四章05・神性の座
五
「懐かしい匂いがする」
低く落ち着いた声が聞こえた。
気づけばジルは肩で息をしながら両手で顔をおおっている。その手は人のものだ。顔全体を触って確かめたが、獣の痕跡は見当たらない。転化したのではなかったのか。
「……ここは」
封廟ではない。ジルは立ち並ぶ本棚の中にいた。
弱々しく淡い白光が均一に落ちている。薄曇の日のような明るさの中に背の高い棚が縦に、横に並び、それ以外のものが見えない。本棚に収容しきれずに溢れた本は、床や本棚の上に山のように積んでいる。本と本棚で作られた迷路のようなそこは、フィアルカの書斎を彷彿させた。
蔵書はどれも年代物の雰囲気を持つが、タイトルが読めないのは劣化のせいではない。なぜか文字がぼやけてよく見えないのだ。
その中のひとつを本棚から抜き取ろうとしたジルの手に、横から手を重ねた男がいる。
「君が見るべきものじゃない」
ジルの隣に立った低く落ち着いた声の主は、その本を本棚の中へそっと押し戻した。
「ここは僕がはじめて知識というものに出会った場所をイメージして作った、永遠に読みきれない知識の図書館。君は僕の一部だけど、触れる資格は与えていない。君よりひとつ前の子は盗み見てしまったようだけど」
彼はジルの首元に顔を近づけると、鼻をすんと鳴らして匂いを嗅ぐ。
「たくさんの魂の匂いがする。よく知っている気がするけど、なんだったかな……まあいい」
闇を集めたような黒い髪の大男だ。ジルの首から顔を上げ、じっと見つめてくる瞳に鮮やかな色がついている。琥珀のような金色だった。ニコリともしないが気難しい感じはなく、物静かな印象を受ける。
顔の造りはジルと見分けがつかないほど似ていた。
「バルツァル……」
ジルはかすれた声でその名前を呼ぶ。
これは夢か幻に近い。封廟でいびつに再生した獣の姿で吊られていたバルツァルが、人の姿で動いている。彼からは獣の匂いも人の匂いもしない。ジルの耳は静寂の中でも微量な音をひろうがここには何もなく、彼とジルが立てる二つの音しかなかった。これだけの本があるのに紙とインクの匂いもいっさいしない。
現実味がないここはバルツァルの精神的な空間。ミラは彼を『新たに神性を獲得した獣』と称したが、それなら神性の座と呼ぶべきか。
「……さっきの獣への転化は貴方が視せたんですね」
「最後の僕の魂の名前は、ジルだったかな」
バルツァルが本棚の中を歩きだし、ジルは彼の背中を追った。
はじめてバルツァルが知識に触れた場所――フィアルカの書斎を模した空間は、確かにあの書斎と同じだ。床に積み上げられた無数の本のせいで、場所によっては足の踏み場がほとんどない。つまずかないようにバルツァルを追いかけるが、どこへ行こうとしているのか。おそらく当てはない。
この空間に果てはなく、無限に本が並んでいるのだろう。一冊一冊に人智外の大いなる知識が記されているのだ。そう思うと寒気がしてくる。
「僕の記憶を視たジルはもう知っているようだけど。女神の理から外れた僕は、女神の信徒のように転生の中で罪を償えない。だから魂を分けて産まれ直し、疑似的な転生を行うことにした。全部で七つ。その魂たちは罪を背負って産まれて死の瞬間を経験するまで、みんな内なる獣に怯えながらも律してきたんだ」
歩みを止めずに肩越しにジルをちらりと見て、バルツァルは眉を寄せた。
「でも最後の君はひどい出来だ。自分の魂でありながら、おぞましい。欲望に身を任せて血を貪ったのか」
軽蔑が浮かぶ彼の眼差しを拒むつもりはない。
「血を得るために命は奪っていません」
「それは問題じゃない」
バルツァルは諦めたように深く息をつく。
「こんな惨事になったのは魂の元である僕が罪深いからだ。分けた魂の中でジルはもっとも僕に近い。その理由だけど……ああ、そうか。くわしく説明しなくても、ひとつ前の子の魂を喰らったから記憶にあるだろう。人のものではない知識を元に、君の器はフラスコの中で産まれた。錬金術ではホムンクルスと呼ばれるものだ」
