三章06・風と夜


 廊下を二人の女が歩いている。

「クリスを見なかった?」

「いないの? シーラもだよ。しばらく街に行くのやめて、大人しくしてようってみんなで決めたのにさ……あっ、ジルのお気に入りの!」

「使用人部屋の場所? そっか。ジルに頼まれたんだ。ついてきて」

「ほんとキレイな顔してる。ジルのじゃなければ味見するんだけどなあ……って、ジル! 戻ってきてたの? も、もちろん手は出さないよ――あれ? 今、ジルがいた気がしたのに……」


 書斎で机に向かう高貴な男の傍らに、家令が控えている。

「エドガー様、こちらにサインを。これで最後です」

「面倒な手続きを任せきりで悪いな」

「わたくしの仕事ですから。しかしよろしいのですか? 差し出がましいことを申しますが、養子を迎えられるのはまだ早いのでは。その、奥様とお嬢様の……お気持ちの整理がついていらっしゃらないのに」

「それは永遠につかないだろうよ。この先、あの人以外を妻に迎える気はない。だったら先延ばしにする理由は……」

 風がうねる。

「どうされました?」

「いや……今、何か……」




 夜のとばりが下り、修道士の房は暗い。

 机の上の短い蝋燭が手元だけを照らしている。蝋燭の横に端が擦り切れるほど使用した祈祷書を置き、瞼を閉じたダーレンは手を祈りの形に結んでいた。

 房にはベッドと机があるだけ。私物も数冊の本など最低限しかないようだ。質素な生活は現世の欲を捨て去り、女神のしもべとして祈りの生活を送るためだと聞いた。


 闇に溶けるジルにダーレンは気づかない。唇を小さく動かしている彼の声がよく聞こえるように側へ行き、耳を近づけた。

「私はやらねばならない。たとえ死への道を歩むとも。バルツァルの血筋を排除し、清浄をもたらすのだ」

 祈りながら自分に言い聞かせているのか。

「どうして貴方はそこまでジル・バルツァルに固執するんだろう? 魔女と、魔女の眷属への怒りに突き動かされているのだろうか」

 純粋な疑問をダーレンの耳元で尋ねる。


「……正しさを求める気持ちに偽りはない。しかしそれよりも、浅ましい私の目的を果たすために都合がいいのだ。長らく教会が抱える問題が私の手が届く範囲に、私が片付けられる状態で転がっていた。だから他があれば、固執するのはジル・バルツァルでなくても良かった」

「ああ、なるほど。それは出世欲のためだと聞いたことがある。誰もが認める功績を得て、異端審問官長の座を欲する貴方は地盤を固めたいんだ」

「違う! 私は一度もその座を望んだことはない……!」

 祈りの形に結んだ手に力をこめ、ダーレンは悔しそうに奥歯を噛みしめる。


 そう言われるのは嫌なのか。事実ではないことを周囲から言われ続けることに辟易しているのかもしれないと、ふと認識を改めた。

「……違うんだ。私はただ、死が怖い。この世に未練を持つ者は死に恐れを抱く。しかし死とは、女神がすべる輪廻転生の旅へ出ることを意味する。魂はガフの間へ還り、そして命を繰り返して魂を成長させるのだ。女神のしもべである修道士が恐れを抱くなど、あってはならない。しかし私は」

「気に病まなくていい。輪廻転生によって人の魂は不滅といえど、今ある自我を失い、自分とは別のものになる。未知を恐れるのは当然だ。人はその恐れを知るほど知恵を得た。恥じる必要はないと僕は思う」


 外で風が吹きすさぶ音がする。

 机に置いた蝋燭の火が揺れる。修道院は古い石造りの建物で隙間風がひどい。しかし火が揺れているのはそのせいではなかった。

 ダーレンは閉じていた瞼を開き、眉間のシワを深くしながら揺れ続ける蝋燭の火を見つめる。

「これはなんだ? 私を試す魔物の声なのか。あるいは己の弱さが生み出した内なる声が聞こえるのか。去るがいい。迷いは捨てよう。私はやり遂げる。何もせずに悔みながら生き続けるつもりはない!」

 ダーレンが背後を振り向く。その瞬間、ジルは我に返った。



 少しぼんやりしていた。冷たく吹きすさぶ風に攫われ、いつのまにか意識がどこかへ行っていたのだ。何かを見ていたが思い出せない。

 夜の空は分厚い雲におおわれ、湿った風がジルのコートをはためかせる。ジルは旧市街の高い建物の屋根に登り、小高い丘に建つ教会――大聖堂と連なる修道院が一塊となった巨大な建造物を眺めていた。


 まるで要塞だ。ぐるりと周囲を回ってあらゆる角度から確認したが、入りこむ隙がない。屋根を伝っていくことも考えたが、傾斜がきつくて足場が悪い上に、降りられる場所が修道院の中庭くらいしかなさそうだ。さすがに目立ちすぎる。

