一章02・新市街


 古都は教会とともに歩んできた長い歴史があり、人々の心に信仰が根づいた街だった。

 さほど広くない街は市内を流れる川でふたつに分断され、北側を旧市街、南側を新市街と呼ぶ。旧市街には古都の象徴たる大聖堂がたたずみ、修道院や慈善病院などの教会関連の施設、旧家の大きな屋敷などがある。大半の市民が生活を営むのは新市街だ。図書館も新市街にある。


 午後から外の用事を終わらせたジルは、図書館への帰路についていた。

 川辺の道に人はまばら。この辺りは市庁舎や軍本部、商業施設が多い新市街中心部の喧騒から外れている。しかしひどく離れていない。エドガーがふらりとサボりにくる程度の距離で街外れでもないが、古い建造物が多いこの地区は静かで落ちついた場所だった。


 先日、降った雪が石畳の道の端に溶けずに残っている。古都で積もることはまれだが気温は低い。吐く息は白く、鼻の奥に凍えた空気がツンとしみる。

 人より体温が高いジルは寒さが苦痛ではない。冷たく湿った冬の匂いも好きだった。

(あと何回、冬をすごせるかな)

 コートのポケットに手を入れて歩きながら、ふと頭にそのことがよぎる。


 魔女の眷属の血を引くジルは人ではない。人の姿で人を真似て生きているが本性は獣だ。そして、いずれ姿も完全に獣になる日が来る。

 二百年前、『バルツァル』という名の男が魔女の眷属となった。彼の血を引く子供たちは人の姿で生まれてくるが、やがて人としての自我と理性を失い、身も心も恐ろしい獣に成り果てる呪いを背負っている。

 その時がいつかは分からない。しかし着実に近づいている。ジルの父親が獣と化したのは三十歳の時で、ジルもその歳に近づいてきた。もしかすると、今冬が最後にすごす冬になるかもしれない。


「ジル!」

 背後から呼ばれて振り返ると、赤いケープコートを着た少女姿のミラが駆けてくる。

 彼女はジルの腕をつかんで止まり、頬を紅潮させて機嫌がいい。エドガーと食べにいったケーキに満足したのだろう。菓子の華やかな見た目、なめらかなクリームの舌触り、糖類の刺激と香り――ミラの体は食事や睡眠といった生物であれば必須なものと無縁だが、菓子を食べる行為は娯楽らしい。


「エドガーは?」

「部下に見つかって、引っ張られていったわよ」

 それでいい。

「図書館に戻るなら一緒に行こうか」

 ミラの歩幅に合わせて歩き出す。歩きながら、頭二つ分ほど小さな彼女の動作をジルは目で追っていた。


 寒さを感じていないはずのミラは白い息を吐き、その手を握れば体温を感じる。そういうふうに人を真似ているのだ。

 彼女が人の姿を模すようになってから、それほど時間が経っていない。しかし少女らしい仕草や表情は、はじめの頃に比べると違和感がなくなっていた。話し方に愛想はないが、十二、三歳の少し背伸びしたい少女のませた印象を与えるだろう。


 だからこそ心配になる。最近、エドガーの亡き娘に似すぎてきた。

「ジルが言うこと、ちゃんと考えてるわよ」

 視線の意味に気づき、ミラが猫のような金色の瞳で見上げてくる。

「でも分からないのよね。見た目を借りてるだけじゃない。それって、貴方たちが考える死者への冒涜になるのかしら」

「冒涜というより、残された遺族が抱える悲しみや喪失感を、悪戯にかき乱す行為だと僕は思うよ」

「表皮にそこまでこだわるの?」

 こだわるのは当然だが、それを純粋になぜと聞かれると答えに詰まる。

「人とはそういうものだとしか言えないな……」


 ミラに人の倫理観を伝えるのは難しい。人の世に現れてから半年しか経っていないのだ。

 そもそも興味もない。彼女の興味は彼女が楽しいと思うことだけ。エドガーのことは気に入っているようだ。彼は面白いことを嗅ぎつけてすぐに首を突っこむ。一緒にいて飽きないのだろう。だからエドガーの機嫌を損ねるのは得ではないと考え、彼の娘の姿を借りても、死を茶化すような真似はしないのだが。


 その時、鐘の音が鳴りだした。

 旧市街にある大聖堂の他に、新市街には区域ごとに祈りの場として複数の礼拝堂が建つ。それぞれの礼拝堂が時鐘を鳴らすので、街のどこにいても聞こえるそれで市民は時計を見なくても時を知る。


 しかしこの音色は時鐘ではない。水にインクを垂らしたように灰色の空に滲むそれは、弔いの鐘だった。

 ゆがんだ石畳の道を黒馬がひく霊柩車が通る。ゆるりと進むその後ろを黒い衣服で身を包んだ者たちが続いて葬列を作る。

 はじめに聞こえた鐘に呼応するように他の礼拝堂が次々と鐘を鳴らし、わずかづつ違う音色が重なる不協和音はどこか哀愁を帯びて聞こえるのだ。


 墓地へと向かう葬列を、ジルは手を祈りの形に結んで見送った。辺りの通行人たちも足を止め、同じように祈りを捧げている。古都の人たちは信心深い。葬列が誰のものか分からなくても、こうして哀悼の意を捧げる。

 いつか自分が死んだ時も、身知らずの誰かが祈ってくれるのだろうか。それは浅ましい獣として死んでいく定めのジルにとって、美しい慰めとなる。


「もっと自由にすればいいのに」

 去っていく葬列を見つめながらミラが呟いた。

「僕のこと? 自由にしているよ。僕は獣になる瞬間まで、人としての日々を静かに重ねていくことを望んでいる。こうして本に囲まれて図書館で働けているから十分だ」

「教会が鬱陶しいじゃない」


 かつて魔女の眷属となったバルツァルという男は、その過ちを悔いて教会に許しを請うた。以来、彼の血を引く者は教会の管理下に置かれている。

 行動は制限され、監視されていた。通勤以外の外出は報告の義務があるし、街の外へ出ることはかたく禁じられている。昼前に教会から修道士が来たのも、最近はこうして図書館外に行く業務が増えたからで、その予定を報告していたのだ。


 面倒ではない。物心ついた頃からそうやって生きてきたジルには普通のことだ。他にもあれこれ決まり事があるとはいえ、その中で自由に生きているつもりだった。

「教会がそんなに偉いわけないんだから、無視しちゃえばいいでしょ?」

 しかしミラには窮屈に見えるのか。


「そういうわけにはいかないよ。大衆に魔女や眷属の存在は隠されている」

 知っているのは教会関係者と、エドガーのような軍の上層部の者だけだ。

「社会に与える悪影響を危惧して隠されている中で、僕は秩序を乱しかねない異物だ。本来、人の中で生きるべきではない。でも教会が管理しているから、完全に獣になるまでここにいるのを許してもらえる」

 ミラは呆れたように溜め息をつくと、それ以上は何も言わずにジルをおいて歩き出す。


 教会に従順なジルを見ているのはつまらないらしい。過剰な干渉だと昔から教会を非難しているエドガーと、ミラはその点で気が合う。

 自分のために教会へ不平を抱く彼らの気持ちを、ジルもありがたいとは思っているのだ。

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