第3話 兄から憧れの女子を剥奪する

 体育館裏は土と苔に塗れた排水ブロックと草木が茂っているだけの、薄気味悪い場所だ。ただ学校生活を送っているだけならここへやって来ることはない。


 つまり人気は皆無であり――目を疑う光景が広がっていても知られることはない。



「なっ!?」



 錯覚であって欲しいと思いながら僕は瞬きを繰り替えす。


 だが、目の前の光景は錯覚でも夢でもなければ見間違いでもない。



「ふん、璃英か」



 平然としている騨漣兄さんの前で――腹部を血塗れにした因幡さんが仰向けに倒れていた。


 地面に広がる血だまりの中、因幡さんは瞳を見開いたまま生命の輝きを失っていた。


 困惑と苦痛の混じった表情は、意味もわからず始末された残酷すぎる証拠だった。



「何故こんな所にいる? 因幡のストーカーでもしていたのか? 気色悪いヤツだ」



 騨漣兄さんの手には血の滴る短刀がある。


 誰が、など聞くまでもなかった。



「なんて……ことをッ!」



 噴き上がる怒りで拳を握る。



「何でだよ! なんで因幡さんをッ!」



「何で? そんなの考えるまでもないだろうが」



 騨漣兄さんは因幡さんをチラリと見た後、ポケットからハンカチを出して血に濡れた短刀を拭き始める。


 そこに罪の意識は微塵も感じられなかった。



「眷属が欲しいからに決まっている」



 喚く僕にイラつくように騨漣兄さんは溜息をついた。



「だからって一般人に手を出すのか!? 因幡さんを始末する理由になるのか!?」



 僕は怯まず騨漣兄さんを睨む。


 屍術師は抗争等で死体を出し、それらの多くは眷属として利用される。それ以外に所属不明の死体なんかも眷属にされることがあるが、これらの共通点は“死んでしまった人間”であるということだ。


 つまり、普通に生活している人間を殺して眷属にするのは屍術師界において御法度。


 騨漣兄さんは絶対に許されないことをやっていた。



「綺麗事しか言えない愚弟は黙ってろ」



 僕の言ってることなど全く気にせず、騨漣兄さんは指を鳴らす。


 すると、死んだ因幡さんが力無く立ち上がった。



「…………」



 因幡さんは血塗れの腹部を気にも留めていない。騨漣兄さんを何の感情もない、虚無の表情で見つめている。


 屍術師に命令されて動いた死体。ダラリと弛緩した身体。何処も見ていない光の消えた目。


 因幡さんは騨漣兄さんの眷属になっていた。



「さっさと脱げ。俺に血塗れの女を見る趣味はない」



「はい」



 因幡さんは意志の感じられない声で返答すると、この場でテニスウェアを脱ぎ始めた。


 スタイルの良い身体と、それを包む水色の下着が男子二人の前にさらけ出されるが、因幡さんの顔に羞恥はない。


 主に言われたから服を脱いだ。


 二度と本当の表情が灯ることのない顔は、ただそれだけを物語っていた。



「兄さんッ!」



 僕は感情のまま騨漣兄さんを殴りかかろうと迫る。


 だが、何者かに手首を掴まれ、そのまま捻るようにして地面に倒されてしまう。



「ぐっ!?」



「申し訳ありません璃英様」



 霧でも晴れたかのように、いきなり僕の前に深紅のチャイナドレスを着た人物が現れた。


 名はキゼン。騨漣兄さんの右腕と言われている眷属だ。



「騨漣様に危害を加える者は、璃英様と言えど見過ごすことはできません」



 漆黒の髪を肩まで垂らし、細かな装飾が施された耳飾りが微細な音を奏でている。ドレスの隙間から覗ける素肌はとても滑らかで美しく、細長いヒールの靴はキゼンの足元を優雅に演出していた。


