第二章 いへん
2―1 イン・デア・ドゥンケルハイト 暗闇
二十一世紀の始まりを目前に控えた、2000年9月19日の火曜日だ。世の中は世紀末ブームで沸いていた。
音大で歌を勉強したので、波月は本当は歌手になりたかった。だが、そう簡単にプロになれる世界ではない。やむなく、と言っては語弊があるが、なるべく音楽に関係のある企業を中心に就活をして、大手の楽器メーカーに採用された。店頭に立って、楽器や楽譜等の販売を担当している。今年で二年目だ。
配属先は波月が生まれ育った
親友と呼べる仲の良い同僚もすぐにできた。ずっとクラシック一筋でやってきた波月は電気系の機材が分からない。逆にバンド経験しかない同期入社の
「波月、お願い。チャンスやねん」
昼休みの会社の廊下だ。拝むように手を合わせて、海歌が真剣に波月に訴えている。
海歌には気になっている男性がいる。営業の
話の流れで、栗本の趣味であるキャンプに誘われたという。でも、いきなり二人っきりで山の中で一泊するのは不安だというので、海歌は波月に声をかけてきた。
「キャンプなんて、小学生の時にカレーを作ったぐらいしか記憶にないんだけど」
海歌の為になる事ならなるべくしてあげたい。でも、自分がキャンプをしている姿なんて想像できなかった。どうするべきか。波月は迷っていた。
「大丈夫や。栗本さんはベテランやから、言われる通りにしとったらなんとかなるわ。それに、世紀末を飾る事をなんかしたいやろ? したいやんな。キャンプや!」
海歌は必死だ。
「三人で行くの?」
「栗本さんも同期の
大崎
「頼むわ!」
海歌は、いきなり土下座した。通りがかった社員たちが好気の目を向けながら何か囁き合って足早に去って行く。
「ちょっと、何やってるのよ」
なんて大げさな。波月は困惑した。でも、海歌はいつもこんな調子だ。感情の起伏が激しくて動作も大きい。波月とは正反対と言えるかもしれない。
けれども、ジグソーパズルのピースのように、凹んだ所と突き出した部分がうまく噛み合うのか、二人は仲が良かった。
「分かったから、やめて」
波月はしゃがんで海歌の肩に手を置いた。その時、波月の髪飾りの鈴が、ちりーん、と鳴った。
子供の頃、母方の祖母から譲り受けたものだ。ずっと身に着けている。残念な事に、祖母は去年、亡くなった。波月の花嫁姿を見るまでは死ねない、とずっと言っていたのに。
*
波月たちが港嶺市民ソウルマウンテン、墨景山系にキャンプに出かけたのは、2000年9月23日、土曜日だ。秋分の日だった。
観光にはちょうどよい季節だと言えるだろう。さすがにまだ紅葉は見られないが、中腹辺りまで登るケーブルカーの窓から、東西に細長く横たわる港嶺市の市街と、遠く広がる海を見晴らせた。
墨景第一ケーブル山上駅でケーブルカーを降りたあとは、徒歩で山道を登った。うっすらと額に汗が滲んで膝の具合が怪しくなり始めた頃、森を抜けて広い場所に出た。突き出した崖の上なので景色がよい。でも、どう見てもキャンプ場ではなかった。ただの草原だ。水道も電源もない。もちろん、トイレなど望むべくもなかった。
「僕は天野さんとここにテントを設営するから」栗本は張りのある声でそう言って海歌の方に視線を送った。海歌は大きく頷いて波月にウィンクした。「大崎、お前は冲走さんと薪を探してきてくれ」
大崎はふいを突かれたような顔をした。
「固形燃料とかコンロの類いは持って来てないのか」
その疑問は波月と共通のものだった。
「そんなものを使ったら気分が出ないじゃないか。基本、必要な物は現地調達だ」
だとしたら、栗本と海歌が背負っている、とんでもなく大きなリュックには何が入っているのだろう。
しかし、素人が口を出せる雰囲気ではなかった。波月と目が合うと、大崎は眉を上げて頷いた。仕方ない、言われた通りにしよう。そういう意思表示なのだろう。
めまぐるしく上り下りの変化する森の中の斜面を、意地悪をするように突き出した枝を避けながら進んだ。白かったはずのスニーカーはいつの間にか土色に染まっていて、半袖のトレーナーから出た腕には小さな擦り傷がいくつもできていた。
わざと歩きにくい道を選んでいるのではないか。そんな疑いの目を大崎に向けた。だが大崎は波月の事を気にするふうもなく、つまらなそうな背中を見せながらダラダラと歩いて行く。彼も本当は気乗りがしないのに付き合わされたのかもしれない。
木々の隙間に小さく視界の開けた場所で波月は足を止めた。通り抜ける風が緑の葉を囁かせている。夏の盛りを過ぎた山の木漏れ日は優しかった。名も知れぬ鳥の声に耳を澄ますと、少しだけ気分が安らいだ気がした。
