青春のメモリアル『ゆずり葉の絆で、夢を捨て愛を叫ぶ』

神崎 小太郎

第一話 湯布院の四季


 こよなく愛する美しい故郷、恋の湯の坪街道、花合野の川。紅葉に染まる谷、湯けむりが漂う街。無情な日差しが霧を引き寄せ、由布の高嶺の雪が静かに解けてゆく。


 掛け流しの湯音が響き渡る石畳を、浴衣姿の女性たちがそぞろ歩く。夕日に映える鳥居が浮かぶ金鱗湖から見える由布と富士は、親子の山か、それとも合わせ鏡か。


 今日はふと思い出したように、母は自分の思いを由布院の四季折々の景色に重ねて口ずさんでいた。そのとき、彼女の顔には、滅多に見られない嬉しそうな笑みが浮かんでいたように見えた。


 九州生まれの女性は、広大な自然の中で育まれ、少々のことでは動じない力強さを持っている。その気質から生まれる元気で朗らかな魅力は、人を引きつける。我が家も例外ではなく、寡黙な父と賑やかな三姉妹を支えるのは、圧倒的な存在感を放つ母である。


 父は調理場で黙々と包丁を振るい、美味しい料理を作り上げる。一方、母は旅館の女将として、訪れる客をいつも笑顔で迎え入れ、部屋に案内し、心を込めて食事を運び、隅々まで掃除を行う。その姿は、家庭と宿の屋台骨そのものである。


 数人の仲居さんとともに多岐にわたる仕事を手際よくこなし、細やかな気配りを忘れない母の姿には、九州女性の強さと優しさが宿っている。


 両親は高校時代からの幼馴染である。母は明るく社交的な性格で、誰からも好かれる存在だ。反対に父は一見すると寡黙だが、内輪ではユーモアたっぷりの話し上手であり、ボードゲームでさえ決して負けを認めない負けず嫌いである。


 彼女たちがどのように夫婦として結ばれたのか。その物語には、不思議な運命の糸と、心惹かれずにはいられない温もりが織り込まれている。母の目を盗みながら、そっと開いた二人の出会いから始まる写真アルバム。


 ページをめくるたびに、時間がそっと巻き戻されるような感覚に包まれる。そのアルバムの片隅には、我が家の庭で摘まれた「ゆずり葉」の押し花が、静かに眠るように佇んでいた。それはまるで、二人の思い出をそっと見守る守護者のようだった。


 いつか母にその物語を訊ねてみようと思いながらも、二人の恋路に触れることがためらわれ、その問いは心の中でそっと息を潜めたままだ。


 私たちが暮らす湯布院の街は、いつの間にか「別府の奥座敷」としてその名を知られるようになった。毎朝、母は新聞を読みながら「あんなライバルには負けられん」と強がりを見せるのが日課となっている。


 情緒あふれる湯布院の街並みに一歩踏み出すだけで、日本人の心に残る懐かしい故郷の風景が広がる。江戸時代にタイムスリップしたかのような古民家が立ち並び、街を取り囲む由布岳を背景に、四季折々の花々が美しい田園風景を彩っている。


 春には心癒される蛙や虫たちの大合唱に包まれ、清らかな桜と菜の花が咲き誇る。晩夏になると、色なき風が棚田を渡り、赤とんぼが一斉に舞う。


 秋には、実りの季節風に揺れる稲穂が頭を垂れ、紅葉が山々を彩る。冬には、湯あがりの娘たちが雪化粧に包まれた風景の中で、話の花を咲かせる。


 私が特におすすめなのは、我が家の窓から見える金鱗湖だ。湖畔には、秋から冬の冷え込んだ日の早朝にだけ広がる珠玉の景色がある。秋の紅葉に染まる神秘的な風景と朝靄が織りなす幻想的な冬の風物詩だ。


 金鱗湖には湧水と温泉の両方が流れ込み、空気が冷え込む晩秋から冬にかけて、その温度差で湖面から水蒸気が立ち上る。この季節に訪れた人しか見られない景色は、まるで別世界に迷い込んだかのようだ。


 意外に思うかもしれないが、南国と思われがちな九州でも、十二月になると豊後富士の双子山とも呼ばれる由布岳と鶴見岳やのどかな田園風景が雪に覆われ、観光客を驚かすこともある。


 一年を通じて可愛らしいカフェや雑貨屋が多い温泉街は、浴衣姿の女性たちに人気が高い。湯布院駅前には足湯があり、観光客が膝まで浸しながらのんびりとした時間を過ごす姿が見られる。


 街中を歩いていると、どこからともなく聞こえてくるパッカパッカという馬のひづめの音が耳に入る。白馬がゆっくりと引く辻馬車がのどかな田園地帯を行き、日常の忙しさから解放されるひとときを過ごせる。


 そんな湯布院の街は、まるで時計の針が止まったかのように、日本の原風景とモダンな観光地が溶け合い、私が自慢できる唯一無二の故郷だ。


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