第21話 最後の懇願

 夜空を焦がす炎の色は、はるか遠くの王都から、いつしかこの地にまで映り込みつつあった。

 民衆の嘆きや絶叫は風に乗ってさざめき、何か大きく崩れ落ちるような震動が、ときおり大地を揺らしている。あれほど平穏だったこの土地も、もはや安全とは言い切れない状況だった。


 そんな中、ガブリエル・ローウェルは血に染まった鎧のまま、屋敷へ転がり込むように辿たどり着いた。

 鎧は砕け、身体には幾重もの傷。流れ続ける血が床に滴り、歩くたびに赤い足跡を残す。


 玄関で使用人たちが悲鳴を上げる。


「き、騎士様……そのお怪我……!」

「誰か、手当を……!」


 だが、ガブリエルはそれを振り払い、ふらつきながら邸内を突き進む。


「……パルメリア様は……どこに……」


 血の気が引いた唇で、かすれた声を絞り出す。そして、ようやく屋敷の奥までたどり着いた。


 ――そこには、静かに椅子に腰掛けるパルメリアの姿があった。

 窓の外には、遠くで揺れる赤い光。戦火の予兆が、静かに広がりつつある。

 だが、パルメリアはただ、何の感情も見せることなく、ゆっくりと目を伏せた。


「パルメリア様……お逃げください……!」


 ガブリエルは、膝を突いた。血に濡れた絨毯じゅうたんの上、傷ついた身体を支えながら、声をふるわせる。


「王都はもう、持ちません……暴徒と侵攻軍が入り乱れています……。この領地にも、侵攻の手が迫っています。隣国の兵が流れ込むのは時間の問題です……!」


 屋敷はまだ安全だ。だが、それも今だけ――。

 騎士団も崩壊し、もはやどこにも守るべき防衛線はない。

 このままここに留まれば、逃げるすべすらなくなる――ガブリエルはそれを理解していた。


「まだ間に合います……すぐにでも逃げれば、安全な場所へ……!」


 しかし、パルメリアは微動だにしない。まるで、すでに運命を悟ったかのように。

 ガブリエルは、痛む身体を引きずりながら言葉を続ける。


「お願いです……あなたまで失われてしまっては……私は、私は……っ!」


 パルメリアがゆっくりと視線を落とす。冷えた瞳が、傷だらけの騎士を捉える。


「……ガブリエル、まだそんなことを言うの?」


 その声は穏やかで、けれども冷え切っていた。


「どこに逃げても、結末は変わらないわ。いずれこの国は焼かれる。ならば、どこで迎えようと同じでしょう?」

「そんなことは――」

「ねえ、ガブリエル。あなたは、まだ生きようとしているのね」


 その言葉は、まるで微笑むように、けれど哀れむように響いた。


「ならば、行きなさい。あなたには、まだ先があるでしょう?」

「……っ、私は……!」


 彼は叫ぼうとした。だが、パルメリアの目は、すべてを知った者の目だった。


「私は、ここで終わるの」


 それは、決して覆らない確信。

 遠くで砲撃の音が響く。空は、黒い煙に覆われはじめていた。

 だが、まだこの地に火は届いていない。今ならば、まだ――間に合う。

 ガブリエルは、ふるえる拳を握りしめる。


「……あなたを、置いて行けと……?」

「ええ。……行きなさい」


 静かな命令。

 ガブリエルは歯を食いしばった。何も言えない。どれほど止めようと、パルメリアは揺るがない。


 彼の視界がにじむ。血のせいか、悔しさか――

 ガブリエルは、最後の一度だけ彼女を見つめた。しかし、彼女はもう彼を見てはいなかった。


 ――そのとき、遠くで火の手が上がった。

 赤黒い焔が夜の端を裂き、鈍い光が一瞬だけ空を染める。

 まるで、この世界がゆっくりと息絶えようとしているかのように――どこまでも静かに、それでも確かに、すべてが終焉へと進んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る