●第3章:揺れる想いの季節

 梅雨が明け、急に強い日差しが照りつける季節となった。オフィスの中は冷房が効いているものの、窓の外では照り返しが強く、アスファルトが融けそうな暑さだった。


「結城さん、この企画についてご相談があるのですが」


 颯真が彩花のデスクを訪れたのは、そんな暑い午後のことだった。新人研修は終わり、颯真は正式に彩花のチームに配属されていた。


「ええ、どんなことかしら?」


 颯真が差し出した企画書に目を通しながら、彩花は密かに彼の成長を感じていた。研修時よりも更に洗練された提案内容。そして、その説明する姿勢にも、以前より自信が感じられる。


「この市場調査の方法について、もう少し掘り下げてみたいんです」


 颯真の真摯な眼差しに、彩花は思わず見入ってしまう。彼の瞳には、いつも誠実さと情熱が宿っていた。


「なるほど。確かにその視点は重要ね」


 二人で企画内容を詰めていく中で、彩花は自分の心が少しずつ変化していることを感じていた。颯真との距離が近づくにつれ、彼女の中の壁が、少しずつ崩れていくような感覚。


 それは、怖くもあり、心地よくもあった。


「結城さん、もしよろしければ」


 打ち合わせが終わりに近づいた頃、颯真が声をかけてきた。


「今度の休日、美術館で面白い企画展があるんです。その内容が、今回の企画にも参考になりそうで……」


 颯真の言葉に、彩花は一瞬、心臓が止まったような感覚を覚えた。これは、単なる仕事の延長なのか。それとも……。


「良かったら、一緒に見に行きませんか?」


 その瞬間、彩花の頭の中で、様々な思いが交錯した。十歳という年齢差。会社での立場。そして、自分の過去のトラウマ。全てが、彼女の心を躊躇わせる。


 しかし、颯真の瞳に映る真摯な想いは、そんな彼女の不安を少しずつ溶かしていくようだった。


「……そうね。参考になりそうなら」


 返事をする自分の声が、少し震えているのに気づく。けれど、颯真の満面の笑顔を見た時、その決断は間違っていなかったと確信できた。


 休日の美術館。彩花は久しぶりに、普段とは違うコーディネートに身を包んでいた。ネイビーのワンピースに、白のカーディガン。普段のスーツ姿とは違う、柔らかな雰囲気を醸し出している。


「結城さん、お待たせしました」


 美術館の入り口で颯真と出会う。彼もまた、仕事場とは違う、カジュアルながらも品のある装いだった。


「これでも迷ったんですよ。結城さんと会うのが、仕事以外で初めてだから」


 颯真の屈託のない笑顔に、彩花は思わず心が温かくなる。


「私もよ。どんな服を着ていこうか、考えてしまって」


 その言葉を口にした瞬間、彩花は自分の素直さに驚いた。普段なら決して見せない弱さを、颯真の前では自然と見せてしまう。


 美術館の中は、休日にも関わらず穏やかな空気が流れていた。企画展のテーマは「都市と人間」。現代アートを通じて、都会に生きる人々の孤独や繋がりを表現した作品が並ぶ。


「この作品、面白いですね」


 颯真が足を止めたのは、無数の光の粒子で都市の夜景を表現したインスタレーション作品の前だった。


「確かに。光の強弱で人々の営みを表現しているのね」


 彩花は作品に見入りながら答える。


「これ、僕たちの広告キャンペーンにも活かせそうです。都市の中で孤立しがちな現代人に、温かな繋がりを提案するような」


 颯真の視点は、いつも鋭い。彩花は密かに感心しながら頷いた。


「神崎くんって、本当に観察力があるわね」


「えっ?」


 突然の褒め言葉に、颯真は少し照れたような表情を見せる。普段の凛とした姿からは想像できない、その仕草に彩花は思わず微笑んだ。


「実は僕、中学生の頃から写真を撮るのが趣味なんです」


「写真?」


「ええ。街の何気ない瞬間を切り取るのが好きで。特に、人々の表情とか、仕草とか」


 颯真がスマートフォンを取り出し、自分で撮影した写真を見せてくれる。雨上がりの通りで傘を畳む少女、カフェで本を読む老人、公園で子供を抱き上げる父親。どの一枚にも、確かな温かみが宿っていた。


「素敵な写真ね。私には見えていなかった日常の輝きが、ちゃんと捉えられている」


 その言葉に、颯真は嬉しそうな表情を浮かべた。


「結城さんは、休日はどんなことをするんですか?」


 次の展示室に移りながら、颯真が尋ねる。


「そうね……」


 彩花は少し考え込んでから答えた。


「最近は仕事に追われてばかりだけど、本当は古い映画を観るのが好きなの。特に松本清張原作の推理ドラマとか」


「へえ、意外です」


「意外?」


「いえ、結城さんってもっと……その、モダンな趣味をお持ちかと」


 言葉を選びながら話す颯真の様子に、彩花は思わず笑みがこぼれた。


「私だって、たまにはノスタルジックになりたい時もあるのよ」


 そう言って彩花は、ふと足を止めた。目の前には、古びた家具と、そこに投影される現代的な映像が融合したアート作品が展示されている。


「昔と今が混ざり合って、新しい何かを生み出している……」


 彩花の呟きに、颯真が静かに応える。


「人も、そうかもしれませんね。過去の経験と、今の想いが重なって」


 その言葉に、彩花は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。颯真の言葉には、彼女の心の奥底に触れるような何かがあった。


「結城さん、実は僕……」


 颯真が何か言いかけた時、別の来館者のグループが近づいてきた。二人は自然と歩を進める。言葉にならなかった想いは、その場の空気に溶けていった。


 しかし、その後も二人の会話は続く。仕事の話から、次第に思い出話へ。学生時代の失敗談や、初めて感動した本の話。そして、それぞれの夢や理想へと。普段は決して見せない素顔を、二人は少しずつ垣間見せ合っていた。


 美術館の時間は、ゆっくりと、しかし確実に流れていく。その時間の中で、二人の距離も、少しずつ縮まっていくのだった。


「結城さんは、どんな時に一番リラックスできますか?」


「そうね……雨の日に、窓際で本を読むのが好きかしら」


「なるほど。それ、結城さんらしいですね」


「らしい?」


「ええ。静かで、でも芯の強さを感じる。まさに結城さんそのものです」


 颯真の言葉に、彩花は思わず顔が熱くなるのを感じた。自分のことを、こんなにも見つめてくれている人がいる。その事実が、彼女の心を大きく揺さぶる。


 美術館を出た後、二人は近くのカフェに立ち寄った。大きな窓から差し込む夕暮れの光が、店内を優しく染めていく。


「結城さん」


 コーヒーを前に、颯真が静かに口を開いた。


「今日は仕事抜きで、ただ彩花さんとお話ししたかったんです」


 突然の一人称の変化に、彩花は息を呑む。颯真の真摯な眼差しには、もう後輩としての遠慮は感じられなかった。そこにあるのは、一人の男性として、彼女を見つめる強い想い。


「私は……」


 言葉が続かない。頭では「ダメよ」と分かっているのに、心は違う答えを求めていた。


「焦らせるつもりはありません」


 颯真は優しく微笑んで続けた。


「ただ、僕の気持ちを知っておいてほしくて。それだけです」


 その言葉に、彩花は複雑な感情を覚えた。拒絶すべきなのに、できない。受け入れるべきなのに、踏み出せない。その狭間で、彼女の心は揺れ続けていた。


 夕暮れの街を、二人は無言で歩く。言葉にできない想いを、それぞれの胸に秘めながら。

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