第1章 タイムリープ後の世界(西暦1990年、並行世界B)

第1章1話 不思議な日常1


 場所を俺の部屋のベッドに移し、いつの間にか俺は姉さんに膝枕をしてもらっていた。柔らかな感触と、どこか安堵を誘う甘い香りに包まれ、心臓がやけに早く鼓動している。深く息を吐き出し、自分を落ち着かせようとするものの、頭の中はまだ混乱したままだ。


「落ち着いたかしら?」


姉さんの声は、まるで母さんがそばにいるかのように優しい。その問いに対して、俺はベッドの上から見上げる形で彼女の顔を見つめる。ふと、母の面影を思い出した。けれど今、膝枕をしてくれているのは「姉さん」。俺にはそんな存在はいなかったはずなのに。


「……少しだけ、落ち着いたかも」


そう呟いてみたものの、胸のざわめきは消えない。もしかして、ただの夢かもしれない――そう考えて口を開いた。


「夢の可能性はないのかな?」


「えい」


姉さんは軽く俺のほっぺをつねる。優しい仕草だけれど、ちゃんと痛みは走った。


「ごめんなさい。痛かった? 優しくつねったつもりだったのだけれど」


「大丈夫……」


それでも、なんだか母さんに甘えているような感覚が胸に広がる。姉というものは、こういう存在なのだろうか。少なくとも、俺が知っていた妹とは違う感じだ。


「俺には妹しかいなかったんだ。姉さんがいるなんて、おかしいんじゃないかな?」


 今までの人生で姉がいたことなど一度もない。俺の唯一の兄弟は、2歳年下の妹の舞だけだ。それなのに、いま目の前にいる彼女は当たり前のように「姉」として存在している。


「ふふふ、妹大好きな人みたいなことを言うのね? でも、お姉ちゃんの方がずっといいわよ」


 そう言いながら、俺の頭を撫でてくる。その手つきに妙な安心感があって、思わず目を閉じそうになった。子供の頃に、母さんの膝の上で甘えたときの記憶が蘇る。そういえば、今の俺の身体自体が子供に戻っている。違和感は拭えないのに、同時に懐かしさを感じてしまうのは何故だろう。


「パラレルワールドってわかるかしら? あなたは妹がいる世界から、姉がいる世界に移動してきたのよ」


「?」


 意味がわからない。頭に霧がかかったような感覚がする。呆然としている俺に、姉さんは当たり前のことを話すように続けた。


「お姉ちゃんだけど、愛さえあればいいよねってことよ」


 訳が分からない。


「多分、あなたは西暦2020年に死んで、タイムリープしてこの世界にやってきたのよ。そして、もう戻ることはできないでしょうね。だから、この世界で仲良く暮らしていきましょう」


 戻れない――そう言われると胸が苦しくなる。死んだはずの自分。もう既に前の人生とはまったく違う状況だ。だが、俺には見捨てられない人たちがいた。守りたい『家族』。


 俺はなんと答えればいいのかわからず、姉さんの膝枕から逃れられないまま、その温もりを味わいながら頭の中で必死に考える。元の世界に戻ることは不可能なのか。でも、それでも俺にしかできないことがあるはずだ――そんな思いがぐるぐると渦巻いていると、インターホンの音が家の中に響いた。


 母さんが出迎えたのか、誰かの足音が近づいてくる。俺の部屋のドアが開き、お嬢様然とした少女が姿を現した。黒い長髪の三つ編みと、まるで人形のように整った顔立ち。しかも頭に銀のティアラまで載せている。背筋をまっすぐに伸ばし、青いワンピースがよく似合う。


「優様、おはようございます」


 見るからに育ちが良さそうなその少女を見た瞬間、俺の心に震えが走った。同時に、懐かしさに近い衝動が込み上げる。


「愛!?」


 思わず呼んでしまった名前に、少女は怪訝な表情を浮かべる。見た目が愛とそっくりなせいで、言葉が勝手に口を突いて出た。


「え?」


 少女は首をかしげた。その姿が、かつての愛――俺の大切な女性の子供の頃と重なるように見えてしまう。さっき姉さんを見たときの衝撃が、また蘇る。


「この子は二条真姫(にじょうまき)。一応、あなたの婚約者よ。少し人選を誤った気もするのだけれど……」


 姉さんはさらっととんでもないことを言う。婚約者。俺は心臓が苦しくなる感覚に襲われる。


「絵里香様、ひどいです。それに、今さら紹介する必要なんてないでしょう?」


 真姫と呼ばれた少女は、困惑した目で姉さんを見る。そこには上品さだけではなく、幼いながらも揺るぎない意志のようなものが宿っている。


「優君は熱病になったせいで、少し記憶障害になっているのよ」


 姉さんがそう言うと、真姫は俺の方に足早に近寄ってきた。まだ子供のはずなのに、なぜか圧倒されるような雰囲気がある。


「優様、まさか私のことも忘れてしまったのですか?」


 顔が近い。瞳の奥が真っすぐすぎて、嘘はつけない。俺は小さく唇を動かすだけだった。


「ごめん……」


 短い言葉に、真姫は少しだけ表情を曇らせる。だが、すぐに毅然とした目を取り戻し、俺を見つめ直すと微笑んだ。


「……病気なら仕方ありません。また、一から始めるのも悪くないです。私が優様を愛しているのは変わらないのですから」


 たった10歳ほどの少女が、婚約者だというのか。普通に考えればありえない。でも、この世界は俺の知っていた世界とは根本的に異なるらしい。真姫には確かに愛にそっくりだが、全く同じ人物ではないのは明らかだ。何しろ、時代が違う。


 おぼろげな記憶だが、愛の母親の名前も二条『マキ』だと聞いた気がする。ということは……この真姫が愛の母親で間違いないだろう。


「優様? どうかされましたか?」


 真姫が不安そうな目を向けてくる。姉さんは穏やかな笑みを浮かべたまま俺たちを見守っている。その二人を前に、俺は微かに微笑んでみせた。心の奥で何かが始まる予感がする。どうなるかはわからない。けれど、どこかで思い描いていた『もしも』の先に、俺の大切な人たちを救う鍵があるかもしれない。


 もう元の世界には戻れない。そこでは、俺は死んでしまった。けれど、この世界にはまだ生きる余地があり、俺にしか為し得ないことがある。『家族』を守りたい。不幸を回避したい。いずれアロマウイルスが襲ってくるなら、それを何とか防ぎたいという気持ちが湧き上がっている。

 そして、いつか愛や加奈子に、再び会える日が来るのだろうか――その希望に縋らなければ、俺はきっと立ち上がれない。


「……大丈夫」


 それだけを呟いて、俺は姉さんと真姫、それから頭に思い浮かぶ愛の姿に向けて、そっと決意を固めた。ここで生きていくのだ。どんな運命が待ち受けていようとも。






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