではない。それなのに、愛鐘にはごく自然に告げた。家族が三人で一緒に暮らしていた頃の名字を。
大崎夜月。愛鐘は声に出して発音した。何かを確かめるかのように。
「夜月、ここには、よく来るのか」
愛鐘は人懐っこい表情を浮かべて尋ねた。
「たまに」
「それじゃあ、また会えるかもしれないね」
愛鐘の車椅子がくるりと向きを変えた。
「行くのか、愛鐘」
夜月は思わず声をかけていた。理由は分からない。ただ、このままここで別れてはいけない、そんな気がした。初めての経験だった。
「
「お別れみたいな事を言うんだな」
愛鐘は離れていく。夜月は焦りにも似た感情が胸にくすぶるのを感じた。自分にいったい何が起こっているのだろう。正体の知れない動揺が心に広がっていった。
幸楽公園から出ようとした愛鐘の車椅子が、二センチほどの段差で引っかかった。何度か突破を試みるが、越える事ができない。
気づくと夜月は立ち上がっていた。車椅子のハンドルを掴む。
「押すぞ、いいか」
「頼む」
前輪が、そして後輪も。夜月と愛鐘の力で段差を乗り越えた。
「ありがとう。たった二センチの段差が僕らにとっては無限の高さに聳える壁と同じ意味を持つ事がある」
「大変だな」
「そう、大変なんだよ」愛鐘は屈託のない笑みを広げた。「事故に遭ってこうなる前は、障害者にどう接すればいいのか分からなかった。何に困り、どうして欲しいのか。そもそも、障害者なんて自分には関係ない、関わりたくないと思っていた」
「その感じは分かる」
夜月は障害者を刈るけれど、恨みを持っているわけではない。アオフガーベ以外の時に障害者を見かけると、愛鐘が言うように無意識に目を逸らして関わり合いを避けていたように思えた。
「自分がこういう体になってようやく理解した。いつ、誰が、どんな理由で障害を負うか分からないんだと。無関係なんかじゃない。まだその時が来ていないだけなのかもしれない」
二メートルほど進んだ所で、去りかけた愛鐘が止まった。首だけで振り返る。
「ねえ、夜月。このあと時間ないかな。今夜のコンサートのチケットが一枚、余ってるんだけど」
*
二人は公園を出て、地下鉄の駅に向かった。
商店街の雑踏に入ると、愛鐘の車椅子は極端に速度が落ちた。人々は自由気ままに道に広がって、おしゃべりをしたりショッピングを楽しんでいる。歩いているのなら、そのぐらいは簡単に避ける事ができる。でも車椅子はそうはいかない。
愛鐘を見ると、みな道を譲ってくれた。だが、全く気づかずに進路に立ち塞がったままの人も少なくない。夜月は愛鐘の前に出て、すみません、と何度も言わなければならなかった。
ほんの数十メートルの距離を通り抜ける為に、信じられないほどの時間がかかった。ようやく人混みから脱した。
「いつもこんな感じなのか」
夜月が尋ねると、愛鐘は少し暗い顔をした。
「仕方ないんだ。どちらかと言えば、僕の方が邪魔になっているかもしれない」
「そんな事はない」思いがけず大きな声が出た。夜月は自分に対して驚いた。「お前はただ、普通に移動しているだけじゃないか」
「そう、なんだけどね」
広い歩道が見えた。これで安心だ、と夜月は思った。でも。
「そこは通れないんだ」
「なぜ?」
愛鐘の視線の先を見た。自転車や車が進入できないように、何本もポールが立ててある。
「どうするんだ」
「こうする」
愛鐘は車道に出た。
「おい、危ないぞ」
「そう、危ないんだよ。分かってる。でも、他に方法はない」
夜月は車椅子の少し後ろを歩いて後方を警戒した。
もし、車が突っ込んできたら。
歩道との間にはガードレールがある。万一の場合、愛鐘を担いで跳び越えるのは、夜月の身体能力をもってすれば不可能ではないかもしれない。だが、絶対に安全に成し遂げられるのかというと、自信がなかった。かといって、さすがに車の方をどうにかできるはずもない。
歯がゆい思いがした。危険を冒しての移動を強いられている愛鐘に対して、自分は無力だ。
「コンサートが始まる前に姉の家に寄ってもいいかな。会場のすぐ近くなんだ」
「かまわない」
地下鉄の駅に着いた。夜月は階段を降りようとした足を止めた。愛鐘が離れていく。
「どこへ行く」
「向こうにエレベーターがあるんだ」
ああ、そうか。地下へ降りる為には、愛鐘は遠回りをしなければならない。
「晴れてればいいんだけどね。雨の中を余分に移動するのは気が滅入る」
信号待ちをして横断歩道を渡り、かなりの距離を移動して、ようやくエレベーターのある入り口に辿り着いた。だが、エレベーターは満員だった。車椅子が乗るスペースはない。
「どうぞ」中年女性が朗らかに譲ってくれた。「私は階段で降りますから」
一瞬の沈黙ののち愛鐘は頭を下げて、どうも、と言った。
「今の、分かったかな? 夜月」
駅構内で車椅子を漕ぎながら、愛鐘が問いかけた。
「何が」
