三章04・ダーレン
四
教会内にある一室の扉を開く。当然のように入室許可は得ていないが、漆黒の軍服をひるがえして颯爽と中へ入った眼帯の男――エドガー・グレゴルは鳶色の片目で室内を見渡した。
「全員、出払っているようだな。お前だけか。ダーレン」
大きな声を出したわけではないがエドガーの声はよく通る。
広々とした部屋は異端審問官の詰所だ。壁面に並ぶ棚には膨大な量の資料と記録が詰めこまれている。彼らが取り締まるのは魔女や魔女の眷属に関するものだけではない。むしろその他の方が多い。宗教的な異端は様々にあるのだ。
作業用の机がいくつかあり、そのひとつでダーレンは分厚い事典のような本を開いて調べものをしていた。
異端審問官のくわしい人数をエドガーは知らないが、少なくとも十数人の顔は知っている。ここに来るといつも何かしらの作業をしている者が何人かいるのに、今日はダーレンの姿しかない。
エドガーは硬い軍靴の音を高々と響かせてダーレンに近づき、適当な椅子をつかんで机の前に置くと腰かけて脚を組んだ。無遠慮であまりに堂々としたその態度に、たいていの者はたじろぐ。しかしダーレンはエドガーに神経質な眼差しをちらりと向けただけで本のページをめくる手を止めない。
「グレゴル伯爵、用件があるなら手短に願いたい」
「随分な物言いだな。お前たちが欲しがってた人肉パイ事件の捜査記録を持ってきてやったのに」
魔女の眷属にかどわかされた者が献上する血を集めるために次々と人を殺し、血を抜き、処分に困った肉と臓物をパイにして売った事件が少し前にあった。
傷害や殺人、窃盗や詐欺など、法に触れる事件の捜査は街の治安維持を担う軍警察の仕事だ。その中でも宗教的な異端の疑いがある事件――たいていは眷属がらみの事件だが、それはエドガーが率いる少人数の特殊班が捜査を担当していた。
エドガーが捜査記録の書類を懐から取り出すと、ダーレンは立ち上がって側へ取りにくる。
「伯爵が直々にとは恐れ入る。いつもなら部下を寄越すところを。これを口実にジル・バルツァルの捜索状況を探りにきたのだろう」
「居場所はつかんだのか?」
受け取ろうとしたがエドガーが書類から手を離さないので、ダーレンの眉間に常に刻まれているシワが更に深くなった。
彼らはジルの居場所に見当をつけている。エドガーが匿っているか、あるいは審問の場でジルが名前を出したフィアルカの屋敷に身を寄せているかのどちらかだろうと。
しかしそのどちらにも、無理やり乗りこむわけにはいかない。明確な証拠がないのに貴族の邸宅を捜索できるはずがなく、穏便に協力を要請してもエドガーが突っぱねる。郊外の幽静の森の深奥にたたずむフィアルカの屋敷の方は眷属の巣窟だ。容易に人が近づける場所ではない。
「忙しいのだ。伯爵のおしゃべりに付き合っているヒマはない」
「廃礼拝堂の件の調査はお前たちも手を引いたと聞いた。それなのに何を忙しくしている?」
「我々の役目はジル・バルツァルを追うことだけではない」
「別件で忙しい、と」
忙しいのは本当だろう。教会内が妙にざわついているのは、この部屋へ来るまでに感じていた。
数日前に月蝕があった。月蝕の夜は市街地の礼拝堂で特別礼拝が行われ、教会は礼拝の準備に、軍警察は礼拝の参加者が出歩く夜の街の巡回警備で忙しくなる。それが終わったばかりの一息つける時期で、普通なら忙しい理由はない。
(ジルの封廟に忍びこむ計画がバレたか?)
