あなたに捧げる黄色の花束
槙野 光
前編
俺の大好きな人の、大好きなところ。
いつも俺の目を見て、俺の話を聞いてくれるところ。笑うと笑窪ができるところ。誤魔化すのが下手で、照れるとコーヒーを飲むところ。甘いものが苦手なのに、俺の為にハニーミルクを作ってくれるところ。
タケさんの大好きなところは、まだまだいっぱいある。でも、タケさんは少し臆病なんだ。言っても良いのかな、やっても良いのかなって時々迷ってる。多分石橋を叩く前に立ち止まって、周囲をよく確認するタイプなんだと思う。もっと楽にすれば良いのになってたまに思う。でもね、俺タケさんの不器用なところも大好きなんだ。
ねえ、タケさん。タケさんと出逢って俺がどんなに救われたか、どんなに感謝してるか、タケさんは知らないでしょ。タケさんが俺を見つけてくれたから、俺は今も笑っていられるんだよ? そんな事を言ったらタケさんは照れて、誤魔化すようにコーヒーを飲むんだろうけど……。
ねえ、俺今でも鮮明に覚えてるんだ。タケさんと出逢ったあの日のこと。
三年前の七夕の、光り輝くあの雨の日のことを――。
◇
幼稚園生の俺は、三つ上の兄さんとソファに横並びになって、アンのパンのマーチのアニメをよく観ていた。
兄さんは俺に付き合ってくれていただけなんだけど、俺は格好よくて優しい正義のヒーローと、勇気をもらえる軽快な主題歌が大好きだった。
いつもは黙って観たり聴いたりしているけど、その日はテレビから流れる音楽と一緒に歌いたくなって、身体を左右に揺らしながら口ずさんでいた。兄さんは「上手だな」って優しく笑って聴いてくれた。でも、母さんは違ったんだ。
「やめて。下手な歌なんて聞きたくない」
突然放たれた怜悧な声に、ぴたっと口を閉じた。キッチンを見ると、母さんの後ろ姿が見えた。
白を基調とした小花柄のワンピースを纏ったその背中は華奢で、でも曲がることを知らない整然とした立ち姿だった。
母さんがどんな顔をしていたかは分からない。だって母さんは決して振り向いてくれなかったから。でも、温度のないその声は、俺の喉から容赦なく音楽を奪ったんだ。
その日を境に、俺は歌を歌わなくなった。
母さんは、絶対音感ってやつを持っていた。家でピアノ教室を開いていて、昔は音大に通ってプロを目指していたって、兄さんから聞いたことがある。
母さんが弾くピアノの音。母さんがセレクトしたクラシック曲。
俺の家は、毎日音楽で溢れていた。母さんは多分、音楽をこよなく愛していたんだと思う。でも、俺は何でもそつなくこなす兄さんとは違って何をやっても劣っていて、音楽からは特にそっぽを向かれていたから。だから、母さんは俺のことが分からないみたいだった。
――ねえ、知ってる? 透明ってね、どんなに色を重ねても透けたままなんだよ。
だから、俺がどんなに心の中で叫んでも母さんの瞳が染まることはなかった。俺に向ける眼差しは透明なまま、鮮やかな色には決してならなかったんだ。
一方、父さんは寡黙な人だった。でも、その眼差しは母さんを愛していた。
俺を気にかけてくれるのは、兄さんだけだった。でも、兄さんは兄さんで自分の世界がちゃんとあって、俺は兄さんの一番にもなれなかった。だから俺は、自分の居場所を守る為に母さんの手料理を美味しい美味しいって大袈裟なぐらい喜んで食べて、いつもにこにこ笑って傷付いてないふりをした。不思議だね。そうしたらいつの間にか、笑うのが癖になっていたんだ。
朝起きて覗き込んだ鏡の中は、物も動作もあべこべだった。鏡の中の俺はへらへらと笑っていて、何にも知らない真っ新な顔をしていた。だから俺、良いなって。鏡の中に行きたいなって何度も思ったんだ。でも、どんなに願っても叶わなかった。
そんな時、高校の先輩から告白をされた。
俺は高校二年生で、先輩は高校三年生。その日は二月十四日、バレンタインだった。