 キゼンは僕を立ち上がらせてくれるが、握った手首を離そうとしない。騨漣兄さんが襲われないよう警戒を続けていた。



「俺を殴れると思ったのか? 愚弟が。屍術師のそばには眷属がいて当たり前だろうが」



 騨漣兄さんが呆れたように肩をすくめる。


 屍術師のそばには必ず眷属がいる。その数や手段に差はあれど、屍術師は身の危険が多いため眷属を護衛につけるのが常識だ。



「キゼン。着替えをイナバに渡せ」



 キゼンは左手に持ってる着替えを乱暴に因幡さんの前に放り投げた。


 新品のテニスウェアだ。因幡さんはテニスウェアを拾うと、土埃も叩かず着始める。



「無垢組に動きが見える。千葉を見張れ。事を起こすならヤツが中心となるはずだ」



「始末は?」



「まだだ。今、騨漣組が無垢組と抗争するワケにはいかない」



 キゼンは僕から手を離すと、脱ぎ捨てられた血塗れのテニスウェアを回収した。



「その血塗れは処分しておけ。俺の護衛はイナバがやる」



「わかりました」



 直後、キゼンは天高く跳躍して姿を消した。会話から察するに、僕の前で眷属を二人も護衛につける意味はないと判断したようだ。



「聞いての通りだイナバ。これからお前は俺の護衛だ。つかず離れず俺の周囲を見張っておけ。学校ではこれまで通りだ」



「はい」



「学校ではこれまで通りと言ったはずだが?」



「ごめんなさい先輩。うっかりしちゃいました」



 騨漣兄さんがそう言うと、因幡さんの表情と雰囲気が劇的に変わった。


 身体に芯が通り、虚無の表情は消え失せ、弾けるような笑顔をした明朗快活な女子が、僕の目の前に立っていた。



「お前は俺のことをどう思っている?」



「命をかけて守り通す大好きなご主人様です」



「俺を狙う不穏分子がいたらどうする?」



「ご主人様の敵ですから殺しちゃいます」



「これからお前は俺のためにどう行動する?」



「恋人のフリしてご主人様のそばにずっといようと思います。部活の助っ人もバイトも全部やめて、全ての時間をご主人様のために使います」



「お前は俺のなんだ?」



「眷属という駒です。私がいらなくなったらいつでも捨ててくださいね」



「そこで間抜け面して立ってる男は威乃座のゴミだ。お前もそう認識しろ」



「はーい! わかりましたー!」



 因幡さんはゾッとする笑顔を僕に向ける。


 そこにはアスファルトの上でのたうつミミズを踏み潰したような――下等生物が生きていることに耐えられない嫌悪が、その笑顔に張り付いていた。



「威乃座君。これから君はゴミと同じだから、二度と私を見ないでね。鬱陶しくてたまらないからさ。話しかけるなんて論外ね。あと、近いうちに自殺したくなるくらい追い込むから覚えといてね。忘れてもいいけど」



「コイツを自殺させるのはいいが、お前が最も優先するのは俺の護衛であることを忘れるなよ」



「もちろんです。あー、気の弱いザコを追い詰めるのすっごい楽しみ! アハハハハ!」



 僕の前で因幡さんのフリをした何かが喋っていた。


 表情、雰囲気、喋り方、仕草、因幡咲華という女子を体現する全てが蘇っているが、決定的な何かが欠落している。


 身体は間違い無く因幡さんなのに、その中身は全くの別人に支配されていた。



「……何見てんの? 二度と見るなって言ったよね? 私はゴミに見られる趣味なんてないの。つかさー、いっつもベランダから私見てるよね? ウッゼーんだけど? もしかして妄想で私を彼女にしちゃってる? うっわー、キモーイ! 死ねよ陰キャが――」



