俺のクラスの優等生がちょっとおかしい件について

達花雅人

第1話 G的遭遇

 十日町孝介は、1―B教室の扉を開けてしまったことを、瞬時に後悔した。


「かさかさかさ、かさかさかさかさ」


 孝介の目の前。


 涼しげな半袖のYシャツと制服のスカートを身に着けた少女と思われる生物が、四つん這いの格好でなにやら教室の床を前後にハイハイしていた。


 たまに思い出したように止まりまた動くその前後運動に、少女の身に着けたスカートが扇情的に揺れる。


 年頃の男子高校生にはなんとも刺激的な光景だが、少なくとも、今の孝介にそれを楽しむ余裕など皆無である。


「なにか違う気がするなあ」


 一瞬電源を完全に落として停止していた孝介の脳は、透き通ったソプラノの疑問の声によって再度立ち上がった。


 逃げねば。


 まず最初に思ったことはそれだった。


 幸い、件の少女と思わしき生物は、まだ孝介に気付いていない。


 何かぼそぼそと言っていたからだろう。


 孝介が教室の扉を開けて自分の眼の前に立っているなどと露とも考えていない。


 頭から垂れ下がり床まで届いている長い黒髪が、どこかで見た恐怖映画を連想させた。


「う~ん、…かささささ?」


 いや気にするとこそこじゃねえから。


 そう言おうとして、孝介は湧いてきた言葉を無理やり喉の奥に押し込めた。


 とりあえず今は我慢だ。


 突っ込みたいとこはもうほんと色々あるが、ここはあくまでクールに冷静かつ迅速に回れ右をしてこの場から駆け去らなければならない。


 そして何事も無かったように、今日起こったことは昨日食べた夕飯を思い出せないように忘れなければならない。


 それが俺のためにも、今、目の前にいるおぞましい生物の真似をしている少女のためにも、きっと良いに違いない。


 そう確信した孝介は出来るだけ足音を立てないように後ろ向きのまま眼前の四つん這い少女からマイナス方向のベクトルへと足を踏み出す。


 その時だった。


「? …え!?」


 目の前の漆黒のしだれ柳。眼のついてないそれの首方向が確かに孝介を捉える。


「だ、誰ですかっ!?」


 少女には孝介が見えていないのだろう。


 不安な声を発し、素早く四つん這いの姿のまま何を間違ったか陸にあがってきてしまった真っ黒な海坊主の勢いで孝介に迫った。


「!? ハ、ハリーアップッ!? 近づくんじゃあねえ! そこからあと一ハイハイでも近づいてみろ! そのクソ長い髪をワカメちゃんみたいな髪型にするぞッ!!」


「あ!? …ッ!?」


 驚いた少女がぴたりと動きを止める。


 四つん這いをやめ髪をかき分け孝介の顔を見ても良さそうなところではあるが、彼女はそうしなかった。


 それは彼女がこんな奇行をしてはいるが、実のところドのつく真面目少女でもあるということに起因していた。


「…」


「…」


 リリリと、時間を少しフライング気味な鈴虫の声が、二人しかいない放課後の教室に響く。


 外はもう橙色の夕陽に染められており、あと数時間もすれば太陽は本日の業務を終了するだろう。


「み、見ました?」


 四つん這いのままの綺麗な黒髪が、孝介に問うた。


 その問いに答えることなく、孝介は少女の手を引き、ちゃんと二本足の人類として立たせた。


「あ、ありがとうございます」


 よく手入れされ光を照り返している髪を手でゆっくりとわけながら、少女ははにかむように笑う。


 その笑顔をあさっての方向に顔をそらしながら、孝介は自分の心に浮かんだ言葉を片っ端から目の前の少女にぶつけることにした。


「さっきのことだが、確かにばっちり見ちまった。だが安心しろ、俺は誰にも言わない。俺は別にあんたがその、なんだ、台所に出て来るやけに黒光りするヤツの真似してたからって、別にどうとも思わない。この後俺には予定があるんだ。コンビニに行って週刊誌を立ち読みし思わず二度見したくなるような漫画が載ってりゃ買い、さらにこのクソ暑い真夏の日常にほんのちょっとばかりの安らぎを得るために、冷たいアイスでも買うっていう大事な予定がな。だから―」


