『23時の管理人室』~消えた先輩とアパートの謎~
ソコニ
第1話「深夜の巡回」
第一話
「――23時です。巡回を開始します」
私は管理人室の机の上に置かれた業務日誌にペンを走らせながら、呟いた。声に出すことで、少しでも不安を紛らわせたかった。たった一週間前に始めた不動産管理の仕事。それまでのアパレル販売とは全く違う夜勤の生活に、まだ体が慣れていない。
グレーのスーツに身を包み、首から下げた社員証を確認する。「不動産管理部 五十嵐雫」。28歳にして転職。そう、私はこの築30年の都市型アパート「メゾン・ド・リュミエール」の管理人として、新しい人生を歩み始めたばかりだった。
「メゾン・ド・リュミエール」――光の館という意味のフランス語を冠したこのアパートは、かつてはこの地域の高級マンションとして知られていた。バブル期に建てられた建物の多くがそうであるように、今では少し古びた趣を漂わせている。エントランスの大理石も、階段の手すりも、どこか陰りを帯びていた。
前職のアパレルショップでは、接客や売上目標のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。毎日のように店長から叱責を受け、売り場に立つのが怖くなっていた。そんな時、求人サイトで見つけたのが、この管理人の仕事だった。
「夜間の巡回がメインなので、人との関わりは最小限です」
面接でそう説明された時は、まるで救いの手を差し伸べられたような気がした。確かに、人と話すのは苦手だった。小学生の時からそう。でも、この深夜の静寂は、また違う種類の重圧を私に与えていた。本当に、これで良かったのだろうか。管理人室の暗がりの中で、私は自問自答を繰り返していた。
懐中電灯を手に取り、スイッチを入れる。LEDの白い光が、薄暗い管理人室を照らした。窓の外は既に闇に包まれている。11月の肌寒い夜気が、微かに開いた窓から忍び込んでくる。雨上がりの空気は、妙に重たい。
管理人室の壁には、歴代の管理人の写真が飾られている。この建物の歴史を物語るように、黄ばんだ写真から新しいものまで、十枚ほどが整然と並んでいた。バブル期の派手なスーツ姿の管理人、笑顔で鍵を持つ中年女性、制服姿の若い男性。そして、一番最後の写真。フレームに収められた笑顔の中で、直前の管理人だけが妙に表情が硬い。目が笑っていない。その写真の下には小さなメモが貼られていた。
見る度に気になる写真だった。前任者は、何かに怯えているような表情をしている。写真を撮られた時、彼女は何を見ていたのだろう。
「408号室、要注意。23時の巡回は必ず実施のこと」
メモは半年前の日付。ちょうど、前任者が失踪する直前に書かれたものだった。
「よし」
深く息を吸い込んで、私は立ち上がった。最上階である4階の突き当たりにある408号室から順に見回り、各階の共用部分をチェックする。これが毎晩の日課だ。
研修では、「夜間巡回は建物の安全を確保する重要な業務です」と教えられた。確かにその通りなのだろう。でも、この時間帯に一人で建物内を歩き回ることに、まだ慣れない。
エレベーターは使わない。緊急時のために階段を使うことになっている。カチカチと、私のヒールの音が階段を響く。その音が、やけに大きく感じられた。階段の踊り場には、いつの間にか蜘蛛の巣が張られている。日中の清掃では見落としていたものだろうか。
4階に着く。蛍光灯は省エネのため、人感センサー式になっている。私が階段を上がると、パッと明るくなった。突然の明るさに、目が眩む。
廊下を進むと、最奥の408号室が見えてきた。全部で二十室あるこのアパートで、唯一の角部屋。その特異な位置関係もあってか、物件資料によると、かつては最も人気のある部屋だったという。にもかかわらず、半年以上も空室が続いている。
前任管理人は、この部屋の担当だった。そして突然、姿を消した。引き継ぎもないまま、私が配属された。面接の時、上司は「突然の欠員が出てしまって」と言っていたけれど、詳しい事情は誰も教えてくれなかった。
408号室の前に立つと、私は息を呑んだ。
ドアの前に、人影が見えた気がした。長い黒髪の女性の後ろ姿。薄いグレーのスーツを着ている。まるで...私と同じような。
その姿は、どこか見覚えがあった。壁に飾られていた前任者の写真と、背格好がそっくりだ。でも、それは気のせいに違いない。目の疲れからか、廊下の照明が微かに揺らめいて見える。
「...あの、どなたですか?」
声を掛けるが、返事はない。懐中電灯の光を向けると、そこには誰もいなかった。光が照らす廊下の壁には、雨漏りのシミが醜く広がっている。シミの形が、人の顔のように見えた気がして、私は慌てて目を逸らした。
表札は外されたままで、何も書かれていない。ドアの前に立つと、部屋の中から誰かの気配を感じる。まるでドアの向こうで、誰かがこちらを見つめているかのような...。
その時、背後で。
カタン。
何かが床に落ちた音がした。
振り返ると、階段の方から微かな物音。まるで、誰かが階段を上がってくるような...。しかし、人感センサーは反応していない。廊下は相変わらず明るいままだ。
そして突然、管理人室に置いてある固定電話の着信音が、静寂を破った。一階下まで、はっきりと聞こえてくる。
ブルルル...ブルルル...
23時7分。
携帯電話を取り出すと、画面には「圏外」の表示。いつもは電波の良いこの場所で、なぜ。バッテリー残量も急激に減少していく。
背後から、足音が近づいてくる。
カツ、カツ、カツ...。
私は階段を駆け下り、管理人室に飛び込んだ。扉を閉めて鍵を掛け、固定電話に手を伸ばす。受話器を取る前に、窓の外を見た。雨上がりのはずなのに、窓ガラスには雨粒が伝っている。その一粒一粒が、まるで誰かの目のように私を見つめている。
着信はもう止んでいた。代わりに、留守電が点滅している。赤い光が、薄暗い管理人室の中で不気味に明滅を繰り返す。
恐る恐る、再生ボタンを押す。
『すみません...408号室の管理人さんはいらっしゃいますか...?』
か細い女性の声。どこか懐かしい響きを持つ声。まるで、ずっと昔に聞いたことのある声のように思える。
『前任の方に、お伝えしたいことが...23時に...』
ガチャッ。
通話が切れた。震える手で業務日誌を開くと、前任者の最後の記録があった。几帳面な字で書かれた日々の記録の最後のページ。
「23時の巡回、408号室、施錠確認、異常なし。明日も...」
その後の文字は、途切れていた。インクが滲んでいる部分は、水滴の跡だろうか。それとも...。
時計が23時23分を指す中、外では再び足音が近づいてきた。今度は確実に、管理人室に向かって。そして、扉の前で止まる。
ノック。ノック。ノック。
三回の物音の後、か細い声が聞こえた。
『管理人さん...今夜の巡回は...もう終わりましたか...?』
(続く)
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