しかし教会内の空気はジルの侵入を警戒し、緊張に満ちているという感じではなかった。困惑して慌てふためいているように見えたのだ。
「そういえば耳にはさんだが、ジルを捕らえ次第、処刑する手配をお前が進めているらしいな。なぜそこまでジルを目の敵にする?」
「個人的な感情は抱いていない。私は正したいだけだ。あれは邪悪であり、人の世に存在するべきではない」
その行きすぎた言葉にエドガーは片目を細めるが、剣呑な眼差しを向けられてもダーレンはひるまない。
「眷属の血を引いて生まれ落ちた運命は己ではどうしようもない。しかし本人がどれだけ善良であっても、血と魂は穢れている。我々はその罪に厳しく接する必要があるのだ。そもそも教会の決定に背いて逃亡しているジル・バルツァルを善良とは言えない。これ以上の肩入れをするならば、伯爵の異端も問わざるを得なくなるだろう。私は貴方が匿っていると推測している」
「俺を脅すとは強気だな。一介の修道士にはできない。さすがは異端審問官長の隠し子だ」
それは公然の秘密だった。
女神に身も心も捧げる修道士は、婚姻を許されていない。そうはいっても昔から聖職者の隠し子がどうのという話は、あとを絶たないものだが。
ダーレンが口をつぐむ。エドガーは書類からようやく手を離してダーレンに渡したが、彼はその場から動かずエドガーを睨むように見た。触れてほしくない事柄らしい。
「異端審問官長は頭の切れる男だったが、今や年老いて寝たきりだ。すっかり気も弱くなり、隠してきた息子をもはや隠すつもりもなく甘やかしているときた」
「……その権力を笠に着たことはない」
「周囲が年若いお前を次期異端審問官長にと推すのは、父親の存在がまったく関係ないとは言えない。父親をよく思っていないのは前々から感じていた。お前はジルのことを言ったが、確かに血は選べないからな」
「よく思えるわけがない!」
ダーレンの目に怒りが浮かぶ。しかしそれはエドガーへ向けられたものではない。
「人格者と言われ、誰もが認める功績のある人物だ。だが影では不義を行い、産まれた子供を捨てるように人にあずけた。養い親が亡くなると放置するわけにもいかず修道院に引きとったが、己の罪から逃げていない者として扱ってきたのだ」
目に怒りを点して握りしめた拳を震わせながら、彼の声は荒ぶる感情を必死に抑えていた。
「それが年老いたために急に孤独に苛まれ、今更、私を息子と呼ぶ。そのような者を軽蔑せずにはいられない。聖職者として……いや、人として正しくない。いびつなこの現状から目を背けている周囲もおかしいのだ!」
思っていたより真っ直ぐな男だ。
素直に心情を吐露され、面食らったが腑に落ちた。ダーレンの正しさにこだわる潔癖は、父親への不信感から来ている。ジルのことに限らず、正しくないものが許せない。おそらく父親の罪の証である自分も恥ずべき存在だと思っているのだろう。
ジルのことが絡まなければ、この青年はエドガーが嫌いではない類の人間かもしれない。改めて考えるとダーレンの歳はジルと同じか、それより下だ。少し大人気なかったか。
「……いじめすぎたな。今日は退散するとしよう」
頭をかいて椅子から立ち上がったエドガーを、ダーレンが止めた。
「グレゴル伯爵。教会内が慌ただしいのは月蝕の夜、市内で発狂者が大量に発生したからだ。魔女の儀式が行われた形跡も観測され、もろもろの確認に忙殺されている。おそらく、かのフィアルカによって再び儀式が行われたのだ」
「なるほど。二百年前に儀式が行われた時も、月蝕だったと記録されていたな」
ジルはどうしているだろうか。フィアルカが儀式を行ったのなら、屋敷に身を寄せているジルも無関係でいられない。
「俺に教えていいのか?」
「……悪戯に混乱を広げるのは好ましくない。詳細が分かるまで伏せるべきだが、おそらく今日か明日にでも伯爵の耳に入るだろう。隠す意味はない。賭場に出入りしている不真面目な修道士から、何度も情報を引き出しているのは知っている」
「知ってるならアイツに伝えておいてくれ。さっさとこの前、貸しにしてやった金を返せって」
そう言うと、ダーレンはこれ見よがしに溜め息をつく。
わざわざ引き留めて話したのは、心の内を吐露した気恥ずかしさを誤魔化したかったのかもしれない。それなら少しでも照れて見せればいいのに、相変わらず不機嫌そうな表情を崩さず、可愛げがなくて笑える。
エドガーは詰所をあとにしたが、最後まで『それ』がいることに気づかなかった。
*
窓から差しこむ午後の光が室内に影を作る。その影の中でもっとも濃い部分がうごめいた。
「正しいとか正しくないとか、おかしなこと言うわね。私の誘いに乗った貴方が」
影から溶けるように現れた少女の姿のミラがからかう。
