新設「歴史における真実」
森本 晃次
第1話 歴史研究
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年3月時点のものです。
「歴史というものは、どこにあっても、謎というものが付きまとう」
誰も見たことのない時代であれば、文献や歴史の前後から判断したり、出土した歴史的遺産というものの、
「科学的根拠に基づく」
ということでなければ、容易に証明ができたとは言えないだろう。
特に、
「過去の歴史」
というものと、
「科学」
ということは、違う学問であり、
「まったく関係がない」
というように考えている人は、とんでもない勘違いをしているのであり、たぶん、学生時代に、
「科学も歴史も、どっちも嫌いだった」
という人か、あるいは、
「どっちかが好きだということで、却って、もう一方を受け入れられない」
という勝手な解釈をしている人ということになるのではないだろうか?
ただ、それも、
「歴史の側から見れば。どの時代を研究するか?」
ということで変わってくる。
古代のような、
「文字もなかった時代」
ということで、
「容易に解明することなどできるはずがない」
というほど、まるで、、
「辞書もないのに、見たこともない外国語を解読しよう」
というようなものではないだろうか。
「言語の場合は、まだ身振り手振りで分かるが、そうでないものは、何が突破口になるか分からない」
それだけに、歴史の中でも、
「古代史」
特に、発掘した出土品から、解明していく学問は、
「考古学」
と言われ、
「歴史」
という学問とは、違った形のものだといえるのではないだろうか?
歴史という学問も、考古学も、なかなか学生たちから好かれるものではない。
歴史に関してであれば、最近では、
「歴女」
などと言われ、女性にも受け入れやすい学問になってきたが、それは、
「ゲームやアニメ」
というものの影響ではないだろうか?
特に、戦国時代であったり、幕末などでは、
「個性的なキャラクター」
というものがたくさんいることで、歴史に興味を持つ人も多いだろうが、そこに、
「ゲームやアニメ」
であれば、キャラクター性と、画像とがマッチすれば、
「推しの武将」
ということで、それまで興味を持っていなかった人が、歴史に興味を持つというものである。
それに関しては、歴史研究家と呼ばれる人たちからも、賛否両論があるだろう。
「マンガやアニメのキャラクターからとはいえ、歴史に興味を持ってくれるのは、何であっても、嬉しいことだ」
という意見の教授もいれば、
「いやいや、アニメやゲームというものの力を借りなければ普及しないというようなことであれば、学問としての歴史を考えるうえで、そんな人たちを受け入れる必要はない」
という反対意見というものとの、一騎打ちといえる考え方もあることだろう。
S大学の歴史研究の第一人者ということで、時々テレビに出ている二人の教授がいるのだが、
「二人は、その考え方に、まるっきり正反対である」
と大学内では言われていた。
しかし、実際にはテレビの前では、二人とも、
「どんな形であっても、、歴史に興味を持ってくれているのはありがたいことで、ウエルカムですよ」
というようなことを笑いながら言っていた。
このような、コミカルな表現をする人の方が、実は、
「そんな人は歴史を好きになる資格などない」
と思っている人で、本当であれば、言いたくないことを言わなければいけないということで、
「茶目っ気」
という表現を使うことで、
「自分の考えではない」
ということを訴えたいと思っていたのだろう。
それこそ、
「顔で笑って、心で泣いて」
という言葉がぴったりではないだろうか。
ただそれでも、
「自分が好きで研究をしているものを、いくらテレビ出演のためとはいえ、自分の意志を歪めなければいけないのか?」
ということを考えると、
「相当なストレス」
というものを抱え込むようになると言ってもいいだろう。
その教授も、実は、
「中学時代までは、歴史が嫌いだった」
という過去を持っていた。
正直、
「どこから歴史というものが好きになったのか?」