「もう黙れイナバ」



 騨漣兄さんがそう告げると、因幡さんから生気が抜け落ちた。無表情に戻り、目の光りが無くなり、邪悪な明るさと雰囲気が消え失せた。弛緩した身体のまま動かなくなる。



「俺の気が変わらない内にさっさと消え失せろ。イナバに始末されたいなら話は別だがな」



 騨漣兄さんは吐き捨てるように言うと、僕に背を向ける。部活に戻るのだろう。その後ろを因幡さんがついていく。



「待てよ騨漣兄さ――あぐっ!?」



 僕が騨漣兄さんの肩を掴もうとすると、その前に因幡さんの拳が僕の腹部に突き刺さった。


 意識が飛びそうな痛みに襲われ、思わず腹部を押さえて膝をつく。



「が、はぁッ……」



 もの凄く痛い。このまま地面に倒れ込み、何も考えず目を閉じて夢だと思い込みたい強い誘惑に襲われる。


 本能が現実逃避しろと警鐘を鳴らすが――そんな本能を僕は拒否した。叩き潰した。


 因幡さんをこのままにしておけるワケがなかった。



「も……どせ……」



「ああ?」



「戻せって……言ってるんだ……」



 僕は腹部を押さえて前のめりになりながらも、意地で騨漣兄さんを睨み付ける。



「因幡さんを人間に戻せッ!」



「はっ、お前何言ってるんだ?」



 騨漣兄さんは僕を見て鼻で笑った。



「この女を人間に? 無理に決まっているだろ。仮に眷属でなくなったら死体になるだけだ」



 騨漣兄さんが「イナバ」と呟くと、因幡さんは無表情のまま僕の首を掴んで吊り上げた。眷属になったことで身体能力が異常に底上げされたのだ。


 宙づりにされた僕は情けなくジタバタ藻掻くが、非力な人間では眷属の拘束を解くことはできない。無駄な足掻きだった。



「それとも何か? 眷属として操られるのは可哀想だから死体に戻せってことか? ぐちゃぐちゃの偽善で胸焼けがするな!」



 因幡さんの背後にいる騨漣兄さんが僕を睨み付ける。



「屍術師である自分から目を逸らしている自覚もなく! 口だけ正義ぶる醜さだけで覚悟もなく! 力を振るう気が無いクセに己に酔う! お前みたいのをクズ野郎っていうんだよ!」



 騨漣兄さんの苛立ちに呼応するように、僕の首を絞める因幡さんの手に力が籠もる。



「お前は無垢がいなきゃ何もできない! それがこの結果だ!」



「……こんなことしなきゃ……ならない……くらい……」



 僕はどうにか声を振り絞る。



「無垢姉さんが怖いのかよ……クソ兄貴ッ!」



「なん……だとッ!?」



 騨漣兄さんの表情が怒りで激しく歪み、その手が血で滲むほど握りしめられる。



「黙れッ! 無垢に腑抜けにされた愚弟がッ!」



「が……ぐ……」



 騨漣兄さんが叫んだと同時、一気に視界が白に染まっていく。首を絞める因幡さんの力がさらに強くなり、藻掻く手足から力が失われていった。



「どうせ下卑た目で因幡咲華を見てたんだろ! 毎日自慰(オナニー)してんだろ! よかったなぁ! セックスしたい相手から絞め殺されるなんて最高だ! このまま始末されろ愚弟がッ!」



 因幡さんは無表情のまま僕を宙づりにして離さない。



「ダメ……だ」



 僕は最後の力で、そっと因幡さんの頬に自分の手を添える。



「ダメだよ……因幡さん……」



 僕は因幡さんを知らない。ただのクラスメイトというだけで、席が隣同士になったこともないし、一緒の班になったことも日直だったこともないし、何が好物なのかも知らないし、趣味も知らないし、パーソナルなことを知ろうとしたことはない。


 つまりただの他人。


 それが威乃座璃英と因幡咲華の関係だった。



「因幡さんは……なっちゃいけない……」



 でも、だからといって因幡さんが屍術師の勝手な都合で眷属にされていいワケがない。


 何より僕がそんなの許せない。


 明るくて眩しくて、楽しく部活をしていて、いつまでも見たくなる魅力的な女子を。


 僕が憧れる因幡咲華をこのままにできるワケがない!