「私は階段で降りますから。つまり、お前には階段を降りる能力がないから譲ってやる、と言われたんだよ。僕は」
「それは曲解じゃないか。彼女にそんなつもりはないだろ」
「意識してないだろうね。でも意味としては同じなんだ。もう、慣れたけど」
ホームに降りた。駅員が愛鐘を見て反応した。マイクを掴む。
『乗車補助、願います』
別の駅員が二人やってきた。二つ折りの板のようなものを持っている。電車が入ってきた。ドアが開くと、駅員は乗車口に板を渡して愛鐘の車椅子に両側から手を掛けた。
「行きますよー。せーの」
車内には車椅子用に広く取られたスペースがある。立ち話をしていた女子高生たちが自然に場所を空けた。
「何人もの助けを借りないとね、僕は電車に乗れないんだ。姉に会いに行くだけなのに」
駅からはバスだった。
「はい、お待ち下さいねー」
そう言って運転手は何か操作をした。車体が左に傾いた。地面との段差を小さくする為にエアサスペンションを作動させたのだ。続いて、乗車口からスロープを引き出した。
「押しますよー」
夜月と愛鐘の後ろには長い行列ができつつあった。誰も文句は言わない。でも、何度も時計を見ている人がいる。
車内に入ると、運転手は座席を二つ壁際に跳ね上げた。そこに愛鐘を移動させる。頑丈そうなベルトの付いたフックを床から四本、引き出して、車椅子に引っ掛けて締め上げた。固定されたのを確かめると、乗車口のスロープを片づけて車体の傾きを元に戻した。
「お待たせしました。ご乗車下さい」
愛鐘一人が乗る為に、いったい何分かかった事だろう。愛鐘に責任はない。彼はただ、バスに乗ったのだ。
降りる時は逆の手順だ。同じぐらいの時間を要した。
「障害を持って生きるというのは辛いものだな」
夜月は思わず呟いた。そうまでしてなぜ生きるのか、という言葉は呑み込んだ。
「辛いよ」さりげなくそう言って、愛鐘は口元に笑みを浮かべた。「でも、たとえば僕の場合、下半身が不随なだけだ。言い換えれば他に問題はない。できる事はたくさんある。それに」
「なんだ」
「僕には夢がある」
夜月は身を乗り出していた。
「どんな夢だ?」
愛鐘は少しはにかんだような顔をした。
「人に話すような事じゃないんだ」
「そうか。すまない」
「でも、君にはいつか知ってもらう事になるような気がするよ、夜月」
意味が分からなかった。さっき出会ったばかりの夜月に、なぜそんな事を思うのだろう。
二人は少し寄り道をした。手土産を買う為だ。
坂の途中にケーキ屋があった。愛鐘は店の裏に回ろうとした。
「どうした、スロープがあるのに」
「そうだね。登ってみようか」
店に向かって右方向へとスロープを進んだ。突き当たって左へターンだ。愛鐘はそこで引っかかった。
「大丈夫か」
夜月が手を貸した。でも踊り場部分が狭過ぎて、どうしても回頭できない。
「なんだこれは。通れないんじゃ、スロープがある意味がないじゃないか」
呆れたように夜月が言う。
「珍しい事じゃないよ。幅が狭過ぎたり、傾斜がきつかったり。手すりに引っかかる事もある。酷い時は、途中に段差があったりね」
スロープを逆に降りた。店の裏手に回ると、もう一つ入り口があった。坂の関係で、そこは店内とほぼ平坦に繋がっていた。
「いらっしゃい」
善良そうな中年男性が接客に立った。この店のオーナー・パティシエだろうか。スロープは、おそらくこの人が必要を感じて設置したんだろうな、と夜月は思った。けっして悪意があってスロープが狭いのではないに違いない。オーナーは、自分で車椅子で登った事はないのだ。
「これと、これ。それから……夜月、君はどれにする?」
「私?」夜月は戸惑った。九院の家でケーキが出る事はない。「ケーキの事は分からない」
「なんだ、彼女さんはダイエット中かな。十分スリムだと思うけど」
パティシエが笑った。
「違う、彼女とか、そういう……」
夜月とて恋心をいだいた事がないわけではない。だが、ガルヴァキスにおけるペアリングはデータに基づいて行われる事になっている。恋人などという概念は自分には無縁だと思っていた。
「じゃあ、これにしたらどうかな」
チョコレートでコーティングされたスポンジのベースに、ピンクのクリームでデコレーションが施されていて、その上にイチゴが載っている。
「いいのか、私が食べても」
「いいに決まってるじゃないか。それとも、甘いものは苦手なのか?」
「食べた事がない」
親と一緒だった頃は、お菓子の類いを特に欲しいとは思わなかったし、九院では、贅沢の為にものを食べてはいけないような気がしていた。
「普段は何を食べてるんだ?」
言えるはずがなかった。刈ってきた障害者や老人などを食べているとは。
ケーキを四つとプリンを買って店を出た。
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