第3話 老婆と犬と白い霧

 祐人が島にやって来て一週間が経過した。転校生フィーバーはすっかり収まり、休み時間毎に姓とたちが祐人の席に集まることもなくなった。しかし入れ替わり立ち代わりの質問攻めのおかげでクラスメイトたちは祐人の顔と名前を覚え、祐人もまた彼らの顔とを名を覚えることができた。その結果、一週間で祐人はすっかりこのクラスに馴染み、生徒たちも彼を友人として受け入れるようになっていた。

 ある日の朝、祐人は教室の扉をガラリと開けると、挨拶をしながら教室へと入っていく。

「おはようございまーす!」

「おはよー」

「おっはー」

「今日も元気だね」

 教室にいたクラスメイトたちは口々に挨拶を返す。祐人は「おはよう」を連呼しながら自分の席へと進んで行く。前の席の健太と育美はどちらも不在だったが、隣の席の早織は一人静かに読書に勤しんでいた。

「広瀬さん、おはよう」

「……おはよう」

 声をかけられた早織は顔を上げて挨拶を返すと、すぐにまた本の世界へと戻っていった。二人の会話はそこで途切れる。しかしそれはいつものことだった。

 僅か一週間でクラスの大半と仲良くなった祐人だったが、中にはそうでない生徒もいた。その筆頭が隣の席の広瀬早織である。いくら話しかけても反応は薄く、いつも返ってくるのは一言二言だけだったので「もしや嫌われているのでは?」と勘繰ったりもしたが、そういうわけでもないらしい。

 休み時間の彼女は席にいないか本を読んでいるかのいずれかで、誰かと親し気に話している姿は見たことがなかった。どうやら彼女は自分だけではなく他の生徒とも距離を置いているように見えた。かと言って無視されているというわけでもなさそうで、生徒たちは彼女の無愛想な態度を咎めるでもなく、クラスの一員として受け入れているようだった。

「きっと一人が好きなのだろう」

 そう考えた祐人は彼らに倣い、深入りはせずに挨拶を交わす程度の仲に留めていた。

 そんなある日の放課後、授業を終えた祐人が帰宅の途についていると道端に人影を見つけた。手押し車に腰掛けたその人物は真っ白な頭髪をしていた。その足元にはこれまた真っ白な一匹の中型犬。一見すると飼い犬を散歩させている日常の風景にしか見えないが、どこかおかしい。犬は元気なく地面に体を伏せており、飼い主はいつまでたっても歩き出そうとしない。その様子はどこか途方に暮れて佇んでいるようにも見える。

(もしかすると何か困っているんじゃあないだろうか?)

 そう考えた祐人は声をかけて様子を尋ねることにした。

「お婆さん、こんにちは。どうかしましたか?」

「見かけねぇ顔だなや」

 老婆は祐人の顔をじろりと一瞥すると、そう言った。

「最近この島に引っ越してきました、五十嵐祐人と言います。たまたま通りがかったんですけど、何か困ってることありませんか?」

「困ってることなんてねぇ」

 祐人の質問に老婆はつっけんどんにそう答えた。その態度は島の外から来たという余所者に対する警戒心が滲んでいた。

「まぁまぁ、そう遠慮なさらずー」

 しかし祐人はめげることなく話を続ける。その表情は朗らかともへらへらともどちらとも取れるものだったが、少なくとも敵意はないことだけは確かだった。

「……こいづが動けなくなっちまったんだ」

 敵意がないことを感じ取ったのか、老婆は祐人の質問にそう答えた。悪気のない無垢な親切心を無碍に断ってしまったことにたいする罪悪感からか老婆はバツの悪そうな顔をしていたが、祐人はそんなことを気にするようなタマではなかった。

「こいづ?」

「ほら、こいづだぁ」

 老婆はそう言いながら、右手にかけたリードをぐいっと引っ張った。どうやら「こいづ」というのは、足元に寝転がっている犬のことを指しているようだ。

「どこか具合でも悪いんですか?」

「どっこも悪くね、ただへばっちまっただけだ。この通り全然動がねぇ。うちさ運ぼうにも、腰いでくて帰るに帰れねぇのっしゃ」

 この島の方言だろうか。老婆の言葉は訛りの強いものだったが、その意味合いはなんとなく理解できた。要約すると「飼い犬が疲れて動けなくなってしまったが、腰が痛くて家まで運べずに帰ることもできない」ということだろう。事情を理解した祐人は納得したようにうんうんと頷きながら尋ねる。

「ちなみにお名前はなんですか?」

「小太郎だ」

「いや、お婆さんの」

「お、おらかぁ? おらは和子だ」

 祐人の軽いジョークに老婆は戸惑いながらも名を名乗る。

「じゃあ和子さん、僕が家まで小太郎を運びますよ」

「おめも用事ばあるんでねぇのか?」

「暇なんで全然大丈夫ですよ!」

「すまねぇなぁ」

「いえいえ。ハァイ、コタロー」

 そう言うと祐人はしゃがみ込んで小太郎に声をかけた。まるで排水溝から語りかけるピエロのような怪しげな呼びかけに反応したのを確認すると、祐人は小太郎の鼻先に握り拳を近付けて自分の手の匂いを嗅がせる。次に首元を優しく撫でてみたが、嫌がる素振りはない。かといって嬉しそうな様子もない。

