【009】震える決意

 カイゼルの意外な言葉に、ミノンドロスと呼ばれた赤い鎧の魔族が叫んだ。


「なりません閣下! この砦の食料は次の補給が来るまでの備蓄にございますわ! このような流浪の民に分け与える余裕は――!」


「ならば次の補給はいつだ? この要塞にはあとどれだけの食料が残っている」


 まるで彼女の言葉を遮るように、カイゼルはそう聞き返した。すると後ろに控えていた兵士たちからの報告を受けて、ミノンドロスは渋々と答えた。


「――最短で四日後。食料は……この要塞の者たちが、一〇日は飢えない程度には」


 彼女の答えに満足したように「ならば十分だな」と頷き返したカイゼルは、再びセルジドールに向き直って告げた。


「そういうわけだセルジドール殿。君たちの同胞の分も合わせて食事を用意させる。詫び、というには足りないかもしれないがせめてもの誠意だ。構わないな?」


 その時セルジドールの目には、カイゼルが笑ったように見えた。


 ――ああ、ここでもか。


 セルジドールの胸中に、再び酷い落胆の色が浮かぶ。


 もしここで彼の申し出を受け入れて、感謝いたします閣下と喜びの涙を流せたなら、どれだけこの心が救われたことだろう。


 しかしセルジドールには、そんな真似は出来なかった。それが何を意味するのか――カイゼルが一体何を望んでいるのかは、誰の目にも明らかだったからだ。


 彼の者はきっと、食事と引き換えに女たちを求めてくるのだろう。それも、同胞の中でも特に見目美しい女たちを。


「ッ……」


 その光景が脳裏に浮かび、思わず表情が歪む。


 これまでにも同じようなことは幾度もあった。時には日々の糧を得るために、女たちに身体を売るような真似をさせたこともある。


 もちろん女だけではない。男たちを無謀な狩りに送り出し、数を減らし、傷だらけとなった彼らと共に僅かな肉を貪るように食ったことさえある。


 そうして何かを犠牲にしながら、それでも、僅かでも、皆が生きられる選択を探り出しながらセルジドールたちはここまで食い繋いできたのだ。


 だが、今回は勝手が違う。


 相手はあのカイゼル。差し出した女が無事に帰ってくるとは到底思えない。それは文字通り、同胞を売るという意味に等しい。


 これまでは皆で生きるための苦渋の決断だったものが、今回だけは明確に、同胞の誰かを切り捨てる選択になる。


 その事実がただ、受け入れ難い。


「……セルジドール様、提案を呑みましょう」


 セルジドールの隣で同じように跪く男、補佐のザプマが全てを諦めたように力無く呟いた。


「ザプマ……! その意味がわかっているのか……! 私に……私に同胞を売れと言うのか……!」


 他の者たちには聞こえないような、しかししっかりと怒りを孕んだ声音。しかしそれを聞いてもなお、ザプマは何も言わなかった。


 ザプマとてわかっているのだ。それがどんな意味を持つのかくらい。それでもセルジドールは言わずにはいられなかった。


「この魔界に、もはや我らミルドの味方はいない……! 我らが同胞を裏切れば、一体誰がミルドを救うのだ……!」


 絞り出すように紡いだその言葉に、しかしザプマは涙声で応えた。


「ですが……ですが子供もいるのです……! 年端も行かぬ幼子が、出もしない母の乳を必死に吸っているのです……! あの者たちにもミルドの誇りに殉じろと仰るのですか……! ならばあの者たちは、一体何のために生まれたのです……! ろくに食えぬ、ろくに眠れぬ、そんな生き地獄を味わうためなのですか……!」


「……ッ!」


 セルジドールは、彼に言い返すための言葉を持ち合わせてなどいなかった。


 ザプマの言う通りだ。


 先日合流したばかりの者たちの中には、未だ年端も行かぬ幼子が居た。物心がついたばかりの子供たちが居た。そんな子供たちさえも今この瞬間、飢えに苦しみ命を落とそうとしている。


 誇りのために諸共死ぬか。或いは、同胞の一部を売って残りが生きるか。これはそういう類の選択なのだ。


 セルジドールが選ぼうとしている道は、子供たちに誇りに殉じろと、同胞を差し出す代わりにお前たちの命を自ら差し出せと、そう命じているのと同じことだ。


 そんなこと、果たして自分にできると言うのか。


 ミルドの難民たち、その若き長は岐路に立たされていた。


「セルジドール様……どうか、私たちをお使いください」


 ザプマとは反対側から、今度は女の声がした。ハッとして振り向くと、そこには年若い同胞の姿。長い髪に美しい灰色の肌。典型的なミルドの特徴を宿す彼女は、先日合流した者たちの一人だ。


 名は確か……ニニトゥーラ。


 彼女はセルジドールの迷いを知りながらも、その瞳に意思を宿して続けた。


「男たちが戦場で死ぬ中、私たちは慰み者とされ、それでも卑しく生きながらえました。ならばせめて、この身を同胞のために使いたいのです」


 それはあまりに悲痛な覚悟だった。

 

 歳は未だ四〇ほどにしか見えない少女に、これほどまで悲壮な覚悟をさせてしまっている。その事実があまりに情けなかった。


 到底受け入れ難い提案に、セルジドールは力を込めた。


「ならん……! ただでさえ心身を傷つけられた君たちを売るような真似、出来るわけが……!」


 しかし彼女の意志は揺るがない。


「私たちも戦いたいのです。セルジドール様や他の者たちがそうであるように、他でも無い同胞達のために。これが……私たちの戦いです」


「……ッ……!」


 彼女の村の男たちは、女子供を守るために自ら戦いに赴いて死んだ。


 そして今、彼女は彼らに続こうとしている。


 止めなければならない。辞めさせなければならない。だと言うのに、今のセルジドールはその方法を持っていない。


 最も知識を有しているからと、同胞たちから長の座に推挙されたセルジドールは、しかしその同胞を救う術一つ持ち合わせていないのだ。


 それがあまりに無力で、あまりに情けなかった。


「どうした、セルジドール殿?」


 カイゼルが問う。もはや、猶予は残されていなかった。


「……」


 セルジドールの口元に、つっと赤い筋が落ちる。噛み締めた唇から、じんわりと鉄の味が広がった。


 国がないとはこれほどまでに無力なことなのか。


 力がないとはこれほどまでに惨めなことなのか。


 握り締めた拳を諦めたようにゆっくりと解いて、セルジドールは、震える声を喉から絞り出した。


「カイゼル様のお申し出を、謹んで……謹んでお受けさせて頂きます……」


 ――この日、セルジドールは女たちの命と引き換えに、同胞三三二名を救う道を選んだ。


 礼を言わなかったのはせめてもの矜持だ。かくも卑劣なる下郎如きに、礼など言ってなるものか。


 忘れるものか、この日の屈辱を。

 忘れるものか、この日の痛みを。


「よろしい。ならば食事としよう」


 この日確かに、ミルドの民は救われる。彼らの中の、取り返しのつかない何かを引き換えにして。


 そんな彼らの姿を、カイゼルは冷たく嘲笑っているようだった。

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