一章05・冬空と麗しの修道士
五
大聖堂は旧市街の小高い丘の上に建ち、川をへだてて広がる新市街を見下ろしている。
同じ敷地に修道院が建ち、連なる強固な石造りのそれらはまるで要塞のように見えた。その存在感は信心深い者が多い古都を見守るというより、信仰によって支配していると思うことがある。
大聖堂を出て足の向くままに歩いていると、ジルは古都を流れる川と新市街が眼下に広がる場所へたどりついた。
街灯が並ぶ石畳の遊歩道は、あたたかい季節になれば散歩をする人の姿が見られるかもしれない。しかし寒々とした冬空の今日は誰もいない。
手すりにもたれかかって新市街を見下ろす。白い息を吐き、風音に耳を傾ける。葉の落ちた木々の枝がゆれ、川面の囁きと新市街の人々の立てる音がジルの耳まで届いてきた。
眼下に見える石の大橋から続く通りを進むと、市庁舎と軍本部がある中央広場に出る。その辺りは様々な商業施設がひしめき合い、賑わいのある界隈だ。
春には大きな祝祭がある。長く暗い冬が終わった喜びに街中が浮足立つが、特に中央広場で開かれるマーケットは多くの人が楽しみにしていた。食品や菓子、革製品やガラス細工などの工芸品を売る屋台が並び、手回しオルガンやマリオネット劇なども見られる。
ジルは耳が良すぎるせいで騒がしいのは苦手だが、楽しそうに笑顔を浮かべる人たちを見るのは好きだった。
とりとめないことをばかり頭に浮かべている。
逃げているのだ。しばらく何も考えたくない。何から、どう考えていいのかも分からない。混沌とした頭の中をまったく整理できないでいた。
ふと耳が近づいてくる足音を、鼻がよく知った人の匂いを冬の匂いの中からひろう。
振り向くと遊歩道を歩いて近づいてくる修道士の姿が見えた。ジルほどではないが長身で、歩き方や姿勢から凛とした雰囲気を醸し出す。側にまで来た彼は深くかぶっていた純白のローブのフードをとって顔をあらわにし、ジルは思わず見惚れた。
彼との付き合いは十年は経っていないが、そのくらいになる。しかしいまだにジルはその容姿に見惚れてしまう。わずかな間、知らず知らず止まっていた呼吸は小さな溜め息となってこぼれた。
エドガーと同年代のシワを刻んだ端正な顔立ちも骨格も、確かに男性的なのに性別を超越した静けさが漂う美しさだ。長い睫毛に半ば隠された切れ長の青灰色の目、白銀の絹糸のような髪は今にも光に溶けそう。彼が持つ色はどちらも古都で珍しいものではないが、彼が女神に捧げた身にまとうローブの純白と相まって、とても清らかにジルの目に映る。
「クインシー……」
名前を呟くと、彼は応えるように目を細めて目元のシワを深くした。
この麗しの修道士は、ジルの監視役を自ら望んで引き受けている異端審問官だ。彼がジルをかばい、ずっと教会との間で緩衝材になってくれてきた。
本当に良くしてもらっている。教会はジルを忌み嫌うが、クインシーはジルに深い同情を寄せていた。さっきもダーレンはジルに近づくことも近づかれることも嫌悪したが、クインシーはこうして手を伸ばせば触れられる距離に来る。眷属の血を引いた運命を哀れだと胸を痛め、教会の中で唯一ジルを人と同じように扱ってくれる存在だ。
しかしエドガーは気に食わないと言い、ミラは気色悪いと嫌っている。なぜだろう。不思議でならない。こんなにも清らかで美しい人なのに。それを言うとエドガーは「面食い」と、鼻で笑うのだが。
クインシーはジルの隣で同じように手すりにもたれかかる。彼を心配させないように笑おうとしたが、その気力がない。力ない苦笑が漏れただけで、ジルのその様子にクインシーは顔を曇らせた。
「ショックを受けただろう」
それはダーレンに告げられた地下牢への投獄の決定のことだ。
心に寄り添う慈雨のような声だった。彼に言われて、そうなのだと自分の気持ちにようやく気づく。
「……驚いて、少し呆然としていた」
「無理もない。前々から投獄の必要性が議論されていたことを、私はジルに黙ってきたのだ。心労をかけたくなかったのだが……すまない。事前に話しておくべきだった」
「そんなこと」
謝るクインシーに首を振る。
「この件はダーレンが中心となって推し進めてきた。彼は幼い頃、魔女の夢を見た家族が発狂死し、修道院に保護された。そういった境遇の修道士は珍しくないが」
「クインシーも、だったよね」
「そうだ。しかしジルも感じていると思うが、ダーレンは人一倍、魔女や魔女の眷属へ向ける怒りが大きい。幼い日に愛する者が精神を蝕まれる様を目の当たりにした、心の傷が原因かもしれない。彼の魔女に関する異端への激しい言動は熱くひたむきで、多くの修道士が心を打たれている。今回の議論においても異議を唱える私の力は及ばなかった」
不甲斐ないとクインシーは自らを責めるが、彼の教会内での立場を微妙なものにしているのは、自分なのだとジルは知っている。監視役として接触する機会が多いとはいえ、ジルと親しくしすぎではないかと、肩入れしすぎではないかと懸念が教会内で囁かれていた。
「だが、諦めないでほしい。たとえその身に流れる血が女神の御前で罪に問われるとしても、私は君の尊厳を剝奪する決定を認めない。必ず解決策を用意しよう。どうか私を信じて頼ってくれないだろうか」
手すりに置いたジルの手に自分の手を重ねたクインシーには、何か考えがあるようだ。
(でも、僕は……)
話をしながら少し頭の中が落ち着いてきた。ジルがするべきことは抵抗ではない。
「ありがとう。でも決定には従うよ」
「ジル……」
教会に従っていれば、獣になるまでは人として生活を送れると信じてきた。最後には処刑をも受け入れるつもりでいたのに、その従順な気持ちを裏切られたように感じたのだ。
しかしそもそも教会とジルは対等ではない。今回のような決定を一方的に言い渡されても、ジルは甘んじて受け入れなくてはいけないのだ。
本当にそうなのか。
(そうだ。そう生きると決めたのは僕だ)
獣になるくらいなら、と。
「確かにまだ今の生活を続けていたいよ。未練はある。でも僕の最期は教会に委ねているんだ。それだけは揺るがないし、そう望むなら、今回の決定にも従わなければいけない」
「ジル、君は強い。同時に無垢だ」
クインシーが重ねた手に力をこめ、ジルの金色の瞳を深く見つめながら言い聞かせるように言う。眼差しは熱を帯び、重ねられた彼の指先からは鼓動が伝わってきた。
「誰も恨まず、己の生まれを嘆くこともない。その目は決して濁らず、眼差しは人の身では到達できない場所を見据えているかのように遠い。私には君の姿が、まるで聖画に描かれる殉教者に見える時がある」
「そんなものじゃないよ」
クインシーはたまに買いかぶる。
ジルが否定するとクインシーはそれ以上の言葉は重ねず、表情をやわらげた。
「私も譲れないのだ。できる限りのことをやらせて欲しい。許してくれるだろうか?」
そういうふうに言われると拒否できない。どこかに掛け合うつもりなのか。これ以上、ジルは自分のせいで彼の立場が悪くなるのは嫌なのだが。
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