第33話 花恋の思い出

「ゆうくん、こんにちはー、また来ちゃった。いつものいちご牛乳飲ませてー。ピアノの練習疲れちゃった。」


軽やかな足取りで店に入ってきた花恋が、微笑みながら言った。


「いらっしゃい。」

ゆうくんは慣れたように応じ、手を動かし始める。


そのやりとりを聞いていたしずくは、にこやかに微笑んだ。


「ああ、花恋さん。こんにちは、私たちは今から帰るところなんで、ゆっくりしていってくださいね。」


—— なんでお前が言うんだ?


花恋は内心でそう思いながらも、気にしないふりをした。


「こんにちは、相変わらずきれいですね。なんかいい匂いもするし。」

あいりが続ける。


「フリージアよ。またあいりちゃんにも教えてあげるね。」


花恋は柔らかく微笑んだが、ふと眉をひそめた。


ん? 何か変な匂いが混ざっている気がする。


「ねえ、あいりちゃんは何の香水つけてるの? ちょっと変わった匂いがするけど……。」


「えっ!? ええっと、ちょっとごめん、しずく待って、私も行く! 花恋さんごめんなさい、急いでるんで!」


あいりは慌てたように言い、しずくを追いかけて店を出ていった。


—— 何か隠してるな。


花恋は目を細めたが、すぐにゆうくんに向き直る。


「なんか用事があったみたいね、二人とも。」


「文化祭の準備があるみたいだね。」


「ふーん、ゆうくんは関係ないの?」


「うん、女子が楽しんでるのを邪魔できないからね。とてもじゃないけど割り込めないよ。」


花恋はゆうくんの言葉に、少し考える素振りを見せた。


「ゆうくんはカッコいいし、モテると思うんだけどな。」


「ははっ、花恋さんにそう言ってもらえると嬉しいけど、僕は面白い人間じゃないからね。はい、いちご牛乳。」


カウンターに、淡いピンク色の液体が満たされたグラスが置かれた。


花恋は、それを手に取る。


—— 一口飲んだ瞬間、甘くて優しい記憶が蘇る。



---


14歳の夏——初めてのいちご牛乳


私は、いわゆる名門女子校に通っていた。

毎日、学校が終わるとピアノのレッスン。母も父もピアニストだったから、練習は厳しく、いつも完璧を求められた。


その日も、大事なピアノコンクールがあった。

けれど——私は、ミスをした。


小さなミスだったのに、審査員はそれを見逃さなかった。

当然のように優勝は逃し、控え室で待っていた両親にどう言い訳をすればいいかわからなかった。


悔しさと情けなさで、会場を飛び出し、公園のベンチに座り込み、ただひたすら泣いた。


——その時だった。


「……お姉さん、これ飲む?」


気がつくと、隣に小さな男の子が座っていた。

歳は私よりずっと下。まだ幼さが残る顔。


「それ、僕が初めて作ったいちご牛乳なんだ。おいしいかわからないけど、お姉さんが悲しそうだからあげる。」


渡されたのは、ピンク色の飲み物。


「いちご牛乳……?」


私の家では、ジャンクなものは禁止されていた。

でも、そんなことはどうでもよかった。


ちゅーっとストローで吸うと——口の中に、甘さといちごの香りがふわっと広がる。


「おいしい……。お姉さん、初めて飲んだよ。」


「僕も、初めて作ったものだから上手じゃないかもだけど……喜んでくれて嬉しいよ。」


ふふっ、不思議だった。


まだ小さい子なのに、どうしてこんなに優しいんだろう。


「僕は世界一のいちご牛乳を作って、それを飲んでもらって、世界一喜んでもらうのが夢なんだ。」


——世界一喜んでもらうため。


それを聞いた瞬間、私は涙が止まらなくなった。


私はピアノを続けていたけれど、何のためにやっているのかわからなかった。


ずっと「世界一のピアニストになれ」と言われていた。

でも、それは私の夢ではなく、両親の夢だった。


——ゆうくんは、誰かを喜ばせるために頑張るって言った。


私は、何のために弾いてるんだろう?


嗚咽をこらえきれず、肩を震わせると——


小さな男の子は、そっと私を抱きしめてくれた。


「よしよし。」


——あたたかい。


この子は、まだこんなに小さいのに、ちゃんと私を慰めてくれる。


「ありがとう……だいぶ気持ちが落ち着いてきたよ。」


「よかったね。」


「ねえ、君の名前は?」


「ゆうだよ。みんなゆうくんって呼んでる。」


「ゆうくん……私は花恋。花に恋って書くの。また、ゆうくんのいちご牛乳飲ませてもらっていい?」


「もちろん!」



---


それからの数年間、私はレッスンの合間を縫って、ゆうくんと話し、彼のいちご牛乳を飲みに行った。


そこから離れたのは、留学が決まったから。


でも、私がどんな場所にいても——あの日の味と、彼の優しい声を忘れたことはなかった。



---


現在——カウンター越しに見るゆうくん


いちご牛乳の甘さが喉を通り、現実に戻る。


目の前には、大きくなったゆうくん。


今も、彼は変わらず優しいまま。


けれど——今、彼が一番に考えているのはしずく。


それは、わかっている。


わかっているけど、二人はまだ恋人ではない。

しずくが特別なことは感じるけれど、それでもまだ、私が諦める理由にはならない。


私は、あの日、この人に恋をしたんだから。


だから——絶対に、負けない。



---


「ねえ、ゆうくん?」


花恋は、ふっと微笑んだ。


「うん?」


「やっぱり、ゆうくんのいちご牛乳は世界一おいしいよ。」


ゆうくんは、いつも通りにほほえんだ。

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