第9話

おにぎりを食べ終わって、小さなスケッチブックにデッサンをしてたら気持ちよくて少し寝てたみたい。気がついたら、海斗さんは居なくなってた。


 時計を見たら、まだ授業まで1時間くらいある。

 ちょっと早いけど、アトリエに行ってみることにした。


 月曜日だからか、アトリエには誰も居なかった。


 アトリエには、たくさんの描きかけの油絵が置いてあって見ているだけで楽しい。


 トントン


 肩を叩かれて後ろを向くと海斗さんがいた。


 “早いですね。教室も開けたので良かったらどうぞ”


 「こんにちは。でも、もう少しみんなの見てていいですか?」


 “もちろん。この前のデッサンどうでした?ずっと深刻そうに描いてたから”


 「難しいです!心折れてました笑」


 “さっき、公園でデッサンしてましたね。声をかけようと思ったら気持ちよく寝てたから…チラッとだけ見ちゃいました。すみません”


 寝顔を見られてたなんて、恥ずかしすぎる!そこは、照れ笑いして誤魔化した。


 「なんかもう…何をどう直せばいいのかって感じです」


 “教える立場で言うのもあれなんだけど、最初は描きまくるしかないんだよね…。嫌いにならなければいいけど…”


「そこは大丈夫です。昨日、可愛い積み木買ってきたんですよ。早速練習♪というか、思いっきり添削されて返ってくる方に恐怖を感じています笑」


 “あー笑 そこは、覚悟しておいた方がいいかな”


 ですよね。


 でも、もう恥ずかしいとか“私なんて…”とは思わない。

 楽しみに待っていようと思う。


 「海斗さんはおいくつ何ですか?」


 色々知りたくなって、踏み込んだ質問をしてしまったと思う。

 「最初の知らないことを知っていく感じ」って言っていた亜希ちゃんに似てきたかもしれない。


 “もうすぐ40になるよ。佐藤と同じだから”


「佐藤先生とお友達だったんですね!海斗さんもお医者さんだったんですか?」


 “高校の頃の友達だよ。俺は医者になってない。でも、うちは、医者家系でさ。小さい頃から、レールを敷かれてた。でも、全然興味とかなくて隠れて絵ばっかり描いてたんだよね。それで、若い頃に親と大衝突してさ「そんなに言うなら、東京藝術大学に受かったら認めてやる」って言われて猛勉強だよ笑 今では、発破かけられて感謝だけどね”


 私より12歳も上なんて全然見えない。


 これまで、年上の男性にこんなに普通に話せたことはない。というか、優しい男性は私の人生にはいなかった。いつも私は、父親の影響で年上の男性を警戒していたし、DVを受けていた彼氏のことも…。愛を強く求めているのに、結局は我慢ばかりをさせられていた。


 私の好きな気持ちが、男性にむしり取られていくのは何故だろう?


 “大丈夫?”


 海斗さんが心配して、携帯を私の前に差し出した。

 顔を上げると、さっきの距離を保っている。


 近づきすぎず、遠すぎず。


 その距離が私にとっては心地よかった。


「はい。ごめんなさい」


 吹っ切るように、元気な笑顔を見せた。


 “無理に笑わなくても大丈夫だよ”


 優しい言葉の列が、心の琴線に触れた。

 海斗さんの雰囲気は、優しさに包まれていた。

 私の笑顔のごまかしを毛嫌いして発したものではないのは、すぐにわかった。

 

 これまで、笑顔で、自分の本当の気持ちをはぐらかしてきたことに気付く。

 誰にも傷つけられたくない自分の心の芯を守るための笑顔を、海斗さんは見抜いていた。


 また、訳も分からず涙が伝ってしまう。

 海斗さんを困らせてしまうから、早く普通にならないと。


「すみません。ごめんなさい」

 そう言いながら、笑顔のごまかしが癖になっている私。


 “教室の時間だから、俺は行くから。散らかってるけど、俺のアトリエを使っていいよ。落ち着いたらおいで”


 そう言って、カギを渡して私を連れて行ってくれた。


 その部屋は、海斗さんが描いている絵が所狭しと置いてある。

 確かに散らかってはいたけど、その散らかり方すらもプロの絵師だなと思ってしまう。

 

 描きかけの絵は、F100号の圧倒的な大きさ。

 白馬に乗った男の子が月を引き連れて飛んでいる、幻想的なタッチで描かれていた。


 ホット缶コーヒーを買ってきてくれて、海斗さんは教室に向かった。


 亜希ちゃんのところに行った時から、涙もろくなっている。

 一つひとつ、これまでの鎧が剥がれ生まれ変わっていっているのかもしれない。


 温かいコーヒーと、海斗さんの描きかけの油絵に涙は消えて、目も心も奪われる。


 初めて、自分の絵の具を使える日だったのに…。

 教室に行かなきゃという思考に反して、体はここに居たがっていた。

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