ジルには母親が存在しない。肉体の基礎は父の細胞から作られた。器を作り、そこに魂を招き入れる。理論のみでいまだに誰も成し遂げていない錬金術によるホムンクルスの生成を、父はこともなげに成功させたのだ。
当然、誰にも明かさなかった。生成の経過記録はすべて燃やしたが、どこからか噂が流れ、神秘学者が研究をかすめ取ろうと躍起になっていたのを父の記憶で知った。
図書館などへ出かける際に必ずジルを連れていったのは、成果物である可能性が高いと思われているジルが攫われるのを危惧していたからだ。自分の目が届かない時は、何も知らないエドガーがジルの側にいるようにそれとなく仕向けていた。
「分けた魂を入れる器の作り方はなんでもいいんだ。重要なのはそこじゃない。器を作る際に人間の母体の協力を得ていないということは、混じりけがなさすぎるんだ。外側を見れば分かるだろう。ほとんど僕と同じものを作ってしまった。僕のように獣としての感覚もきわめて強い。外側も内側もよく似ているから、君がしたことは僕も同じ状況にあれば同じ選択をしたかもしれない。僕は醜い君を自分だと認める。だからこそ償いを重ねなくてはならない」
やはりバルツァルは贖罪を終わらせるつもりがない。
「どれだけ続けても貴方は決して満足しない。もうここまでにしましょう」
「どうして?」
バルツァルは心の底から不思議そうに問いかける。
「贖罪のためだけに造られ、巻きこまれた僕たちは、得るものも希望もないこの永遠に意味を見出せません」
「巻きこまれたとは、おかしなことを言う。僕は君を自分だと認めると言ったけど、君も、他の子も僕なんだよ。はじめの子はスレイド。僕のすぐあとだったから、教会にひどく恐れられた。枢機卿の息のかかった者たちの手で郊外のカタコンベ跡に閉じこめられ、死の匂いを嗅ぎながら育った臆病な子は怠惰にも何もしようとしなかった。ありのままを受け入れ、日の光を見ようともせず、彼は食事を運ぶ雑用係の少女との間に子をもうけてからすぐ獣になった」
二番目はブロック。
「ブロックは外に出ることを許された。教会に監視されながら人々の中で生き、ある日、出会った女性と心をかよわせた。他者を自分以上に慈しむ感情は善きものだ。でも彼は内なる獣に怯えるあまり、徐々にすべてを恐れ疑うようになって愛する人も信じられなくなった。妄想的な嫉妬に駆られ、愛する人の首を絞めているところを修道士に取り押さえられてそのまま獣に。愛する人はショックで精神を病んでしまった」
三番目はオーソン。
「オーソンは、はじめは冷静な子だった。ブロックの乱心を目の当たりにしたからだろう。彼は自分の中の獣を上手く飼い慣らそうと慎重に日々を重ねていた。でも成人した辺りから、だんだん血の渇きに抗えなくなって鶏や羊の血を飲むようになった。でも渇きは癒えるどころか増すばかりで、やがて運命への激しい怒りを抱いた彼はその怒りを残虐にも屠る動物へ向けた。それでも良心は残っていたよ。最後は自分の異常性に耐えきれなくなって教会に投獄してほしいと願い出た」
四番目はサイラス。
「サイラスは幼少の頃から血を欲していた。ただ毎日、自らの血を少量づつ摂取することで、どうにかなっていたんだ。でも血を啜る背徳的な行為が彼の精神を病ませ、彼は不安定な心を物で慰めようとした。欲しいものはなんでも手に入れた。強欲に金を求め、浪費し、他人を欺き、法に触れることはなかったけど酔ったあげくの喧嘩も多かった」
五番目はランス。
「ランスも素行がよくない。好色で、いい加減。暴力だけは嫌っていたけどね、借金もあった。でもそれは彼の心が繊細で脆かったからだ。うちなる獣への恐れを快楽に溺れて忘れたかった。彼が涙を流さない日は一日たりともなかったよ」
六番目はハヴェル。ジルの父だ。
「彼は傲慢だった。僕の知識をかすめ取っただけにすぎないのに、世界のすべてに触れられると自惚れていた。他者を見下し、興味を持たず、彼は内なる獣に怯えるよりも残された時間に怯えていた。足りないのは時間だけだと。でも最後に自分は何も成せないのだと思い知り、打ちのめされた彼は空虚で哀れに思う。そして最後はジル、君だ」