遠くの岬の先端に白い塔が見える。風車だ。誇らしげに広げた三枚の巨大な羽根は、全く動く気配を見せない。時に置き忘れられたかのように無為に佇み、海を見つめている。風力発電の実験用に一基だけ建設されたとニュースで見た覚えがある。結局、ろくに稼働させる事もなく放置されたと聞いた。
これ一つを作る為の税金で、何人がどれぐらいの期間、穏やかな生活を送れるのだろう。そんな事を考えながら踏み出した足の下には、地面の手応えがなかった。
崖を踏み外したと気づいた時には、既に急な下り坂を滑っていた。有り得ない速度で周囲の景色が後ろに流れていく。地面の凹凸や石、落ちている枝などが容赦なく波月を痛めつけた。尻や背中が痛くて涙が滲んだ。元いた場所からずいぶん滑落した所で、ようやく止まった。
大丈夫ですかー、と呑気な声が聞こえた。大崎だ。降りて来てくれる気配はない。
なんだか腹が立って返事もせずに立ち上がった。そのすぐ横の斜面に、洞窟が口を開いていた。
「ねえってば、冲走さん」
「もちろん大丈夫です」波月は崖の上に向かって叫んだ。「いざとなれば、この洞窟で一泊しますから」
やけくそだった。大崎を頼るぐらいなら、本当に洞窟で夜を越えてやろうかとすら思った。どうせなら、もうちょっとましな男と組みたかった。
「洞窟?」大崎の声がにわかに緊張感を含んだものに変わった。「どんな?」
私より洞窟が気になるのか。波月は呆れてしまった。
「立って入るには少し窮屈なぐらいの高さです。幅は、そうですねえ、両手を広げれば届く感じかな」
ざざざ、という音がして、大崎がいきなり目の前に現われた。波月は驚いて、後ろに倒れそうになった。なんだ、降りて来られるんじゃないか。心の中でため息をついた。
大崎は波月を一瞥もせずに放置して、新しいオモチャを与えられた少年のように目を輝かせながら洞窟を覗き込んでいる。
「ほう、なかなか」
「何がですか」
波月は投げ槍な調子で尋ねた。洞窟になど興味はない。
「いかにも、何か出てきそうな感じがしない?」
「何か、って?」
「遺跡だよ。分かりにくい場所にあるから、まだ誰も調査していないかもしれない。考古学上の画期的な発見に繋がる可能性がある」
大崎は洞窟の入り口に足を掛けた。
「何してるんですか」
波月は驚いて声をかけた。
「もちろん、行くでしょ」
「は?」
「歴史に名を刻みたくないか」
「墓石に名を刻む事になりませんか」
波月の嫌味を意に介さないまま、大崎は洞窟に踏み込んだ。頼りないとはいえ、山の中で一人にされるよりは一緒の方がましだ。波月はおそるおそる大崎のあとを追った。
中は意外に広かった。二人並んで歩けるぐらいの幅はある。天井も十分に高かった。空気がひんやりしていて、少し肌寒いと感じた。
「冲走さん、やっぱり怪しいよ、ここ」興奮気味の大崎の声が洞窟内に残響した。「天然の洞窟にしては整い過ぎている。地面はほとんど平らだし、壁や天井の凹凸も大きくない。しかも、断面はほぼ四角形。まるで……」
人工物のようだ。言われなくても、波月もそう感じた。
「出ましょうよ、大崎さん」
波月の声が震えているのは寒さのせいばかりではなかった。首筋に鳥肌が立っている。正体の分からない危険が迫っている気がした。
「大丈夫だって。突き当たりは見えてるんだから。あそこまで行くだけだ」
そう言いながら奥へと向かう大崎の後ろに続いて三歩ぐらい進んだ時だった。
声にならない声が、二人から同時に出た。
一瞬で闇に包まれていた。外からの光が途絶えたのだ。洞窟は真っ直ぐ奥に伸びていた。少し進んだぐらいで出口が死角になるはずがない。光が入ってこないのはおかしい。
ふいに闇の中に顔が浮かび上がった。波月は危うく悲鳴を上げそうになった。携帯電話の画面を点灯させた大崎だった。
「びっくりしたね」
びっくりさせた張本人が波月の顔を見て笑っている。鈍いのか、この男は。波月には、二人はかなりの危機的状況に陥っていると思えた。ケータイの頼りない光しかなくて、自分たちがどういう状態におかれているのかすらよく分からないのだから。
「何が起こったんですか」
無駄だと思いつつ、訊いてみた。
「分からないけど。罠に嵌まった感じがする」
嘘でも安心させて欲しかった波月にとって、最悪の答だ。
「さっさと出ましょう」
さすがに大崎も怖くなったのだろうか、出口の方にケータイの画面を向けた。だがそこには、岩の壁しかなかった。
沈黙が続いた。数秒なのか、数分なのか。どちらも口に出すのが怖かったのだ、出口がなくなった、だなんて。
ふう、と息をついて、大崎は周囲にぐるりと光を巡らせた。一方向だけ、壁のない所があった。
「こっちに進め、という事かな」
他に選択肢はなかった。
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