屋上へと続く、階段の踊り場。向かい合った先輩は俺と同じ男の人で、肩幅が広くて体躯が良かった。今年の夏頃までは柔道部に藉を置いていて主将だったんだって後から先輩が話してくれた。
その時の俺は先輩のことを知らなかったし、同性を好きになるってことが、こんな身近にあるんだってひどく驚いた。でもそれだけで、嫌悪感は別になかったんだ。
先輩は俺に「好きだ」って言ってくれた。笑った顔が可愛くて癒されるって言って顔を真っ赤に染めた。微かに震える両手の指で綺麗にラッピングされたチョコの箱を差し出して、俺にもう一度「好きだ」って言ってくれたんだ。
冬の踊り場はね、全身が軋むほど冷えていたんだよ。でも、不思議と寒いとは思わなかった。だって誰かに好きだって言われるのは、初めてだったから。
俺、誰かの一番になれるのが嬉しくて、好きでもないのに「良いよ」って言ったんだ。その瞬間、先輩は拳を掲げて「やったー!」って声を張り上げて顔いっぱいに笑った。びっくりして、でも先輩の喜ぶ顔を見ていたらこれで良かったんだって、きっとこの人を好きになれるんだって、その時は本気で思ったんだ。
ねえ、俺馬鹿だからさ。人の気持ちは願いだけじゃどうにもならないんだって、知らなかったんだ。
だから、間違えた。俺は傲慢だったんだ。
俺は、俺を好きになってくれた優しいこの人を――深く、傷付けた。
三年生は自由登校だけど、先輩は柔道の推薦で体育大学に入ることが決まっていた。だから柔道の練習という名目で部室によく顔を出しては、後輩の指導をしていた。先輩は面倒見が良くて、皆から慕われていた。
後輩に囲まれている先輩を見て、なんで俺なんかってそう思った。先輩が見ている俺の笑顔は作り物なんだよって何度も言い掛けた。でも、先輩がにこにこ笑っていたから。だから、何も言えなかった。
放課後になると、俺と先輩は人目につかない踊り場で過ごすようになった。先輩は優しくて、俺を常に気遣ってくれた。でも、もうそろそろ卒業だっていう頃、沈黙が割り込んだ。いつもあれやこれや楽しげに話し続けるのに珍しいなって思ってたら、「……ユヅル」って突然、先輩に両肩を掴まれた。そして戸惑う間もなく顔が近付いてきたんだ。でも、知らない吐息が唇を掠めたその瞬間、背筋に得体の知れない何かが駆け上ってきて、違う! 嫌だ! って頭が大パニックになった。
気が付いた時には、「やめて!」って先輩を両手で突き飛ばしていたんだ。
先輩の体躯は俺よりも一回りも二回りも大きかった。でも、先輩は簡単に尻餅をついて、呆然とした顔で俺を見上げた。
俺は浅く肩で息をする。先輩は息を呑んで、後ろ手に身体を持ち上げゆっくりと立ち上がった。そして俺に一歩近づき、唇を微かに動かした。
先輩は多分「ユヅル」って、俺の名前を呼ぼうとしてくれたんだと思う。でも、俺の身体が反射的に震えを帯びたから、先輩はぴたっと足を止めた。
徐々に顔色を失っていく先輩に、俺ははっとした。嫌じゃない。ごめん、びっくりしただけなんだ。そう口にしようと唇を上下に開く。でも、舌の上を滑っていったのは言葉じゃなくて……。微かに濁っていく空気に目を伏せ再び顔を上げると、先輩の顔はひどく歪んでいた。そして身体の横に下ろした両手を握り締めると、先輩は静かに階段を降りていったんだ。
「もう、分かった……」
たった一言、その言葉だけを俺の耳に残して。
先輩の声は、感情をこそげ落としたみたいに平坦だった。胸を抉るような痛みが、ずきずきといつまでも熱を持つ。
先輩はよく笑う人だった。でも最後に焼き付いた先輩の表情に、笑顔なんて一欠片もなかったんだ。
だから、罰が当たったのかな。
俺が同性を好きだっていう噂がクラス中に広まったのは、その翌日だった。出所は先輩を慕う一年生の後輩部員で、その子の妹は母さんの生徒だった。
「――ユヅル、あなた同性が好きなのね」
母さんは一方的にそう言って、俺の顔を一切見なくなった。
その時、瞳に映らない透明がもっと透けることができるんだって、初めて知ったんだ。