「魔女の欠片、昼間は人目がある。出てくるなと言ったはずだ」
それをダーレンは一瞥し、元いた席に戻って腰を下ろした。エドガーから受けとった軍の書類を机に置くと、彼は本で隠していた手稿を手に取る。
「確かに私は貴様の誘いに乗って大きな罪を犯す。この祈祷図、バルツァルの消滅を強く願った者が作りあげたと言ったが。どこで入手したのか、まだ明かす気はないのか?」
「出処なんてどうでもいいじゃない。じゃあ、やめる?」
血文字の手稿に記されているのは、図書館の隠し部屋で見つけた神秘学の研究記録。ジルの父が作りあげた祈祷図の描き方を記したものだった。
「……懸念は残るが、この祈祷図は試す価値があると判断したのだ」
「貴方ならそう言うと思って持ってきたの」
まったく隠れる気がないひどく目を惹く深青のスカートを身につけたミラは、猫のような目を細めて笑い、エドガーが座っていた椅子に腰かける。
ジルの父はバルツァルの支配を脱する方法を探していた。その方法に選んだのが、教会の特別な祈りで用いられる祈祷図という形だったらしい。バルツァルの人智外の知識を覗き見たジルの父は、それを行使する人智外の力は持たなかった。ならば人の学問を駆使して行使しようとした結果がこの研究だろう。
「ちゃんとやるつもりがあって良かった。こっちに集中して欲しいのに、エドガーにジルの処刑とか言ってたじゃない。もうジルのことは放っておけばいいのに」
「貴様の言いなりになる見返りに、処刑をやめろと?」
「言わないわよ。でも順番は間違えないで。ジルの処刑の前に祈祷図の方をやって」
「その理由はなんだ?」
「ジルの処刑はバルツァルの計画に組みこまれている。処刑が終われば今とは別の状態に移行するから、この祈祷図が通用しなくなる可能性が高いってこと」
言葉の意味を呑みこめない様子でダーレンは顔をしかめる。
「私を納得させる気がないな。貴様は信用できないが、この手稿に記されているのが穢れた研究ではないのは認めよう」
「信用できない私が持ってきたのよ」
「見れば分かる。異端審問官は異端を見極めるために何が異端で、何がそうでないか、公正な判断の基となる知識を求められるのだから。これは他に例を見ないものではあるが、間違いなく新旧の既存の形式を織り交ぜて作られている」
「血文字は気にならないの?」
「血を必要とする祈祷図も存在する」
「なんだか祈祷図って、だいぶ怪しげなものに聞こえるけど」
「知識が乏しい者の目にそう映る場合がある。だからこそ、祈祷図は大衆に公開されていない密術なのだ」
怪しげと言えば憤慨すると思ったが、ダーレンは冷静に肯定する。
「教会の秘術であるシジルや祈祷図は邪悪から信仰を守る。それは正しい知識と精神によって使用されるべきものだ。見極めは難しい。そのために異端審問官の存在が重視される」
ふーんと、生返事をしながらミラの思考はすでに違うことへ移っていた。
祈祷図は祈る場所で地面に描く。つまりダーレンは封廟へ忍びこむ必要があるのだ。
教会の祈祷図の扱いはひどく厳しいらしく、手稿の祈祷図が穢れたものではなくても、出所不明の祈祷図を描く許可は得られない。独断で強行するのだから、誰にも知られてはいけない。
ダーレンは父親である異端審問官長から封廟の場所を聞き出そうとしているが、ジルとダーレンのどちらが先にたどりつくだろう。そう考えながらミラの胸が弾む。
「それにしても、ジルを処刑するには捕まえなきゃいけないけど。貴方たちにできるの?」
「クインシーが準備を進めている」
よりによってその名前が出たので、ミラは笑いそうになるのを堪えた。
「ジル・バルツァルに裏切られ、あの人は責任を感じている。自らの手で清算しようとしているのだ。必ずやり遂げるだろう」
「随分と評価してるのね」
「クインシーは私がこれまで出会った人たちの中で、もっとも正しい人だ」
ダーレンはよどみなく即答する。
「でもジルに肩入れするのは正しくないから、教会の中で孤立してるんでしょ?」
「確かに。しかしその間違いを犯したあの人を私は尊く感じる。ジル・バルツァルの境遇を哀れむあまり庇いすぎたが、修道士であれば誰もが厭う存在にまで心を砕いた結果だ。そのような慈愛に満ちた行いをあの人以外にできるだろうか。私はあの人のようになりたかった」
「……節穴」
椅子に座るミラはふらふらと脚を揺らしながら、ダーレンに聞こえない声を口の中で転がした。
「少し喋りすぎたようだ」
ダーレンがそう告げて話を終わらせ、ミラから視線を外したのと同時に部屋の扉が開く。詰所へ戻って来た数人の異端審問官が視認する前に、ミラの姿はそこにいた痕跡を残さず消えた。
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