第12話 後輩・田中まさしとカフェ

 職員室を出て下駄箱へ向かう途中、ムカムカした気分を晴らしたくて山崎美鈴に連絡をした。今までは嫌なことがあっても耐える事しか出来なかったのが、今はそれをかき消す楽しみがあった。その事実に心がすっと軽くなっていく。

 メッセージにはすぐに返信があり、カフェで待ち合わせることになった。何日も家を空けると母がパニックを起こすので陽大は修学旅行に行った事は無かった。でももし行けていたのなら、その前日はこんな風にワクワクしたのかなと思う。それとも友達のいない自分にとっては苦痛なだけだったか。

 待ち合わせまで少し時間があったが、他にやることもないので、一足先にカフェへと向かうことにした。

 山崎に会ったら何を話そうかと考えながら校門に向かって歩いていると、後ろから足音が近づいてきて、突然肩を叩かれた。学校で話しかけられることなど無かったので反応が遅れる。

 声をかけてきたのは電車で出会った後輩の田中まさしだった。

「先輩」

 田中が、無邪気な笑顔を陽大に向ける。

「窓の外を眺めていたら先輩を見かけたので、思わず走って来ちゃいました」

 田中は、靴も履き替えておらず上履きのままだった。

「今日は休みですけど、どうして学校に?」

「ちょっと面談があって」

「そうですか。僕は部活です。実は写真部で」

 聞いてもないのに田中が答える。

「この後は何か用事ですか?」

「そうだね。大事な予定があるんだ」

「具体的には何分後くらいですか?」

 踏み込まれて聞かれた陽大は、怪訝な顔をしつつ待ち合わせの時間と場所を答えた。

「じゃあまだ少し余裕がありますね。ちょっと待っていてください」

 そう言うとダッシュで校舎の中に戻って行き下履きに履き替えて戻って来た。田中が履いているのは汚れ一つない新品のスニーカーである。よく見れば田中の身に着けているものは、制服や鞄などどれもほぼ新品のように輝いていた。それから自らのボロボロで薄汚れた靴を見ると財力の差を可視化されたように感じる。

「行きましょう」

 陽大の前に立って田中が歩き出す。

「ちょっと待って。行きましょうって、どこへ?」

「どこでもいいですよ。何ならそのカフェにしますか?僕は先輩から勉強を教われれば満足なので」

 陽大は、相変わらず行動が読めない田中に困惑していた。正直勉強の誘いは断りたかったけれど、上手く断る理由を思いつけなかった。

 田中という後輩はいまいち掴みどころがなく、それでいてどこか強引さというか、こちらの気持ちを勘定に入れない所があって、生理的な嫌悪感を覚える。

「本当に、待ち合わせまでだからね」

「もちろんです。その辺はわきまえています」

 田中について歩き始めた陽大の頭上には、分厚い雲が散見された。


 陽大は、田中まさしと共にカフェに入る。チェーン店の何の変哲もない普通のカフェだ。しかし、陽大には縁が無い世界で店内は外国の街にやって来たかのように見えた。お洒落な椅子や内装、照明、メニュー表。何もかもが新鮮に思える。

「先輩、カフェは初めてなんですか?」

「お金があまりなくて」

「かっこいいです」

 陽大は眉を顰めた。やはりこの後輩は分からない。

 恐る恐るシンプルだがお洒落なメニュー表を開いた。道中で確認したら、くまの財布には三百円程度しかなかった。それでも買えるメニューは無いかと、ドリンクのページを見るもアイスコーヒーが一杯で五百円だった。とても払える額ではなく、内心で焦りが現れる。

 田中が店員を呼んだ。

 陽大は、慌ててページを捲るけれど、買えそうなメニューを見つけるよりも先に制服を着こなした大学生と思われる店員さんが現れた。

「紅茶二つで」

 慣れた口調で田中が注文する。頼んだものはコーヒーよりもさらに二百円ほど高い紅茶だった。

「あっ」

 陽大は、思わず口を挟んだ。田中は自分の分も注文してくれたようだが、お金が無い。その事をどう伝えようか迷っていると、田中が言った。

「安心して下さい、先輩」

 田中は、そう言うと店員さんに「以上です」と伝えた。

 陽大の前で会話が進み、注文が完了してしまう。

「そんなに怖がらないでください。僕もただで先輩に勉強を教わるつもりはありません。飲み物ぐらい奢りますよ」

 言うや否や田中は教材を机の上に広げていく。

「あっ先輩」 

 シャーペンを握った所で、田中が顔を上げる。嫌な予感がした。

「僕の前ではマスクなんて付けないでください」

 そう言われてしまったけれど、マスクを外す気にはなれなかった。素性の読めない相手に顔をさらけ出すのは抵抗感がある。

「他のお客さんもいるから」

「いいじゃないですか。どうせこっちを見ている人なんていませんよ」

「でも迷惑がかかるかもしれないし」

 理由をこじつけて断ると田中も諦めたようである。「かっこいいのに」と呟きながら釈然としない表情をしつつも、勉強の準備を始めていた。見ると国語の問題に取り掛かるようだ。

 陽大もやることが無いので、適当にワークを開いた。そこで山崎から「今から向かうね」と連絡が来て、期待が胸に広がっていく。

 山崎とのデートを待ち遠しく思いながら、いつ質問されても良いように備える。だが田中の方を伺うと、集中しきった表情で一目散に問題を解いていた。紅茶が来たけれどそれにも目をくれず、ぶつぶつと問題文に線を引いていた。

