第4話 熊代板金
ぼくが初めて買った車。
初代マークX。
高級セダンだ。革張りのハンドル。木目調のセンターパネル。グレーのファブリックシート。
そのふかふかの助手席に、クマみたいな板金屋さんが座っている。ぼくは運転席で缶コーヒーをひと口飲んだ。ひんやり冷えたコーヒーの味が口のなかに広がった。
「缶コーヒー、おいしいです」
「ああ、おれもこんなにウメェと思ったビールはひさしぶりだ」
そう言ってクマみたいな熊代さんは、缶ビールをあおった。
「生き返るよな」
「あのさ、生き返ったのは、あたしなんだけど」
カーナビから、きれいな女性の声が聞こえた。
「うるせえ、こっちは金玉ちぢむ思いがしたんだ!」
「あー、それな。男ってタマ系の例え多いよねー。女だとそういう例えがないんだよなぁ」
マジメに金玉の話をする女性。この車に転生した小早川礼子さんだ。
なぜか、ふっと熊代さんが笑った。
「その、シモネタに平然とついてくる女。なつかしいな」
「おう。おまえら工業系男子は、シモネタばっか言ってたからな。もまれたぞ」
「時代がかわって、今じゃ男でも女でも、シモネタはタブーだ」
「みたいだな。ラジオ聞いてたから、あたしも今の時代はわかるよ」
「だまってりゃ、レイコはいい女だったんだがなぁ」
ふたりの会話は、気になる会話だった。
「あの……」
「おう、なんだ中坊」
「クマちゃん、中坊じゃない。マー坊だから」
ぜんぜんフォローになってない礼子さんだ。
「そうか、マー坊か。いい名だな」
なにがいいんだか。
「んじゃよ、マー坊、なんだ?」
聞き返されて、どう聞けばいいのか迷った。
「えっとその、どんな女性だったのかなと」
「レイコか?」
「ええ」
「そりゃあ、まさに美人レーサーって感じだったぜ。長い黒髪。キリリとした目と鼻」
カーナビ画面の下に文字が流れた。
「……( ̄∇ ̄*)エヘヘ……」
礼子さん、そんな機能もあるんですか。
「若くて美人。レース業界でだれもが期待する女性レーサーだった」
「クマちゃんも若かったよな」
「そうだな。ふたりして野望に燃えてたな」
「初の女性F1レーサーか。言ってたのクマちゃんだけだぞ。あたしは走れれば良かったんだから」
「おれだけじゃねえ。国内レースを勝ち上がって、F3へ。チーム全員そう思ってたさ」
「クマちゃん、あたしが死んだあとチームは?」
聞かれた熊代さんは、ちょっと笑って缶ビールを飲んだ。
「つぶれたさ。美人レーサーのレイコがいたから、スポンサーも引く手あまただった。それがいなくなりゃ、おれのチームにだれが金をだす」
スポンサー。たしかレースをするには
カーナビの下へ静かに文字が流れた。
「……<(_"_)>……」
「いや、おめえがいたから夢が見れた。あのころいた連中、すべてそう思ってるはずだぜ」
ふたりは元おなじレーシングチーム。そうなると気になることもあった。
「あの、ふたりはその」
「なんだ、マー坊」
「熊代さんと礼子さん。おふたりは、もと……」
「恋人かって?」
「はい」
熊代さんは「ガハハ!」と笑った。
「男のうしろから金玉蹴りあげるような女、付き合いたいやつなんているか?」
「蹴りあげたんですか!」
「クマちゃん、あれは相手が悪いっつうの。たちの悪い走行妨害ばっかしやがって!」
カーナビから反論の声が聞こえた。
「まあな。だからと言って、相手チームのピット行って蹴りあげるか。キモ座りすぎだぜ」
なるほど。そんな女性、付き合いたいわけがないです。
「まあ、昔話はこれぐらいでいいとしてだ」
熊代さんが飲み終えた缶ビールを片手でにぎりつぶした。
「おれんとこに来た理由はなんだ。昔話に花をさかせてえタマじゃねえだろ。おれが知ってるレイコって女はよ」
「だから、あたしに玉はないっつうの!」
「ああ、レイコの玉は金じゃねえ。金はやわらかいからな。鉄の玉を持つ女。それがレイコだよな」
「あのな……」
「んでよ、おれになんの用で来た。この車のチューンナップか。いいぜ、なんでもやってやる」
なんだか、カーナビを見つめる熊代さんの目が燃えているような気がした。
「ちがうちがう。レースするわけじゃないんだ。基本的なメンテ。それで充分」
「なんだ、つまんねえ」
「マー坊にドライブの楽しさを教えたいんだ。せっかくの高級セダンだしさ」
「あー、なるほどな」
納得するように熊代さんがうなずいている。
「いまの若い連中、車なんて興味ねえからな」
「それにマー坊、そんな金持ってないし。ここはひとつローンで」
「金なんざいるかよ」
「だめだめ。自分で買った物だから大事にする。そういうもんだろ」
「まあな。バイトして車につぎこむ。それが青春か」
「だろ、あたしらの時代は」
せ、せっかくのご厚意が、目の前で消えていく。
「あの、ぼくは無料でも。それはそれは大事に」
「心配するな。バルク品、探してやるよ」
「ば、ばるくひん?」
「中古の部品ってことだ」
「そんなものがあるんですか」
「正規ディーラーじゃ、やらないがな。街の修理屋はこぞって利用してるぞ。そういうバルク品を集めて売ってる専門の業者がいてな」
そう言われて「どんな車でも買います」なんてネットの広告を思いだした。
「まあ、工賃はタダにしてやる。十万ぐらいありゃ、いろいろ買えるだろ」
「十万!」
「マー坊」
礼子さんに呼ばれた。
「その工賃ってのが、もっとも高いんだ。当たり前で、こういうプロの人たちの長い時間をうばうんだ。オイル交換するような簡単な話じゃない」
それもそうか。
「よ、よろしくお願いします」
車の中で、ぼくは熊代さんに向かって頭をさげた。
「おう。部品集めるまで、一週間ぐらい待ってくれ」
「はい!」
ぼくは初めて車を買った。車のことは何もわからない。
「おい」
「はい、熊代さん」
急にマジメな顔つきで熊代さんがぼくを見た。
「事故るなよ。もし事故っても、すぐにおれを呼べ」
そうか、この車はただの車じゃない。レイコさんという女性そのものだ。
ふー。なんだか気が重い。
初めて買った車。初代マークX。
夢に見た初日。車を買った日に、ぼくはどんな気分なんだろう。そんなことをバイト中に妄想していた。
「人生、なにがあるか、わかんねえもんだな」
熊代さんが言った。
まったくもって、その通りだった。
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