二章05・浴室
五
壁掛け燭台でいびつに溶けた蝋燭が、夜明け前の浴室を照らす。水音を密かに響かせ、バスタブに横たわるのは蒼白い貌の女――男装を解いて白金の髪を下ろしたフィアルカだった。
「魔女の欠片か」
フィアルカに声をかけられ、視認できない状態だったミラは闇から溶けるように少女の姿を作り上げる。
ゆるいウェーブのかかった長い黒の癖髪、ビスクドールのような白い肌、薄く色のついた小さな唇。わずかにつり上がって猫のような印象を与える瞳は、フィアルカやジルと同じ獣に近い金色。育ちがよさそうな愛らしい容姿の中にどこかエドガーの面影を感じる少女の姿かたちは、エドガーの亡き娘の肖像を見て借りた。
「するどいのね」
教会で同じように影の中にいた時は誰も気づかなかった。
ミラは闇色のスカートの裾をひるがえしてバスタブの縁に腰かけ、頭上に目を向ける。
痩せ細った女が天井から吊られていた。三日月のようにぱっくり開いた喉から血があふれている。それがフィアルカの横たわるバスタブへ注がれ、赤々と満たしているのだ。
「ジルには見せない方がいいわよ」
この屋敷は濃い血の匂いが染みついている。日常的に血が摂取されているのは明らかで、もちろんジルも気づいている。
しかしあの心根のやさしい男は、さすがに食用のウサギやシカの血抜きのように血を搾り取っているとは思っていないはずだ。おそらく、これは生きたまま喉を裂いている。知れば嘆き悲しみ、怒りを覚えるだろう。
ミラにとっては、どうでもいいのだが。
「話さないのか?」
忠告をフィアルカは唇の端で笑い、手の平でバスタブの中の血をすくうと華奢な肩へゆるりと塗りたくった。
「なんでも教えてあげるわけじゃないわ」
「てっきり保護者のつもりだと思っていたが」
「まさか。でも親近感は持ってる。ジルと同じだけ貴女にも」
魔女に近い二人にミラは同等の興味がある。
しかしフィアルカがミラに向ける金色の目は、好意も敵意も抱いていない。
「私が魔女の欠片に望むことはない」
ミラは魔女からこぼれ落ちた力が自我を持ったものだ。すぐに消滅するはずだったが、まだ消えずにいる。しかし数秒後に前触れなく消滅してもおかしくない曖昧な存在だった。
フィアルカはそんな不確かなものに何かを求めるつもりがないのだ。
「そう? 私はしたいことしかしないし、話さない。でもジルに色々と教えてきたから平等にしようと思ったんだけど」
バスタブの縁に座るミラは血の水面を指先でつついて波紋を作る。その波紋をフィアルカは考えを巡らすように伏し目がちに見つめ、やがて口を開いた。
「そうだな。私には師どころか、同等に話ができる存在も長らくいなかった。ならば尋ねよう。魔女の欠片から眷属たちはどう見える?」
「他の子たちのこと? どうって」
その答えをフィアルカはすでに持っている。
「魔女との繋がりはあるけど、貴女ほど特出したものはないわね」
「やはり『出来損ない』なのだな」
「そこまで悪くないけど。眷属とは、魔女に隷属する者。ひとつになれるほど魂が魔女に近くないってだけで、彼らも眷属として間違いじゃない。二百年前の儀式に貴女が何人集めたのか知らないけど、死んだ人も結構いるでしょ?」
「半数近くが内臓を吐いて息絶えた」
「魂が拒否反応を起こしたのね。生き残ったなら合格よ。魔女にほど近く、魔女の意識に溶けてひとつになれる可能性が高い貴女からしたら『出来損ない』に見えるかもしれないけど」
「可能性が高いか……だが、いまだに私はそれを叶えられずにいる」
そう吐露したフィアルカははじめて不遜な表情を崩す。
それが彼女のもっとも重大な関心事なのだ。魔女の夢への扉を体内に宿し、彼女の息は漏れ出た夢を漂わせる。魔女の威光を誰よりも近くに感じながら側へは行けず、二百年もひたむきに魔女との合一だけを切望している。
「健気ね」
ミラはニンマリと唇で弧を描いた。フィアルカの恋焦がれるように憂鬱に歪んだ顔を、いじらしく思うのだ。
「ジルはどうだ?」
「あの子は遠くなく獣になる」
以前からミラはジルにその気配を感じていた。時が満ちれば蝶が羽化するように、人の肉の殻を破って自然と獣になるだろう。
「姿だけ変わっても意味はない。その獣は魔女とひとつになるのか?」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「含みがある言い方をするのだな。教える気がないようだ」
「そうじゃなくて、そのままの意味よ。ジルの魂には魔女と違う存在の介入を感じるから、獣になった後、それがどのくらい作用するのかなって」
元は魔女と同一の存在だったミラは様々な知識に通じている。しかし未来が視えるわけではない。
「介入? 教会が関係しているのか?」
「どうかしら。教会じゃないと思うけど」
半年前、魔女からこぼれ落ちて自我を得たミラは、魔女の残滓の匂いを辿ってフィアルカとジルを見つけた。魔女との純粋な繋がりがあるフィアルカと、繋がりはあるが霞がかっているかのように不鮮明な部分もあるジルだ。
面白そうだったのでジルに接触することを選び、今も側にいるのは獣になった彼がどうなるのか見たいからだった。魔女の意識に溶けてひとつになるのか、あるいは別の道があるのか。
「それで、さっきから気になってたのよ。ジルの血筋のはじめだというバルツァルって男、だいぶ特異な感じだったの?」
「バルツァルについては私も考える時間が足りていない。ジルを魔女の夢の中で見つけるつい最近まで、まるで興味がなかったからな」
「意外と詰めが甘いのね」
「そう言ってくれるな。儀式の後、私はしばらく深い眠りに落ちていたのだ。夢をさまよい、そのまま魔女の意識に溶けるのだと信じて疑わなかった。だが……目覚めた時、すでにバルツァルは教会で処刑された後だったというわけだ」
フィアルカは肩をすくめて自嘲ぎみに笑う。
「処刑されたバルツァルの魂は肉体を離れず、魔女の元へ行けなかったと聞く。ゆえに他の『出来損ない』と同じだと結論づけていた」
安易に結論づけたことについて、自分の落ち度を感じているのだろう。
「そもそも眷属は人との間に種を残せない。もはや違う生物なのだ。どういうわけかバルツァルはそれを可能にした。その点は特異だと認めていたが、血を継いだ者も残らず魔女の元へ行けない『出来損ない』で、やはり私が興味を持つことはなかった。しかしジルが現れた」
ああ、それで――と、ミラは頭上に吊るされた女を見た。
使用人の服を着たこの女をジルにあてがい、子をもうけさせようとしたのだ。
「ああいう甘い男は、同情を引く女を好むと思ったが」
「予備を作っておこうとしたのね。ほどほどにした方がいいわよ。ジルをここに連れてきた一番の目的はそれじゃないんでしょ?」
ミラが気づいている事柄についてフィアルカは何も言わない。ミラもそれ以上の言葉を重ねなかった。
「その忠告は聞こう。ジルの機嫌を損ねるのは私の望むところではない」
話は終わりだとばかりにフィアルカは長い睫毛を伏せ、血のバスタブにゆるりと体を沈めた。
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