ということを分かっていない。
普通であれば、
「何かの事件」
あるいは、
「好きな武将ができた」
ということで、
「歴史にのめりこむ」
というのであろうが、その教授の場合は、
「ある一点のピンポイントが好きになった」
というわけではなく、どちらかというと、
「それまでは、まったく分からなかった歴史というものが、一つ何かがつながったことで、霧の向こうで右往左往していた自分が、まるでウソのように、
「パズルのピース」
というものが嵌っていったのだ。
「パズルのピースのはめ込みというものは、最後にいけばいくほど難しい」
と言ってもいいだろう。
最後が嵌らなければ、それまで間違いないと思って進めてきたことすべてが、狂ってくるからである。
しかも、
「どこで間違えたのか分からない」
ということなのである。
「間違えた場所が分かるくらいだったら、最初から間違っているということに気づくというものではないか?」
ということになるからだ。
つまりは、
「パズルというのは、最初も肝心である」
ということが言える。
「いつ間違えるか分からない」
ということを考えると、
「すべてにおいて、間違いは許されない」
ということであり、
「間違いに気づいた時が、間違いの瞬間なのかどうか分からない」
ということになるということから、
「間違いだと分かってしまうと、すべてを破壊して、最初からやり直すしかない」
ということになるのだ。
そういう意味で、
「パズルというのは難しい」
といえるだろうが、それは、
「歴史においても、同じことが言えるのではないだろうか?」
歴史というのは、
「時系列の連鎖」
と言ってもいいだろう。
パズルというのも、一種の
「時系列の連鎖」
と言ってもいいのではないだろうか?
ピースが埋まることで、時間も過ぎていく。ただ。それが、
「本当に間違っているのかいないのか?」
ということが、
「最後には分かる」
ということで、限界があるわけなので、
「答えが見えている」
と言ってもいいだろう。
しかし、歴史の場合は、
「いつが終わりかどうか分からない」
というのは、例えば、
「ある時代に終わりはくるが、その世界が消滅してしまわない限り、歴史は続いていくのだ」
ということである。
ある王朝が滅亡したとしても、その土地が存在している以上。
「滅亡に導いたものが、その土地を占領する」
ということになるだろう。
「そもそもが、侵略目的」
ということで攻めてきたのだから、
「侵略軍が勝てば、その土地は、侵略軍のものになる」
というのは当たり前のことで、
「侵略軍を撃退した」
ということであれば、その土地は、元々の人たちの支配から変わることがないわけで、
「侵略を受けた」
という歴史が残るだけで、支配が分かるということにはならないからだ。
「何かの事件」
であったり、
「クーデター」
のようなものが起これば、その時に、
「鎮圧されたり、滅ぼされたり」
と、
「歴史の敗者」
となった場合など、その信念というものを持っての行動であった時、
「自分たちの正否は、歴史が答えを出してくれる」
と言って、
「潔い自害」
というものを選ぶというのが、歴史というものであった。
だが、例えば、その事件が今から、100年前の事件だったとして、
「その答えが出ている」
といえるだろうか。
もちろん、
「歴史書のような、書物」
であったり、
「前後の歴史」
というものが、どんどん発見されてきていたとして、
「それが歴史のすべてだ」
ということが言えるのだろうか?
歴史の中において埋もれてしまった事実が、
「どんどん発見される」
ということになるのは、逆にいえば、
「これで終わりだと誰が言えるのか?」
ということになる。
まるで、底なし沼のように、どこまで行っても、はまり込むというような状況になれば、それこそ、
「底がない」
ということであり、
「無限である」
ということから、
「答えを出す材料が、果たしてどこで終わるのか?」
ということであり、その結果というものが、
「底なし沼」
というものであれば、それは、
「地球の裏側にあるのではないか?」
といえるのではないだろうか?