変わったのは、母さんだけじゃなかった。唯一俺を気に掛けてくれていた兄さんまで俺を避けるようになった。家で時折すれ違っても痛まし気に目を細めるだけで、俺に声を掛けることはなかった。俺も兄さんに声を掛ける勇気はなくて、だから俺と兄さんの距離は自然と離れていった。
唯一、父さんだけは変わらなかった。でも、元々俺に無関心な人だから、父さんは「大人になりなさい」って言って振り向いてもくれなかった。
家も学校も息苦しくて、その内、鏡に映る自分の顔が歪んで見えるようになった。だから俺、高校卒業と同時に家を出たんだ。でも、高校を卒業したばかりで家族の後ろ盾がない俺に、世間は厳しかった。
しばらくは短期バイトで食い繋いだ。ネットカフェに泊まったり、お財布が軽くなってきたら公園で夜を明かしたりもした。初めは右も左も分からなくて生きることで精一杯だった。でも、一年も経つと薄寂れた生活にも慣れてきて、ある日、現実が一気に押し寄せてきた。
いつまで、このままなんだろう。もしかしてずっとこうなのかな……。
身体も心も段々と重くなってきて、からからと乾いた音が心の奥で響く。感情が暗がりに紛れていき――そんな時、その頃足繁く通っていた定食屋のおばあちゃんが住み込みでバイトをしないかって声を掛けてくれたんだ。
目を丸くして、「俺、不器用だよ?」って咄嗟に言うと、「初めはみんなペーペーだよ」って豪快に笑い飛ばしてくれた。平均身長に若干満たない俺よりも、もっともっと小さなおばあちゃん。でもその心はきっと、その時出会った誰よりも大きかったんだ。
『定食屋 うめ』は、L字型カウンター席がひとつしかない昔ながらの小ぢんまりとしたお店だった。小洒落た装飾もないし、ミシュランに載るような洗練された味でもない。決してバズったりはしない料理だけど、おばあちゃんの太陽みたいに明るい人柄と沁み入る手料理は町の人に愛されていて、店内はいつも満席だった。
おばあちゃんは元々旦那さんとふたりでお店を切り盛りをしていたらしいんだけど、一年前――俺がちょうど家を出た頃――病気で亡くなってしまったんだって細めた目を和らげて言った。
しばらくは何も気力が湧かなくてこのままシャッターを下ろそうとしていたらしいんだけど、でも、町の人から「待ってるよ」って幾度も声を掛けられて、勇気付けられたおばあちゃんはお店を再開することにしたんだって。でも、ふたりで回していたお店をひとりで回すには流石に無理があって困っていて。そんな時、あんたを見つけたんだっておばあちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。
「ユヅルちゃんが来て、わたしは本当に助かったんだよ」と言うのがおばあちゃんの口癖で、俺、それが嬉しくて嬉しくて、おばあちゃんの役に立ちたい、もっと早く仕事を覚えたいって必死だった。でも、俺には音楽どころか料理の才能もなかった。空回りしてばかりで、それでもおばあちゃんは俺のことを優しく見守ってくれた。だから俺、皿洗いをしたり料理を運んだり、自分にできることをしようと思ったんだ。すると次第にできることが増えていって、おばあちゃんはその度に、「ユヅルちゃんすごいね、ありがとう」って言ってくれた。
「俺、おばあちゃんの家の子になりたかったな」
俺がそう溢すとおばあちゃんは声を上げて笑って、眦に滲んだ涙を指で拭って目元を柔らげた。
「ユヅルちゃんにもいつか、ユヅルちゃんだけを見てくれる人が現れるよ。お天道様はたまに意地悪だけど、頑張っている人のことは見捨てない。この人の隣にいるだけで幸せだって思えるようなそんな人に、いつか出逢えるよ」
おばあちゃんのその言葉は、俺の胸に強く響いた。頷いて、そうだったら良いなって心から思ったんだ。でも、六年目を迎えたある日。突然、おばあちゃんが腰を悪くして入院することになった。
