第2話 深夜0時へのカウントダウン



会議室の空間が大きく揺らぐ。天井から無数のスマートフォンが雨のように降り注ぎ、床に落ちると黒い水たまりとなって広がっていく。23時52分。深夜0時までの残り時間は、わずか8分。


「先輩...私の本当の気持ち、受け止めてくれますか?」


カスミの影が差し出すスマートフォンの画面が、不気味な青白い光を放っている。その周りを取り巻く無数の影たちも、それぞれスマートフォンを手にしていた。画面には様々な投稿が表示されている。


「待って...」


美咲が声を上げた瞬間、会議室のスクリーンに新たなメッセージが浮かび上がる。


『ユーザーの選択を待機中

以下のオプションから選択してください:


1. 現実世界への帰還

- 全ての投稿を削除

- 記憶を初期化

- SNSアカウントの完全消去


2. リミナルスペースでの永住

- 全ての感情を開放

- 現実との繋がりを切断

- 新たな存在としての再構築


選択時間残り:7分54秒』


「これって...選べということ?」


遥の声が震えている。彼女の周りにも、新たな影が形成されつつあった。その形は、彼女の会社の同僚たちを思わせる。


「選択なんて...そんな」


美咲の言葉が終わらないうちに、カスミの影が大きく歪んだ。その姿は徐々に美咲自身の形に変化していく。そこから聞こえてきたのは、美咲が匿名で投稿した言葉だった。


『新入社員の指導なんて、面倒くさい』

『もっと働きやすい部署に異動したい』

『誰かに全て押し付けて、逃げ出したい』


美咲は息を呑んだ。確かに、彼女はそんな投稿をしていた。疲れ果てた深夜、誰にも見られることはないと思って打ち込んだ言葉。しかし、それはカスミの目にも触れていたのだ。


「あの...あの投稿は」


弁解しようとする美咲の声を遮るように、会議室全体が大きく揺れ動く。テーブルに置かれていたスマートフォンが一斉に明滅を始め、それぞれの画面から新たな影が生まれ出ていく。


それは、美咲の会社の社員たち。上司、同僚、部下。そして、すでに退職してしまった元同期の姿。彼らは皆、スマートフォンを手に持ち、画面に映る自分の投稿を、まるで仮面のように顔に貼り付けている。


『23時55分

感情の具現化が限界点に到達

現実世界との境界、崩壊まで残り5分』


スクリーンの警告が、不気味な赤い光を放っている。会議室の壁が、まるでろうのように溶け始め、その向こうには無限に続く闇が広がっていた。


「これは...私たちの投稿が作り出した世界?」


遥の問いかけに、影たちが一斉に反応する。彼らの持つスマートフォンの画面が同時に輝き、そこから新たな言葉が溢れ出してきた。


『誰もが本音を隠している』

『SNSの中でしか、自分を表現できない』

『現実の人間関係なんて、所詮表面的』

『だから私たちは、この場所を選んだ』


影たちの声が重なり合い、渦を巻いていく。その中心では、カスミの影が美咲に手を差し伸べたまま、微動だにしない。


「先輩...逃げなくていいんです。ここなら、全てを受け入れられる」


カスミの声は、どこか優しく響いた。しかし、その背後では影の渦が徐々に大きくなり、会議室の空間を飲み込もうとしている。




闇の渦が会議室を浸食していく中、美咲の目の前に一つの光景が浮かび上がった。まるでスマートフォンの画面のような四角い空間。そこには、カスミが入社してきた日の風景が映し出されている。


新入社員の歓迎会。みんなが笑顔で乾杯をしている中、カスミは少し緊張した面持ちでグラスを持っていた。そして、その夜遅く。美咲は自分のスマートフォンに、こんな言葉を打ち込んでいた。


『また面倒な新人が来た。この子、絶対長続きしない』


画面が切り替わる。今度は一ヶ月後の風景。残業が続いて疲れ切ったカスミの姿。しかし、美咲は彼女の様子に気付かないふりをして、自分の仕事に没頭していた。その夜のSNSには:


