これはキスではありません

黒神

一:プロローグ


 ——キスは永遠の証。


 命をかけてでも守りたい相手、一生を賭してでも傍に居たい相手、生涯を捧げてでも添い遂げたい相手、そう思える異性にのみ、誓いのキスを捧げる。


 好色な男の、夜遊びで薄汚れたものに誓い祝福は訪れない。

 つまり、『ろくでなし』との間にその誓いは成立しないということだ。

 たった一人のために捧げられる、清く誠実だったものにのみ祝福は訪れる。


 俺は祖父母にそう教えられた。

 じっちゃんはお酒を飲むとタガが外れたように『あの時口説いて良かった』とか『俺には勿体ねぇ嫁さんだ』と惚気話を肴にしていた。

 ばっちゃんは『孫の前で馬鹿なこと教えないでください』と軽くあしらっていたけれど、台所で一緒に洗い物をしていた時の横顔は牡丹が咲いているようだった。

 そんなばっちゃんも、じいちゃんがいない時は決まって『あの人は誰よりも一途でね』とか『こんな面白みもない女をもらってくれたのは、あの人だけだったよ』と当時を懐かしむようにして聞かせてくれた。


 そんな二人が決まって口にする言葉。

『あなたに出会えたことが、私の(俺の)一番の幸運だ』

 俺はそんな祖父母を慕い、憧れた。

『理想の恋』

 俺は二人の恋愛をそう称していた。

 その気持ちは、膝をすりむいて涙を浮かべる泣き虫の頃から錆びついていない。


 それなのに、俺は……


「んっ、ちゅっ、ちゅぅう、はぁはぁ」


 彼女の舌が俺の舌へと絡みつき、口腔をねぶっていく。

 ただ真っすぐ、俺だけにその熱い感情をぶつけてくる彼女を前にして、俺はされるがまま腰をかがめた。


 まるで二人きりの世界にいると錯覚してしまいそうだった。

 とろけそうな意識を繋ぎとめるのは、時折聞こえるかすかなページをめくる音と、敷き詰められた本棚からかおるせた紙の匂い。


「ち、知里、悪いがもう少し加減してくれないと、そろそろ……んっ」


——黙れ。


 ふくふくとした真っ赤なくちびるを被せられ、言葉は敢え無く消えてしまう。


「ごめんなさい。もう少しだけ……もう少しだけ、近藤くんのを、くださいっ」


 指先から心臓に。心臓からくちびるに。

 血管を逆行してせり上がっていくものを、身体は反射的に繋ぎとめようとする。


「ダメ、逃げないで」


 頼りない小さな手で、額を押さえつけられる。

 紅く染まるビー玉のように丸い瞳に見つめられ、俺の身体は抵抗を諦める。


 俺は、彼女に支配されている。

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