「ヘビが、自分の身体を尻尾から飲み込んでいけば、どうなるか?」
ということである。
「歴史というものが、無限である」
ということになれば、そもそもの考え方として、
「未来が無限であれば、過去も無限ではないだろうか?」
ともいえる。
確かに、未来というものは、時系列で動いているものなので、
「未来が無限である」
ということはいえるかも知れないが、
「歴史という学問は、時系列というものに逆らってさかのぼるものだ」
ということで、
「難しい学問だ」
といえるだろう。
過去にさかのぼればさかのぼるほど遠くなっていく上に、
「文明はなかった」
ということで、
「文字もなければ、証言も残っていない」
ということで、調べることのできない過去は、
「歴史の限界なのではないだろうか?」
といえるだろう。
それを考えると、
「過去をさかのぼるということは、末広がりとなるように、放射線状の可能性がある」
ということで、
「一度起こったことなのだから、変えようがない」
ということで、
「正解は一つしかなく、それ以外は、間違いなのだ」
といえるだろう。
つまり、過去から今までの歴史は、
「一本の線」
ということであり、
「秩序をもって、厳かに刻んできた時間の下であればあるほど、今の人間が、過去をさかのぼって、その事実を知るということは、冒涜なのではないか?」
といえるのではないだろうか?
現在だってそうである。
「時間が一つ刻まれれば、今、現在と言われているものが、過去という形に形を変えて埋もれてしまう」
ということであり、
「未来だったもの、目の前が、現在として、一瞬だけその全貌が見える」
ということになり、さらに、
「未来は、どんどんこっちに近づいてくる」
ということである。
しかも、
「その未来は、無限である」
ということになるのだ。
それが、
「時間というものの概念であり、それを人間が歩んできた」
あるいは、
「開発してきた」
という時代というものであれば、
「それを歴史というのだ」
ということになるだろう。
「過去の歴史」
というものを、想像力で作り上げることは、
「学説」
ということにさえしなければ
「問題はない」
といえるだろう。
だから、小説家などであれば、
「学説に負けないような説」
というものを持っていると言ってもいいかも知れない。
特に、古代文明などでは、
「過去に、火山噴火などで、一日にして滅んだ都市国家があった」
と言われているが、説の中には、
「それは、現代よりもはるかに発達した文明を持っていたのではないか?」
と言われたりもしている。
実際に、
「証拠になるような発見があった」
ということかも知れないが、それを物語として、
「発達しすぎた文明が、時代にそぐわず、一種の誤爆を起こした」
ということでの文明の滅亡ではないか?
という発想であったり、
「聖書」
の中に出てきた。
「バベルの塔」
の話のように、
「人間の傲慢さが、神の怒りに触れた」
と言われることだったのかも知れない。
ただ、逆も考えられるのであって、
「バベルの塔の話」
というものがあって、その事実に対して、どのような理屈を唱えることで、
「歴史というものを紡いでいくことができるか?」
と考えると、結果として出てきたのが、
「神様の存在」
ということなのかも知れない。
これが、
「ギリシャ神話」
ということで考えると、
「オリンポスの神々」
というのが、
「実に人間臭い存在」
ということになるのではないだろうか?
というのは、
「バベルの塔」
の話のように、
「入口と出口があり、その途中をいかに理論立てるか?」
ということで、
「神というものを作り上げた」
ということになると、
「ギリシャ神話」
というのは、
「聖書のように、原因と結果から作られた話ではない」
といえるのではないだろうか。
もっといえば、
「ギリシャ神話と聖書というものは、元は同じもので、神の存在というものを、どの方向から見るか?」
ということで、
「見方や考え方が変わってくるのではないか?」
と考えると、
「世界各国に残っている神話や歴史書」
というものは、
「その起源は同じところからきているのかも知れない」
といえるのだった。
だから、古代文明などにおける、
「ピラミッドに似たものが、世界各国の離れたあところにあったりするというのも、ありえることだ」
と考えられるのではないだろうか?