おばあちゃんは「わたしがいない間も家にいて良いんだからね。元気になったらまた店を開けるからね」て何度も言ってくれた。でも、駆け付けた娘さんの大粒の涙を見て、おばあちゃんは悩んだ末にお店を畳んで遠方にいる娘さん夫婦のところに身を寄せることになった。
おばあちゃんは、俺のことをとても心配して「一緒に来るかい?」って最後まで繰り返し訊いてくれた。でも、赤の他人の俺が誰かの家族の輪の中に入るなんて勇気はなくて。だから俺いつもみたいに笑って、澄み切った空の下、店の前に停まった空色のコンパクトカーの前でおばあちゃんを見送ったんだ。
「ユヅルちゃん。辛くたって悲しくたって、お天道様はユヅルちゃんのことをちゃんと見てるからね。もしお天道様のことが信じられなくても、老いぼれたこのばばあのことなら信じられるだろ? ユヅルちゃんはきっと、大丈夫だ」
おばあちゃんは、娘さん夫婦に背中を支えてもらいながら立っていた。でもその声は弱った身体を感じさせなぐらいとても力強くて、瞬きの間に涙が滲み出そうになった。でも俺、おばあちゃんを心配させたくなかったから。だから、必死に我慢して何度も頷いたんだ。
おばあちゃんは後部座席に乗り込むと窓を開けて、「いつか遊びにおいで」って笑ってそう言ってくれたんだ。
おばあちゃんと別れたその日から、俺はまたひとりぼっちになった。でも、前とは違う。俺にはできることが増えたし、初めは皆ぺーぺーなんだっておばあちゃんが教えてくれたから。だからおばあちゃんの言葉を思い出しながら、新しい場所を必死に見つけようとした。
でも、外は凍てつくほど寒かったんだ。
おばあちゃんのところが春みたいに暖かったから忘れていたけど、世間は他人に無関心だし、皆自分のことで精一杯だ。おばあちゃんみたいに人情味に溢れた人のほうが珍しいんだって、そこでやっと思い出した。
おばあちゃんと過ごした日々がすり減っていく。心の奥の方でざりざりと乾いた音が聞こるような、そんな気がした。
「――ゆづ?」
そんな時、従兄弟の
根掘り葉掘り訊かれて焦燥し切った俺を見て、蒼兄ちゃんは「部屋が空いてるから、俺のとこに来れば?」ってぽんっと湧き出たように軽い口調で言った。
俺は自分の耳を疑って、すぐに逡巡した。三つ上の蒼兄ちゃんは昔から、俺より兄さんと仲が良い。でも、今更家族の縁が結び直せるとは楽観的にはなれない。だから、初めは断ろうとした。でも、蒼兄ちゃんが「逃げたら、
蒼兄ちゃんは気まぐれで強引な部分があるし普段から針鼠みたいにツンケンしているけど、本当はとても優しい人なんだ。だから俺、蒼兄ちゃんのところで暮らすの、嫌じゃなかったんだ。
蒼兄ちゃんは音楽関係の仕事をしていて、いつもとても忙しそうだった。近所のスーパーでバイトを始めた俺とはほとんどすれ違い生活で、でもたまにシュークリームとかケーキとか買ってきてくれて、休みが重なると洋食屋さんやお寿司屋さんに連れて行ってくれた。でも、三年前の七月七日。朝起きると蒼兄ちゃんが突然「恋人ができたから出てけ」って苛ついた口調で言った。
俺、驚かなかった。心の何処かでこうなることが分かっていたんだ。
蒼兄ちゃんは数日前から、心ここに在らずだった。まるで落とし物をして彷徨っているような、そう、迷子の子どもみたいな顔をするようになった。
七夕を明日に控え、いつもは起きない時間に目が覚めた。寝返りを打っても眠れなくて仕方なく部屋の扉を開けると、スマホを耳にあてた蒼兄ちゃんの姿が見えた。
「何でだよ! 何で俺じゃだめなんだよっ」
蒼兄ちゃんの叫び声は悲鳴を上げているように鋭くて言葉以上に痛かった。そして肩で息をするその姿は、胸を抉るようにひどく辛そうだった。
俺は部屋の扉をそっと閉めてベッドに上がった。そして頭まで布団を被って、身体をゆっくりと丸めた。
そういえば針鼠は繊細なんだって、どこかで誰かが言ってたっけ。蒼兄ちゃんが針鼠なら、俺は一体何者になれるんだろう。