「クインシーは反対しているけど、やっぱり中へ入るには僕が捕まるしか」


 さっきから教会内の気配に耳を傾けていた。足音や布ずれの音、祈りの声。意識を聴覚に集中させ、様々な音を聞き分けて内部を探っていた。それをしているうちに意識を風に攫われてしまったのだ。

 懐中時計を取り出す。礼拝の時間や修道士たちの日課の動きをクインシーから聞き、自分の耳でも確認した。捕まってから行動を起こすのはこの時間が最適だろう。絶やさず焚く香の番で出歩いている修道士はいるが、大半の修道士は自らの房で祈りを捧げて心静かにすごしている。


「ジル?」

 風の音に混じって背後から聞こえたのはミラの声だ。

 振り向くと大カラスがジルのいる屋根から突き出た煙突の上にとまり、頭部、首、肩、腕と順に、驚くほど自然な流れで人の姿に変わっていく。気づけばすっかり人形のような容姿の黒髪の少女になって煙突に座っていた。

 顔を合わせるのはフィアルカの儀式の時以来だ。


「どこへ行っていたの?」

「ちょっと面白いこと思いついたから」

 元々、彼女は何にも縛られず、思うままに行動している。興味が湧いてジルにつき合っていたが、フィアルカがいなくなったのがきっかけで急に熱が冷めたのかもしれない。


「ジルとこんなところで会うなんて。ここに登ってきたのよね。どうやって? 前に二階から飛び降りたのは見たけど」

「腕力も脚力も人並み以上にあるから。今までしなかったけど、このくらいの高さなら難しくないよ」

「しなかったの? 高いところって、遠くまで見渡せて気持ちいいじゃない」

「できるだけ人を真似て、人と同じように生きていたかったから」

 しかしもう隠す意味はない。


「じゃあ、他にどんなことができる?」

「どんなこと……正直、僕は僕の中にある人と違う部分がどれなのか、完全には理解できていないんだ」

 何が人と違って、何が人と同じなのか。

「ああ、でも。子供の頃にエドガーに指摘されて、分かっている違いはいくつかあるかな。風の声が聞こえるのとか。あと土や草木。火と水は僕にあまり興味ないみたいだから、ごくたまに」


 人間の魂は輪廻転生を繰り返すが、動物は肉体が滅びれば魂は自然物や自然現象に宿るとするのが教会の教えだ。それが事実かどうかをジルは確かめる気がないが、風や草木に意思を感じることはあった。

 人の言語ではない。感情も人のものとは違う。目に見えないそれと会話しているとエドガーが妙に悲しそうな顔をするのが気になって、そのうちこちらからは話しかけないようになった。


 それでも声が聞こえなくなるわけではない。さっきのようにやけに親しげな風がまとわりついてきて、意識を攫われるのははじめてではなかった。

「自然に宿る精の存在を感知しているの? 子供の頃から?」

「街の中で生活していると、人の立てる音の方が大きくて声は聞こえにくいけど」

「血を飲むようになってから、ってわけじゃないんだ。元々、貴方はもうほとんど獣だったのね」

 ずっと認めたくなかったが、そうなのだろう。


 教会の時鐘が風の中に滲む。そろそろ戻らなくてはいけない。

「封廟の場所は分かったの?」

 ジルが視線を向けた方へ、ミラも顔を向けて尋ねてくる。クインシーと突き止めた封廟のある方角だ。その話はしていないのに、ジルが視線を向けただけで彼女は封廟と言った。

 偶然か。いや、きっと違う。


「ミラも場所を知ったみたいだけど、それはミラの影から教会の匂いがしているのに関係がある?」

 そう口にした途端、ミラは驚いたように目を見開いた。

「……随分と鋭くなったじゃない。そう。今はある修道士を観察してるから、教会に出入りしてるの」

 出入りするうちに封廟の場所を知ったのか。確かに自在に姿を変えられるミラなら見つけ出すのは容易だ。


「教会と修道士を嫌っていたのに?」

「嫌いっていうか、面白みがなかったのよ。規則正しく祈りの生活をして、みんなが同じように考えて同じように行動するのが正しいって考えて……でもよく見ると、それだけじゃないのね。修道士も欲を持っていて、あがいて、醜くて。女神のしもべとしてのプライドがあるから、普通の人より罪悪感にさいなまれる。それが面白くて」


 ミラが悪戯っぽく言うそれを、面白いと呼んでいいのかジルには分からない。しかし要するに、ミラは人が生きる中で苦悩し、あがきながら進む姿を眺めるのが好きなのだろう。劇場で舞台を鑑賞するように。

「私という存在はあまりに曖昧で不安定なの。魔女から零れ落ちた力が自我を持つのもまれだし、零れ落ちたあとにこうして消えずに残っているのも不思議。ジルが次に瞬きをする間に消滅するかもしれない」


 消滅という死の足音を常に感じているのに、ミラは悲観しない。ただ、そういうものだと思っていた。

「だったら、楽しいことしたいじゃない!」

 エドガーに似たクセのある黒髪を、自由な翼のように風になびかせながらミラは笑う。

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