2.うらやましい光景

 快晴の空の下、一間いっけん以上もの高さに有刺鉄線を張り巡らせた、格子状の針金の囲いを見上げる。中に敷かれた芝生は晴れやかにその緑を見せつけ、体格の良い兵士が大きな自動車を走らせている。

「ブン、どうした?」

 僕は囲いの向こうの哨兵しょうへいに見とれていた。

「……もう、戦争にはならない、よね」

「どうだろうな。アメリカさんのことはわかんねえよ。さ、次行くぞ」

 歩き出した行商のじいさんの後ろに付いて、本を運ぶリヤカーをごろごろと転がす。

「しかし日本語の勉強をしたいから本を売ってくれなんて、ずいぶん殊勝なことで」

「漢字、難しいのに」

「おかげで仕事が入るんだがな」

「うん」と返答し、リヤカーを引っ張る手に力を込める。

 僕はもう気付いている。男のくせに、おねえさんたちの肌を見ても何とも思わないのに、格好いい兵士やきれいな顔立ちの少年のことは目で追ってしまうのだ。きっと僕は、女の子と恋をすることはできない。アメリカさんと連れ立って歩いているおねえさんたちがうらやましいくらいなのだから。

「ちょっと坂があるから、がんばれよ」

「平気だよ、あんな坂くらい」

「ははっ、ブンは頼もしいな」

 からりと笑うじいさんを真っ直ぐ見ることができなくて、僕は下を向いた。


 ◇


「母さん、千代さん最近来てる?」

「そういえば見ないね」

「オンリーになれるかも」と言っていたのに、駄目だったのだろうか。オンリーは一回限りではなく愛人としての継続契約だから、もしなれればかなり良い暮らしを送ることができるのだけれど。

「アメリカさんだけじゃないから、客は」

 女の色気に当てられることがないからか、僕はおねえさんたちにとてもかわいがってもらっていた。中でも千代さんは別格で、「早く大きくなんなよ」と大きな洋菓子をいくつも持ってきてくれたこともあった。

「幸せになっていたらいいな」

「大丈夫だろう、あの子は頭も器量もいいんだ」

「そうだね」

 そんな会話をした数日後、僕と母さんは千代さんが殺されたことを知った。小学校の裏の林で死体が見つかったそうだ。数々の暴力を受けた跡があったと、近所の人が言っていた。呆然とする僕に、母さんは言った。「正義感の強い子だったから」と。

「先月、地主の清田きよたさんの家で葬式があっただろう」

「え、うん」

「通夜の鯨幕くじらまく……白黒の幕にね、アメリカさんが小便をひっかけたんだって」

「……えっ?」

「けらけら笑いながらやったらしいよ。子供の耳には入れないようにしていたんだが……。文昭ももうすぐ十五だ、知っておくといい。そういうひどいことを、アメリカさんたちは平気ですることもある。でも、おねえさんたちが一緒だと柔らかく止めたりするんだ」

「そうなんだ……」

「止められてやめる人ならいいけど。そうじゃないと、ぶたれることもあるそうだよ。あの子も、もしかしたら」

 母さんの話はそこで止まった。

「……それでも……、まさか、死ぬ、なんて」

 僕の言葉は、最後のほうが涙に負けてしまった。


 近所の人があとで教えてくれた話によると、母さんの予想は当たっていた。アメリカさんが野球のバットを振り回しながら逃げるお婆さんを追いかけていたところに、千代さんが現れて「そんな婆さんなんかよりさ、あたしと遊ばない?」と言ったとか。

 町の噂になっているから知ることができたけれど、新聞記事には載らなかった。死体は米軍が処理したらしい。

「千代は、いい子だった」

 母さんがぽつりとこぼした言葉が、僕の心に重く沈んでいった。

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