ここまで淀みなくひとりづつ評価したバルツァルは、いったん息を整えた。
「君の人生の大半はやさしい人たちに守られていた。それはすばらしい幸運だ。罪深い魂がそういった縁に巡り合えたのは偶然じゃない。贖罪が良い方向に向かっている兆しだと、僕は期待したんだけどね……君は人の生き血を好んで貪った。他の子たちはうちなる欲望に間違いを犯しながらも抗ってきたけど、君はあっさり受け入れた――この君たちの軌跡は僕の軌跡だ」
「獣の衝動に駆られ、少女を喰い殺した貴方の深い絶望は理解しています。魂に刻まれた罪の意識を、僕も自分のもののように感じている」
「それなのにどうしてやめると言うんだろう。いや、少女? 少女って……なんだったかな」
とぼけているわけではない。
バルツァルはジルの前を歩きながら宙に視線をさまよわせ、すぐに「まあ、どうでもいい」とあっさり切り捨てた。
「……まさか、自分の罪の内容を覚えていないんですか?」
「大切なのは僕が大罪を犯したという事実だ。罪を犯せば罰が与えられる。ついさっき僕に悪意を持って近づこうとした人間にも罰を与えたけど、それが当然の摂理なんだ」
血涙を流していたダーレンの痛々しい姿が浮かぶ。自分を覗き視ようとしたダーレンの目を、バルツァルは奪って罰を与えた。
違和感を覚える。自らを大罪人と言いながら、彼の思考は尊大だった。
「自分に近づこうとするのを罪とするのは傲慢では?」
「人が立ち入るべきじゃない」
「覗き見れば目を、踏み入れば足を、果てには貴方は命までをも奪うのでしょうか?」
「命を支払うべき罪を犯したなら」
淀みなく答えるバルツァルに、うすら寒さを感じてジルは足を止めた。人の命を奪って深い罪の意識を抱えた男が、人の命を奪うことを厭わなくなっているのだ。
「……貴方は何者のつもりなんですか?」
「僕がこの世のあらゆる生物より上位の存在であるのは事実だよ。僕の意志ではないが、そうなってしまった」
人としての倫理観が薄れた彼は自らの基準で罪を決め、その罪に対して罰を与える。新たに神性を手に入れた獣は、罪と罰を司っているつもりなのか。それができてしまう力を有しているのが恐ろしい。
そんな男が人の世で贖罪を続ければ、それは災厄となりかねない。
「やっぱり貴方はもう人の世にいるべきではありません。僕も、貴方も、こことは違う場所へ進んだ方がいい」
「違う場所?」
バルツァルも足を止め、ジルに振り返る。ジルの言葉を反芻しながら彼は顎に指を添えて考えを巡らした。
「ああ、魔女がいるところか。神々の領域だ。概念も根底も何から何まで違うあそこでは罪も罰もない。なるほど。君はただの獣として生きるつもりなのか。罪を忘れ、生まれ変わるように。それは確かに自由だ。自由すぎる」
話しながら徐々に顔を険しくさせるが、その声は相変わらず落ち着いていて愚か者を哀れんでいるようだった。
バルツァルを知っている者は、彼を純粋だと称した。確かに贖罪を求める想いはひたむきで純粋だ。それしか見えていない。
「僕はそうします。貴方をも喰らい、僕は『バルツァル』の魂の所有権を手に入れる」
その蛮行が可能だと、バルツァルは分かっている。ジルが父の魂を喰らった時、奪うようにして彼は他の魂を呑みこんだ。ここに連れてきたのもジルの行動を阻止するためだったのだろう。
彼はジルに脅威を感じていた。
鏡で映したように寸分たがわない容姿の男は、底知れない威圧感を漂わせながらジルを見据えている。
「……分かった。少し早いが、とは言っても本当に少しだけだ。今回はここで終わりにしよう。かまわない。次の計画の準備はもうだいぶ前からできている」
「え?」
「君は何もできない。僕が終わりと言えば、終わりなんだ」
対話は決裂した。バルツァルの静かな声が終わりを告げ、舞台の幕が閉じるように唐突にジルの視界が暗転した。
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