考えたけど答えは見つからなくて、タイムリミットはやってきた。
蒼兄ちゃんのそれは多分ただの八つ当たりで、俺が出て行きたくないって言えば、むすっとした顔をしながらぶっきらぼうに頷いてくれたんだと思う。でも、俺の心が蒼兄ちゃんで埋まらないように、蒼兄ちゃんの心を埋める人も俺じゃないって分かっていたから。だから、そのまま蒼兄ちゃんの家を出た。
蒼兄ちゃんは、俺が本当に出ていくとは思わなかったみたいで、俺が少ない荷物をリュックに詰め込んでる時も、リュック背負って玄関の三和土に立った時も当惑したような顔をして近くに立っていた。でも、言ってしまった手前、簡単に撤回できないって顔をしていた。その瞳は、本当に止めなくて良いのかって揺れていた。
俺がこのまま出て行ったら、蒼兄ちゃんは後で自分を責めるかもしれないって何となく分かっていた。でも俺がいたら蒼兄ちゃんは好きな人のところに行けないから、蒼兄ちゃんはそういう人だから。だから――。
「……元気でね」
蒼兄ちゃんが目を見張って、手を伸ばす。俺の名前が扉の向こうに消えていく。でも、俺は振り返らなかった。
行くところなんて、もうなかったけど。
ホームに滑り込んできた電車に、行き先も見ずに乗り込んだ。適当なところで乗り換えて、またゆらゆらと揺れる。しばらくそうしているとお腹が空いてきて、朝から飲まず食わずだったことにその時初めて気が付いた。意識をするとお腹の虫は数を増していった。あまりにも賑やかだから恥ずかしくなって、初めましての駅で電車を降りたんだ。
改札を抜けて二階建ての小ぢんまりとした駅ビルを覗くと、Mの看板を掲げるハンバーガーショップがあった。
他にもカフェやレストランがあったけどお財布が心配で、比較的安価なハンバーガーショップに足を踏み入れた。時計の短針は天辺をとうに過ぎていたけれど、店内は思いの外賑わっていた。きょろきょろ辺りを見回して入り口の右側、奥の方。カウンター席の端っこにリュックの中から取り出した文庫本を置く。
注文をしたのは、一番安いハンバーガーとSサイズのポテトとお水。お水を一口飲んで、ハンバーガーの包み紙を剥がすと、チーズも何もない薄いバンズとパティが現れた。一口食べてガラス越しに外を眺めると、そこには知らない景色が広がっていた。
百円均一のピンク色の看板。見知らぬスーパーの名前。
都心から大分離れたこの町には、大型商業施設はなくて大分質素だった。でも、ロータリーでバスを待つ人も足早に歩く人も、皆どこか軽やかな表情をしているように見えたんだ。
窓ガラスをすり抜けて薄らと響く楽しげな笑い声。色鮮やかな店内。窓ガラスに映る自分の顔だけが歪で、胸の奥がぎゅうって苦しくなった。
あんなに五月蝿かった腹の虫は今はもうなくて。空いていた筈のお腹が急に小さくなったみたいだった。もそもそと口にしたハンバーガーは砂を噛んでいるみたいで、トレーの上を空にする頃には空は鼠色に染まっていたんだ。
食べ終え、返却口に緑色のトレーを戻して逃げるように店を出ると苔蒸したような湿った匂いがぶわっと鼻腔に纏わりついた。
馴染みのある雨の香りに、重く沈んだ空の色。
傘なんて持ってなかったけど、今は此処にいたくなかった。だから駅ビルの階段を駆け降りて、色鮮やかな花屋の前を通り過ぎ住宅地に逃げ込んだ。
当てどもなく息を切らして走ると空っぽ同然のリュックがとても重く感じて、途中息苦しくなって立ち止まると後ろ肩に誰かの肩がぶつかって「ばかやろう」ってすれ違い様に怒鳴られた。それにびっくりして走るのを止めて歩き出すと、今度は石に躓いてすっ転んで。
何だか全てが悪い方向に向かっている気がして、蒼兄ちゃんのところに戻りたいって心の中で弱音が溢れた。でも、今更そんなのできなかった。
だからかぶりを振って、また逃げるように走り出したんだ。
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