『新人の教育って、こんなに大変だったっけ?誰か代わってよ』


さらに画面は流れていく。カスミが体調不良で休みがちになった頃。会社の噂話が、SNSの中で少しずつ広がっていく。


『あの子、メンタル弱いんじゃない?』

『こんな会社で働けないなら、辞めれば?』

『誰かさんの指導が悪いんでしょ』


それらの投稿の一部には、確かに美咲自身が関わっていた。善意のつもりで書いた言葉も、画面の中では不気味な影を帯びている。


「私...こんなこと」


自分の行動を振り返る美咲の前で、影の渦がさらに激しくなる。会議室のテーブルが溶け始め、椅子が歪み、天井が波打つ。


『23時58分

感情データの統合開始

全ユーザーの共鳴現象を確認』


スクリーンの警告が、さらに緊迫感を増す。遥も同様に、自分の過去のSNS投稿と向き合わされていた。彼女の周りには、会社の同僚たちの影が渦を巻いている。


「これは...私たちが作り出した世界なのね」


遥の呟きに、影たちが反応する。それぞれが持つスマートフォンの画面が一斉に明滅し、新たな言葉を紡ぎ出す。


『現実では言えない本音を』

『匿名の仮面の下で』

『誰もが自分を偽って』

『だからこそ、この場所が必要なの』


その瞬間、会議室の床が大きく揺らぎ、まるで液体のように波打ち始めた。美咲と遥の足元から、黒い水が湧き上がってくる。それは二人の膝まで達し、そして腰まで。冷たく、しかし生命を感じさせる不気味な感触。


「これは...投稿された言葉?」


遥が身を震わせる。黒い水の表面には、無数の文字が浮かび上がっては消えていく。それぞれが、誰かの本音。誰かの叫び。誰かの悲しみ。


「先輩...もう逃げなくていいんです」


カスミの影が、さらに一歩近づいてくる。その手に持ったスマートフォンの画面には、新しい投稿が表示されている。


『23時59分

最終選択フェーズ開始

現実世界との完全な分離まで、残り60秒』




「残り50秒」


システムの声が、空間全体に響き渡る。黒い水は、今や美咲と遥の胸元まで達していた。その深みから、新たな影が次々と浮かび上がってくる。会社の同僚、上司、取引先の人々。SNSを通じて繋がった全ての人々の影が、二人を取り囲んでいく。


「これが、私たちの作り出した世界...」


美咲が呟くと、周囲の影たちが一斉に動きを止めた。彼らの持つスマートフォンの画面が、まるで鏡のように美咲の姿を映し出す。そこには、彼女が投稿してきた全ての言葉が重なり合っていた。


善意で書いたアドバイス。怒りに任せた批判。羨望から生まれた皮肉。そして、孤独な夜に打ち明けた本音。それらが複雑に絡み合い、一つの物語を紡ぎ出している。


「残り40秒」


遥が持つスマートフォンが強く振動する。画面には新たな選択肢が追加されていた。


『第三の選択:

- 全ての投稿を現実化

- 匿名性の放棄

- 真実の関係性の構築』


「これって...」


遥の言葉が途切れる中、カスミの影が二人の前に立ちはだかった。その姿は、もはや完全な人の形ではない。無数のSNS投稿で構成された、感情の集合体。その中心で、カスミの目だけが、かすかに光を放っている。


「残り30秒」


黒い水が、さらに上昇を続ける。その表面に映る文字の群れは、まるで生き物のように蠢き、互いに混ざり合い、新たな意味を生み出していく。


「先輩...私たちは、本当は分かり合えたはずなのに」


カスミの声が、影の渦の中から響いてくる。それは非難でも憎しみでもなく、どこか悲しみを帯びた響き。


「残り20秒」


会議室の空間が、さらに激しく歪み始める。壁は完全に溶解し、その向こうには無限の闇が広がっている。天井は渦を巻き、床は波打つ。現実とリミナルスペースの境界が、音を立てて崩れていく。


スマートフォンの画面に、最後の警告が表示される。


『これが最後の機会です。

あなたの選択が、全てを決定します。

‐ 現実への帰還

‐ リミナルスペースでの永住

‐ 真実との対峙


残り時間:15秒』


美咲は、自分の周りに渦巻く影たちを見回した。そこには、彼女が知るすべての人々の形が見える。そして、それぞれが抱える本音の言葉が、闇の中で光を放っている。


「残り10秒」


遥が美咲の手を握った。その感触は確かに実在する。しかし、周囲の空間は、もはや現実のものとは思えない。


「私たちの選択で...これは変えられる?」


「残り5秒」


カスミの影が、ゆっくりと手を差し伸べる。その手には、最後の投稿が表示されたスマートフォンが握られていた。


「4」


黒い水が、二人の顎の高さまで達する。


「3」


影たちの持つスマートフォンが、一斉に明滅を始める。


「2」


会議室の空間が、完全な崩壊の瀬戸際に達する。


「1」


そして——。


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