もちろん、
「宇宙人説」
であったり、
「過去の文明が、今の時代よりも、先に進んでいた」
という考えが、なまじ、
「間違いではなかった」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、
「歴史が今の時代に伝えるものは、大きなものだ」
といえるだろう。
もっとも、
「今の時代」
というものが、あくまでも、
「時系列における、現在というピンポイントの瞬間だった」
という場合においてということである。
もちろん、歴史というのは、さまざまな時代があり、その中でも神秘的な時代を思いいるというのが、いわゆる、
「考古学」
というもので、それ以外の時代においては、
「もっとヒューマニズムな感覚」
というものが渦巻いていると言ってもいいだろう。
「考古学の世界」
というのは、自分たちの想像もできないような時代であり、
「毎日を生きていくことが大変な時代だった」
ということになる。
「生きるということに、どれほど真摯に向き合っていたのか?」
ということであり、
「明日をも知れぬ命」
と言うほどに、
「獲物が取れないと、食事ができない」
という時代だったのだ。
「文明というものは、生きるということに困らない時代が近づくことで生まれてくるものだ」
と言ってもいいかも知れない。
米作りという、人類にとっての食糧問題を、革命的に振り払ってくれた改革によって、
「毎日の獲物の存在」
というものを気にすることはなくなってきた。
農耕作というのも、確かに天気の影響などによって、豊作、不作に見舞われ、食糧不足が清国で、
「大飢饉」
というものが、時代を動かしてきたと言ってもいいだろう。
だが、それまでの、
「肉食」
という狩猟であったり、木の実を食するという、
「明日の食糧が保障できない」
というほどの不安定ではない時代に比べれば、日本でいうところの、
「弥生時代」
からを、
「文明の始まり」
と言っていいだろう。
まず、かつての縄文時代と弥生時代との違いがどういうものなのかというと、
「狩猟を生活の根幹としていた時代」
であれば、
「人間が、食べ物を求めてさまよう」
という時代でもあった。
つまり、
「土地」
というものに対して、一切の執着があったというわけではないのだ。
もちろん、
「竪穴式住居」
というものを作り、そこで、土器を使っての生活をしていたので、
「住居が決まっている」
という方がいいだろう。
しかし、弥生時代になり、コメが主食ということになってくると、その生活が根本から変わってくるのだ。
「土地というものに、稲を植え、そこで、稲を育てることで、コメを収穫する」
というのが、弥生時代以降の生活である。
その土地で、
「コメを育てる」
ということで一番大切なのは、
「水の確保」
という問題である。
稲作において、田植えの時期には、かなりの量の水が必要とされる。
それが、山から流れてくる、
「川」
というものであるわけなので、海水のような、
「塩水」
では、稲作はできないということになるのだ。
弥生時代には、皆の主食が米ということになるので、
「たくさん収穫できるところ」
というのを誰もが求めることになる。
そして、自然とまわりとの境界ができてきて、次第に、
「いい水を求めて、争いが起こってくる」
ということになる。
皆、求めているものが同じであり、それを争いというものによって解決を図ろうとする。
それが、
「欲」
というものになり、その中で、人間の性格がそれぞれに違うのだから、そこで、差別が起こってくるのだ。
それによって、
「支配階級」
なるものが生まれてきて、その利権というものを、解決するために、争いというものが、武器を使っての、
「戦」
というものに変わってくる。
「縄文時代から、支配階級による戦の時代までの発展」
というものが、
「最初の文明の起こり」
ということになるのだろう。
世界四大文明と呼ばれるものには、共通点があったではないか。
「黄河文明」
というものには、「黄河」・
「インダス文明」には、「インダス川」。
「メソポタミア文明」には、
「チグリス=ユーフラテス川」
「エジプト文明」には、
「ナイル川」
という大きな川の存在があった。
日本においても、
「今の政令指定都市と言われる大都市のほとんどには、市内を、一級河川と呼ばれるような大きな川が流れている」
というではないか。
それを考えると、
「古代文明の発展」
というものには、
「争いの元となる大きな水源」
というものが必ずあったということになるのだろう。
だから、
「文明と争いの原点は、水源」
というものであり、
「文明」と「争い」
というものの起源は、
「同じ時期であり、同じものから派生したものだ」
と言ってもいいのではないだろうか・
今の時代から見れば、
「決して、裕福な時代だった」
とは言えないが、一つでも生活にゆとりができてくると、そこから人間は、文明の発展により、その起源とされる、
「土地」
というのをめぐって、
「争いというものが起こってくる」
ということになるのだろう。
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