「ひきましたかッ!?」


「近い近い近いッ!?」


 何故か満面の笑みで迫ってくる少女、その頭を掴み何とかその場に押し止めようとする孝介。


 それでもなお止まらぬ少女の勢いに、孝介が指で少女の額を思い切り弾いた。


「いだッ!? い、痛いです…」


「とりあえず落ちつけ。なんなんだあんた、考えるのも嫌な―」


「ゴキブリですッ!」


「ああッ言いやがったな!? せっかく俺が何とか言わないよう言わないようしてたってのにッ!」


「ゴキちゃんですッ!!」


「可愛く言ったって駄目なモンは駄目なんだからなッ!? てめえ、もうほんといい加減にしろよ」


 孝介が凄むが少女は気にした風でも無く、さっきと全く同じ質問を投げかけた。


「それで、ゴキブリの真似をするわたしを見て、十日町君はどう思いましたか? ひきましたか? それはもうちょっとしゃれにならないレベルでひいちゃいましたか!?」


 こいつの頭はどうかしてる。


 他人から自分がゴキブリの真似をしてるところを見られて困惑も恥ずかしがりもせず、どこか喜んでいる節さえある。


 露悪的な趣味でもあるのだろうか。


 優等生もなかなか大変なもんだなと他人事のように思いながらも、孝介は仕方なく聞かれた質問に答えることにした。


「ああひいたよひいちまったよどんびきだよ。うら若き少女がこんな遅くまで教室に残って、北海道にこれから進出予定です応援してね断固断ると思っちゃうような生物に擬態して台所をはい回るような真似をして、しかもそれが自分と同じクラスの女子でなおかつ世間一般では品行方正の優等生様で通ってる新城秋姫であるあんたがそれをやってるんだと考えると、まったくタチの悪い夢でも見ちまった気分だ。…これでいいか? さあ早く俺をこの悪夢のような現実からゴーホームさせてくれ。ちょっと変な緊張で前立腺が俺の意志だけで封鎖できなさそうなんでな」


「ひいてくれたんですねッ!!」


「うるせえ」


「あいでっ!?」

 

 ナッツを噛み砕くような音を響かせながら、秋姫と呼ばれた少女の額にまた一つ朱がつけくわえられた。


「さっきからあんた、ひいたかひいたかってちょっとしつこいぞ。ったく、なんでゴキブリの真似なんか」


 そこで一旦口を閉ざす孝介。


 遅いと彼にはわかっている。


 さっきまで余計なことに一切突っ込まずにさっさとこの関わり合いから逃れたいと思っていた彼だったが、生来のおせっかい焼きが彼をその行為へ至らせることなく中途半端な問いかけを口に出してしまった。


「聞きたい、ですか?」


 どこか嬉しそうに眼を輝かせる秋姫に、孝介は素直になんかうぜぇと思った。


「いいや、聞きたくないね」


「そんなそんな、十日町君、聞きたいって顔してます。もう見られちゃいましたし、十日町君には、聞く権利があると思うんです」


「そんな権利、二束三ジンバブエドルでドブ川のボウフラに売りつけてやる」


「でも知りたいですよね? 知らないと、今夜午前三時ぐらいに、不意に気になって起きちゃいますよね?」


「ならないね。はいさようなら、さようなら」


 一人で教師役と生徒役を兼任し器用にお辞儀すると、その場から猛ダッシュで孝介は逃げた。


 冗談じゃねえ、もうこんなところにいられるか、俺は帰るぜと、なんだか帰りにトラックにでもひかれそうなフラグを盛大におっ立てながら、孝介は誰もいない廊下を一目散に駆けていく。


「…ばれちゃい、ました」


 そんな彼を複雑な表情で見つめる秋姫の姿を、この時の孝介はまだミミズの糞ほども知りはしなかった。






 日曜を挟んで明けた月曜日。


 土曜夕方に遭遇してしまった同級生の奇行などさっぱり忘れ、いや、忘れられるはずもなく、孝介は朝から教室の自分の席であの衝撃的な光景を何とか網膜の外に追いやろうとシャーペンでこめかみを乱雑に刺激していた。