「よし小太郎、持ち上げるぞ」

 声をかけて力を入れると、小太郎の体はあっさりと持ち上がった。嫌がるかと思ったが何の抵抗を見せず、ふてぶてしいまでに落ち着いている。

「ずいぶんと大人しいですねー」

「こいづも年だからなぁ」

「いくつぐらいなんですか?」

「んだなぁ、13かそこらでねぇがな」

「いや、和子さんの」

「まーたおらかぁ? ははは! おかしなやろっこだなや」

 和子は祐人の二度目のボケに声を上げて笑った。

「冗談言ってねで行ぐべし、ついて来い」

 和子はひとしきり笑うとゆっくりと立ち上がり、手押し車を押すようにして歩き出した。祐人は小太郎を腕の中に抱いたままその後を追う。抱きかかえられた小太郎は身じろぎ一つせずに、なすがままにその身を預けていた。


 雑談をしながら10分程歩いていると、和子は一軒の家の前で足を止めた。純日本風の立派な家屋だ。かなりの年季を感じるが、それがまた味わい深い雰囲気を醸し出している。

「苦労かけたな。お茶っこでも飲んでけや」

 そう言うと和子は手押し車を押しながら再び歩き出す。その時、腕の中で大人しくしていた小太郎がくんくんと鼻を鳴らして降りたそうな素振りを見せた。ゆっくりと地面に降ろしてやると小太郎はのそのそと歩き出し、庭に設置された小さな小屋の中へと引っ込んでいった。和子の姿はすでに家の中へと消えていた。

「今お茶淹れっから、適当に座っててくれや」

 お言葉に甘えて家へと上がった祐人が通されたのは、どうやら茶の間のようだった。畳張りの部屋の中央には重厚感溢れる茶色い座卓が鎮座している。座卓の一角にはリクライニング式の座椅子が、壁際に配置されたテレビと相対するように置かれている。きっといつもこの座椅子に座ってテレビを見ているのだろう。

「ほんに今日はどうもなぁ。こんなもんしかねぇけど、食いせぇ」

 お盆を持って戻ってきた和子は、そう言って祐人の前にお茶とお茶菓子を差し出した。一口モナカに甘い煎餅、オブラートに包まれたカラフルなゼリーにおかきにチーズとアーモンドが乗ったやつという錚々たる顔ぶれ。これぞお婆ちゃんの家のお菓子という錚々たるラインナップだった。

「ありがとうございます! いただきます!」

 そう言うと祐人は湯気の立つ湯呑みに手を伸ばした。中身はどうやらほうじ茶らしい。香ばしい香りと湯呑みの温かさに心が落ち着く。

「それにしても立派な家ですね」

せがれと住んでんだ。ここんとこは仕事だ何だでろくに帰って来ねぇ。……昔は爺さんと倅夫婦と孫娘の五人で住んでたんだがよ。今となっちゃあ、二人で住むにゃ立派すぎるぐらいだ」

「そう……なんですか。立派すぎるといえばうちは両親と僕の三人暮らしなんですけど、引っ越してきた家が三人で住むには広すぎて『これは掃除が大変だね』と家族中で話題なんですよ。何か父の会社の社宅みたいなんですけど、家賃もやけに安いらしくて……」

「……丘の上の家か?」

 まくし立てる祐人の話を遮るように和子が尋ねる。

「はい、そうです。丘の上にある大きな家です」

「ほうか……あの家に越してきたんか……」

「……あの家が何か?」

「いや、何でもねぇんだ。何でもねぇ」

「?」

 含みのある曖昧な返事に疑問符を浮かべながら何気なく窓の外に視線を移すと、外の景色がぼんやりと白く滲んでいるのに気が付いた。

「霧が出てきましたねぇ」

 祐人がぽつりと漏らした言葉に反応し、和子はちらりと外に目を遣りそして言う。

「ありゃあ、サギリサマだぁ」

「さぎりさま?」

 その言葉の意図が分からず祐人は和子の台詞を思わずオウム返しした。和子は答える。

「こん島じゃ、霧が出るのはしょっちゅうだ。すぐ収まるし害もねぇ。気ぃつけなきゃなんねぇのは、だ」

「く、黒い霧?」

「んだ。黒い霧が出たらすぐに逃げろ。でなけりゃ死んじまうぞ」

 戸惑う祐人に向かって和子はきっぱりとした口調でそう断言した。


 夕焼けが辺りを照らす中を祐人は歩いている。和子の家から出た時はまだ霧が出ていたが、歩いている内にいつの間にか晴れていた。しかし霧は晴れたものの、水分を多く含んだじっとりとした空気が体中に纏わりついてきて何となく気持ちが悪い。歩いていると体中が汗ばんでくる。じめじめとした嫌な汗だ。どうやらこの島では日常的に霧が発生するらしい。となると、島に来て最初に見たあの白い影も単なる霧だったのだろう。そう考えれば合点がいく。だが――


『黒い霧が出たらすぐに逃げろ。でなけりゃ死んじまうぞ』


 和子から聞いた言葉を思い返す。あの真剣な表情はとても冗談を言っているようには見えなかった。黒い霧。この島の言い伝えだろうか? 子供を叱る時に「悪い事をすると鬼が来るよ!」と脅かすような……

「黒い霧か……」

 祐人は小さくつぶやくと、ズボンのポケットからスマホを取り出して件の言葉を検索した。しかし検索結果に表示されたのはプロ野球の事件や本のタイトル、それにゲームの技ぐらいなものだった。

「うーん……」

 唸りながら検索を続けていると、興味深い情報を見つけた。何でも1952年にロンドンで黒い霧が発生し、1万人以上が亡くなったらしい。そしてその正体はスモッグというもので、石炭の燃焼によって発生する煙や化学物質が原因とのことだった。(出典:Wi〇ipe〇ia)

「今時、大気汚染が発生するぐらい石炭なんて使っているのか?」という疑問は残るが、これが一番妥当な説だろう。

「つまり大気汚染に気を付けろ……てコトかな。サギリサマってのは……言い伝えか何かだろう」

 祐人は再びつぶやくと、無理やりに自分を納得させてからズボンのポケットにスマホをしまい込んだ。

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