 しばらく何も聞かれなさそうなので、陽大は紅茶を頂くことにする。何気なくカップを口に運び、中の液体を喉に流し込むと、陽大は衝撃を受けた。

「甘い」

 思わず呟くと田中が手を止めた。

「当たり前ですよ。紅茶なんですから」

 怪訝な顔でこちらを伺ってくる。

 陽大は、続けてと手で田中のワークを示しつつ思わずもう一口、紅茶を飲んだ。すぐに飲み込むのがもったいなくて、少し舌の上で転がしてから流し込む。

 家では砂糖入りの紅茶など飲んだことが無かった。母は節約のためと言っていたが、父が無糖の紅茶が好きだったためだろう。まさか砂糖を入れるだけでこれほどまでに美味しくなるとは思っていなかった。紅茶を飲みたいという気持ちと、無くならないで欲しいという気持ちに揺られながら、チビチビとそのとろけるような甘さを堪能する。

「終わりました」

 待ち合わせ時間が近づいてきた頃、田中が声を上げたので見てみると陽大の後輩は問題を全て解き終えていた。

「僕に何も聞かなくても良いの?」

 陽大が気になって尋ねる。

「ええ、今回は問題が簡単だったので自力で解けちゃいました。でも先輩が前に居たから、自分まで賢くなった気がして、いつもより頭が回った気がします。ありがとうございました」

 てっきり色々質問されると思っていた陽大は、困惑しつつも自身のワークを片づけた。

「時間まで、あと少しありますね」

 田中がカフェの時計を見る。陽大も確認すると、待ち合わせまであと五分ほどだった。

「先輩はこれからデートか。羨ましいなぁ」

 田中の言葉は頭に入ってこなかった。すでに意識はこれから会う山崎美鈴に持っていかれていた。最後に少し残った紅茶を一滴も逃すまいと喉に入れる。

「先輩は、彼女さんになんて告白したんですか?」

 田中も、あまり口を付けていなかった紅茶を一気に飲み込んでいるのが目に入る。

 その時、ふと紅茶の茶葉がポットの中でジャンピングするように疑問が浮かび上がって来た。

「待って。なんでデートって知ってるの?」

「顔に書いてありますよ」

 面白そうに田中が笑う。

「夏目漱石がI love you.を月が綺麗ですねと訳したのは有名な話ですよね。先輩もあんな感じで凝った言い方をしたんですか?」

 陽大が眉を顰める。

「してないよ」

 まだそれほど仲良くない後輩と恋愛の話をするのは気が進まなかった。のらりくらりと質問をかわしつつ時間が過ぎるのを待つ。しかし約束の時間が五分過ぎても、十分過ぎても山崎美鈴は現れない。カフェの入口を注視していても扉が開く気配はなかった。少し焦りが見え始める。

「お相手の方、来ませんね」

 陽大が、連絡を取るため席を離れようとする。電話をかけるべきか、メッセージに留めるべきか。あれこれ考えながらも、スマホを探す。さっき山崎とのメッセージを確認した時どこにしまったかと記憶を辿る。確か机の上に置いたはずだけどと考えていると、陽大たちのテーブルにマスクとハットを被った山崎美鈴が現れた。

「舞」

 驚きのあまり、陽大は思わず声を漏らした。

「へー、この方が彼女さんですか」

 田中の声色が変わった。先ほどまでの明るい声ではなく、挑戦的な声である。

「思ったよりも可愛いんですね」

 何かの台詞を読み上げたかのように棒読みで言うと、田中が陽大を睨んだ。それは一瞬の事であり陽大の意識から睨まれたという事実はすぐに消えていく。田中も元の柔和な表情に戻って、すぐに自分の手元を見始めた。

「どこにいたの?」

 聞くと陽大の後ろにある席を山崎が指差した。

「盗み聞きしちゃった」

 マスクをしていたが山崎が悪戯っぽく笑ったのが分かる。下ろした髪が川の流れのように揺れて、美しかった。いつ見ても芸術作品のようである。

「じゃあ僕はそろそろ行くよ」

 テーブルから出ると山崎がさりげなく腕を掴んで来る。そのせいでまるで心臓もぎゅっと掴まれたように陽大はドキドキし始めた。

 歩き出そうとすると田中がフッと笑みをこぼす。

「先輩。この前撮った先輩の写真、SNSにアップしても良いですか?」

「うん、いいよ」

 陽大は、一刻も早く山崎と二人きりになりたくて適当に返事をする。心はすでにデートに入っていて、田中との会話は上の空だった。

「あっ、先輩。スマホ、忘れてますよ」

 見るとテーブルの上に山崎から貰ったスマホがある。

「あれっ、見落としていたかな」

 陽大は、不思議に思いながら田中に謝るとスマホをポケットに入れた。

「ちゃんと肌身離さず持ってないと」

 山崎に注意されるが、その内容は関係なしに、耳元で鈴を転がすような声が聞こえてきたことにドキッとしてしまう。

「まだスマホを持っているっていう事に慣れていないのかも」

 その後、田中に別れを告げて店を出た。最後に深々と頭を下げて見送ってくれた田中を見て山崎が「なんか不思議な子だね」と言ったことに陽大は深く同意する。

 カフェを出ると相変わらず空には分厚い雲が蔓延っていたけれど、僅かに青い空も顔をのぞかせていて、外の新鮮な空気を陽大は肺いっぱいに吸い込んだ。

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