第2話 疎遠になった幼馴染

「大丈夫……?」


 詩依は少し躊躇いながら、心配そうに言葉を紡いだ。

 いや、それは心配よりも、憐みに近い感情だったのかもしれない。雨に打たれる捨て猫を見ていられなくて、思わず傘を差し出してしまったというところだろうか。

 自分が濡れることを厭わず、俺を冷たい雨から守るように傘を差し出していた。よく見れば、彼女自身も肩口が雨に濡れている。


「風邪、引くよ?」


 詩依の優しい声が、雨に溶けて耳に届いた。

 そう優しく声を掛けてくれる彼女に思わず涙が出そうになってしまって、顔を伏せる。

 こんなところを見られたくなかった──それが率直な感想だった。

 同じマンションに住む幼馴染。小学生の頃はよく遊んだし、学校でもあまり人付き合いが上手くなかった彼女と毎日のように一緒にいたように思う。一緒に色んなゲームもしたし、家族ぐるみで色んなところに遊びにも行った。

 でも、中学に進学した頃から付き合いはなくなっていた。

 理由については色々ある。

 俺も彼女も部活をしていたというのもあるし、一度もクラスが重ならなかったというのもあるだろう。

 ただ、一番の原因は……きっと、俺が彼女に恋をしてしまったことだと思う。

 いつどのタイミングで意識してしまったのかまではもう覚えていない。でも、幼い頃から兄妹みたいに一緒にいた子を相手に恋愛感情を自覚してしまい、どう接すればいいのかわからなくなってしまったのだ。

 他にも色々理由はあるのだけれも……結局、中学に入学して暫く経った頃から、口も利かなくなった。そんな関係が、もう何年も続いている。

 でも、関係性が全くないかというと、そういうわけでもなくて。詩依は俺と同じ高校に進学していたので、学校やマンションでもちょくちょく見掛けていた。そして何より……今年から、同じクラスになってしまった。

 詩依との関係を一言で言い表すなら、お互い昔のことは知っているのに何年も口を利いていない顔見知り程度のクラスメイト、という感じだろうか。何とも気まずい関係だ。


「放っておいてくれ」


 俯いたまま、俺はそう返した。

 恋人を寝取られて傷心し切って雨に打たれている姿など、幼馴染には見られたくない。ましてや、それが昔恋愛感情を抱いたことがある初恋の人なら、尚更だ。


「放っておけないよ……」


 言ってから、詩依はちらりとマンションのほうを見る。

 その視線を追って、ようやく思い出した。そうだ。この公園は、詩依の部屋からよく見える。自分の部屋にいると、否応なしに俺の姿が目に入ってしまうのだ。


「ああ、そっか……そりゃ気になるよな。悪い、場所変えるわ」


 傘を彼女の方に押し返すと、立ち上がった。

 制服が水を吸い、ずっしりとした重みがのしかかる。いつもの何倍もの重さになっていた。シャツもインナーもパンツも靴下もびちゃびちゃだ。今はまだ良いけれど、家に上がったらさぞ不愉快な感覚に襲われるだろう。


「おばさんにも宜しく伝えといて」


 じゃあな、と片手をひらひらと振ろうとした時だった。

 詩依の指が躊躇いがちに動いたかと思えば──次の瞬間、俺の手首が強く掴まれていた。


「えっ?」


 慌てて振り返ると、詩依は辛そうに眉を寄せて、その青み掛かった瞳でじっとこちらを見ていた。

 そして、まるで懇願するかのように、こう言った。


「……来て」

「へ? どこに──」

「いいから」


 そのままぐいと俺を引っ張って、詩依はずいずいとマンションの方に向かって進んでいく。

 彼女の細腕など、いくらでも振り払えたはずだった。でも、どうしてか振り払えなくて、身を任せるようにして、彼女にされるがままになっていた。

 傷心しきっていて、体に力が入らなかったのもある。抗うのも、抵抗するのも、反論するのも、たぶん面倒だったのだろう。

 でも、それ以上に誰かが自分のことを見ていて、構ってくれるのが嬉しかったのかもしれない。たかが恋人に浮気されたというだけなのに……まるで、世界の全てから自分が否定された気になっていたから。

 手を引かれるがままエントランスを抜けて、エレベーターに乗った。扉が閉まって……雨の音が、遮られる。代わりに、鼓動の音だけがやけに大きく響いた気がした。

 エレベーターの中ではふたりとも無言だったけれど、詩依の手はしっかりと俺の手首を掴んだままだ。表情を窺おうにも、彼女は顔を伏せてしまっているので、どんな表情をしているのかわからない。

 いつも降りる階より一階下の四階でエレベーターは止まり……気付けば、昔よく遊びに来たことがある部屋・四〇六号室の前まで来ていた。

 そして、そのまま俺は──四〇六号室、詩依の家に連れ込まれたのだった。


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