 前の席のドミンゴがそれに気付きからかってきたが椅子を蹴飛ばし大人しくさせると、孝介は黒板の近くでクラスメイトと談笑している件の人物、新城秋姫を見た。


 秋姫はいつも通り仲良く数人と談笑しているところだった。


 秋姫と談笑している友人達はいずれも世間一般では美人と定義づけられる容貌であるが、その中でも秋姫は頭ひとつ抜けている。


 一部の特殊な性癖の男以外ならば誰でも秋姫とお近づきになりたいと思うだろう。


 彼女の長くしなやかな黒髪と、品行方正で誰にでも人当たり良く接する姿勢が人気の秘訣であることを孝介は知っている。


 知ってはいるが、孝介は今までろくに秋姫と話した記憶がなかった。


 そういうのも、彼の風貌がややもすると話しただけで殴られそうな雰囲気をまとっており、平たく言えば前時代的な不良という部類にカテゴライズされるものであることが要因の一つだった。


 孝介には簡単に人を近寄らせない雰囲気がある。


 生まれつきの目つきの悪さもそれに拍車をかけた。


 しかし容姿や態度はともかく、内面はいたって普通の、そこらへんに転がっていそうな高校生と何ら変わらない。


 それ故特に問題を起こすことはないが、だからと言って積極的に話しかけづらくもある。


 それが十日町孝介という男だった。


「ん? お前さっきからこめかみどうしたよ? あ、徹夜だろ徹夜。あれだな、ちょいと頑張り過ぎちゃったんだな?」


 そう言って振り向いたドミンゴが右手を上下にシェイクする。


 孝介がこめかみを抑えたまま軽く尻を蹴り上げてやると、ドミンゴはカマ狼の遠吠えのような気色の悪い声を出してまた前方に姿勢を正した。


「ったく、なんだってんだよ…」


 土曜は厄日だった。


 孝介は舌打ちしながら当事者である秋姫を見た。


 一見、いつも通り明るく礼儀正しい優等生然とした立ち居振る舞いで周りに笑顔を振りまいている。


「…」


 それを見て、自分だけが考え過ぎているだけなのだと孝介は思い直した。


 少なくとも、秋姫の方に不審な様子は全くない。


 孝介が見た数少ない秋姫の姿を総合的に考えると、いたって普通の秋姫と言えるだろう。


 そう思い直し、やはりあれは悪夢か何かだったのだと思おうとした。


「何考えてたんだよ孝介。これか、これのことか?」


 前の席のドミンゴが反省と言う言葉を自宅に置き忘れてきたかのように振り返りウインクしながら小指を立てる。


「お前のそのよくわかんねえあだ名のことだよ」


 孝介が立てた小指を思い切りへし折ると、朝から汚い悲鳴が教室に響き渡った。







 午前の授業が全て終わり、昼休みを告げた自らの胃袋に焼きそばパンでも詰め込もうかと孝介が立ち上がった時だった。


「あの、十日町君」


 ぎょっとしたクラスメイトの視線が一斉に二人に集まる。


 優等生と不良。この普段接点などありえそうもないツーショットは、それほど事件なことだったのだ。


「なんだ新城、俺は腹が減ってるんだが」


 平静を装い答えた孝介だったが、少なからずぎょっとしているのは彼も同じであった。


 昨日の今日で孝介が認知しうる危険外来生物のトップに躍り出た少女が、何の間違いか自分に話しかけてきている。


 これは孝介自身にとっても事件以外の何物でもなかった。


 そして孝介は、自身も自覚している持ち前の不良的雰囲気で何とかこの場を乗り切ってみようと頑張ってみる。


「えっと、聞いて欲しいことがあって」


 その目論見は早くもとん挫した。


 重ねて言うが、孝介はめんどくさいことの嫌いな不良然としたただの一般人なのだ。


 他人の頼みを無碍に突っぱねてまで腹を満たすなどということは、悪徳の致すところだという信念を持っている。


 故に、即座に孝介は、決して抜きはしないが構えてはいた刀の柄である自らの雰囲気から手を放した。


「土曜のことか?」


 多分、いや十中八九それのことだろう。


 それならばまだこちらとしても若干の心理的余裕というやつはある。


 こんな風に聞いてくることを考えていなかったわけではないのだ。


 孝介はまた心の構えを新たにし、目の前に立ちはだかるこの奇怪な優等生から繰り出される次の言葉を待った。


「あの。怒らないで、聞いて下さいね?」


「何だよそれ。怒らねえよ。っていうか、なんであんたは俺に怒られるとー」


「わたしとっ、付き合って下さいっ!!」


「……は?」


 瞬時、教室全体の空気が固まりー


「「「「な、なにィーッ!?」」」」


 怒号と共に、爆発したのだった――

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