「眷属になんかなっちゃいけないッ!」



 その時だった。最後の力を振り絞って因幡さんに訴えた後、げっそりする未知の気怠さが僕を襲った。



「ぐッ!?」



 体内の元気が体外に吹き出したような感覚だった。全身のスイッチが落ちたように脱力し、目の前が真っ暗になりかけたが、気を失うワケにはいかない。落ちてたまるかと、自分を奮い立たせて意識を取り戻す。


 そしてそれと同時、因幡さんの身体が雷でも落ちたみたいにビクリと反応した。その拍子に宙づりから解放され、地面に落下して派手に背中を打ち付けた。



「ゴホッ! ガハッ! ゲフッ……な、なんで?」



 気怠さを無理矢理払って立ち上がると、身体が不足していた酸素を急激に取り込み、思わず咳き込んでしまう。


 ――どういうことだ? 眷属が主の命令に逆らうなんてありえない。なのに、何故か因幡さんは僕の首から手を離していた。



「な、何をしているイナバッ! 誰が離せといった!」



 騨漣兄さんも僕と同じだ。明らかに狼狽している。



「……あれれ? なんで威乃座君がここにいるの?」



 因幡さんは目をパチクリさせて僕を見ていた。何が起こっているのかわからない様子だ。僕と背後にいる騨漣兄さんを何度も見て「え? え?」と困惑している。



「イナバっ! ソイツから手を離すなッ!」



「え? 手? はい?」



 因幡さんの様子がおかしい。さっきまでと違って表情が戻っているし、目に光りも灯っている。主の命令に「?」まで浮かべているし、眷属としてあり得ない反応を繰り返していた。



「あの、どうしたんですか先輩? なんでそんなに怒ってるんです? 威乃座君と何かあったんですか? ん? でも、だとしたら、なんで私がここに?」



 因幡さんは混乱している。この状況を理解していないようだ。


 ――まさか本当に眷属じゃなくなったのか? いや、そんなバカな。仮に眷属じゃなくなったなら死体になるはずだ。


 でも、見る限り因幡さんは眷属から人間に戻ったとしか思えない。



「……まさかこれが“眷属剥奪”かッ!」



 騨漣兄さんの顔が青ざめる。恐怖で全身を震わせ「ありえない」と呟いていた。



「眷属……剥奪?」


 そう呟いた時、僕の心臓がドクンと高鳴り、不可解な“実感”が沸いてきた。


 僕に何が起こったのか、僕が何を起こしたのか、その結果だけが流れ込み理解できてしまう。


 眷属剥奪という名の通り、僕は騨漣兄さんの眷属を剥奪した。奪い取った。


 そう、因幡咲華は僕の眷属になってしまったのだ。



「ぼ、僕はなんてことを……」



 震える両手で顔を覆う。


 どうやったのか不明。過程は全くわからない。


 脳に直接注ぎ込まれた真実に、僕は愕然とした。



「愚弟がこんな高等屍術を――くっ!」



 剥奪された眷属による報復を恐れたのだろう。騨漣兄さんは踵を返して、逃げるように体育館裏からいなくなった。



「……なんか先輩いなくなっちゃった、ね?」



 困惑を隠せない因幡さんは助けを求めるように僕を見る。



「ぜ、全然わかんにゃいな~? あ、もしかして私エッチなことされたとか~? アハハハ、なーんちゃって~」



「あ……ああ……」



 僕はなんてことをしたんだ。早く因幡さんを人間にしないと。眷属をやめさせないと。生き返らせないと。でも、どうやって? 何をすれば因幡さんは眷属じゃなくなるんだ?


 眷属になった因幡さんを人間に戻す方法。


 そんなのあるのか?



「ああああああッ!」



 僕は状況を理解できない因幡さんを放ってこの場から逃げ出した。



「い、威乃座君!?」



 呼び止められるが、ここで振り返るなら最初から逃げ出さない。


 眷属になってしまった因幡さんを置いて、全力疾走で体育館裏から離れる。教室にある鞄も回収せず、そのまま学校を出て行った。


 途中、無我夢中で走ったせいで息切れして身体が動かなくなり、誰もいない道路にバタリと寝転がる。



「うわああああああああああああああッ!」



 蝕んでいく罪の意識に堪えきれず、僕は悲鳴を上げた。



「あああああああああああああああッ!」



 因幡さんは騨漣兄さんの眷属ではなくなった。


 だが、その変わり僕の眷属になってしまった。


 明るくて眩しい憧れの女子を――僕は自身の奴隷に堕としたのだ。



「死ねよッ! 死んじまえよ威乃座璃英! なんで生きてんだよお前はッ!」



 後悔だけが溢れ続ける。


 死ぬ覚悟のない僕は見苦しく叫び続けるしかできなかった。

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