翼の記憶
ヨンドメ
プロローグ『窓辺の予感』
冬の終わりを告げる夕暮れが、病室の窓からそっと差し込んでいた。源一は妻・千代の横で、その手を握ったまま、穏やかな寝息を見つめている。もう何時間になるだろう。時計の針は静かに進み続けているのに、この部屋の中だけは、まるで時間が止まったかのようだった。
医師が最後の回診を終えてから、部屋の空気が少しずつ変わり始めていた。それは静かに、しかし確実に近づいてきているような感覚。源一は千代の手の温もりを、より強く感じようとするように、そっと力を込めた。
カーテンが風に揺れるたび、かすかな日差しが千代の頬を優しく照らす。痩せ細った彼女の肌は、まるでろうそくの灯のように透き通っていた。それでも、その表情には不思議な安らぎが宿っている。長い闘病生活の中で、千代は一度も弱音を吐かなかった。むしろ源一を気遣い、「畑仕事、きちんと続けてね」と笑顔で言い続けてくれた。
その言葉を聞くたびに、源一は胸が締め付けられる思いだった。二人で開墾した畑。春の種まき、夏の草取り、秋の収穫。すべての季節が、千代との思い出で満ちている。病室の窓から見える夕焼け空は、まるで二人で過ごした時間を映し出す映画のスクリーンのようだった。
看護師が静かに部屋を出て行ってから、どれくらい経っただろう。夕暮れの光が徐々に赤みを帯びていく中、源一は千代との思い出を一つずつ心の中で紡いでいた。回想に浸る源一の耳に、窓の外から小さな物音が聞こえた。
目を向けると、一羽のカラスが静かに舞い降りていた。夕陽に輝く漆黒の羽が、不思議な予感を運んでくるかのようだった。そのカラスの目が、まるで何かを伝えようとするように、部屋の中を見つめている。
「源一さん...」
かすかな声に、彼は我に返った。千代が微かに目を開け、彼を見つめている。その瞳には、まだ伝えたいことがたくさん残されているようだった。窓からの光が、千代の顔を柔らかく照らした。
「ごめんね。私、もう畑仕事を手伝えなくて...」
か細い声が、静寂を破る。
「そんなこと気にしなくていいんだよ」
源一は精一杯の優しさを込めて微笑んだ。目頭が熱くなるのを必死でこらえながら。この瞬間を永遠に引き延ばすことができたら、そう願わずにはいられなかった。
「でも、私ね...」
千代は小さく息を整えると、かすかに微笑んだ。その表情は、まるで大切な秘密を打ち明けるような、不思議な輝きを帯びていた。窓辺のカラスが、その様子をじっと見つめている。その眼差しには、人間のような理解と共感が宿っているように見えた。
千代は少し体を動かし、窓の方を見やった。夕陽が作り出す光の帯が、病室の中に温かな色彩を描いている。その中で、彼女の言葉が静かに響いた。
「また会えるわ。きっと違う形でも...」
千代の目が、そのカラスをじっと捉えている。まるで何かを確認するような、あるいは約束を交わすような眼差し。彼女は最後の力を振り絞るように、源一の手を握った。
「ああ、待ってるよ。どんな形でも。」
源一はそう答えながら、突然の予感に胸が締め付けられた。窓辺のカラスが首をかしげながら、見守るように佇んでいる。
夕暮れの光の中で、千代は静かに目を閉じた。まるで、何か大切なものを確かに見出したかのような、穏やかな微笑みを浮かべていた。病室に沈黙が広がる中、窓辺のカラスが鳴き声を上げ、どこかへ飛び立っていった。
源一は長い間、千代の冷たくなっていく手を握ったまま動けなかった。時計の針は無情にも進み続け、夜の帳が静かに降りていく。窓の外では、春を待つ木々が風に揺れている。そよ風が運んでくる土の香りが、源一の記憶を呼び覚ます。二人で耕した畑の匂い。共に育てた作物の香り。すべての思い出が、この瞬間に凝縮されているかのようだった。
窓の外で、夕焼け空が深い紫に染まっていく。源一は、これから迎える孤独な時間に怯えながらも、千代の言葉を何度も心の中で反芻していた。夕暮れの病室に、最後の光が差し込んでいる。窓辺に残された一枚の黒い羽が、静かに光を反射していた。
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