【大人女子年下恋愛短編小説】春風と恋の距離 ~恋は、歳の差を超えて~(約18,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

●プロローグ:桜舞う出会い

 都心の高層ビル群を染めるように、淡いピンク色の桜が舞っていた。四月の柔らかな風が、オフィス街の通りを優しく吹き抜けていく。


 結城彩花は、今日も早朝からデスクに向かっていた。大手広告代理店「クリエイティブ・ヴィジョン」で、チームリーダーを務める彼女の日課だ。三十五歳という年齢を感じさせない凛とした佇まいで、黒のスーツに身を包んだ彩花は、新入社員研修の資料に目を通していた。


「結城さん、おはようございます」


 いつもより早い出社組の後輩たちが、次々と彩花に挨拶を送る。彼女は柔らかな笑顔で返しながら、画面に映る新入社員たちの顔写真を確認していく。今年は例年以上に優秀な若手が揃ったと人事部から聞いていた。


 そして、その中の一枚の写真で、彩花の指が止まった。


「神崎……颯真」


 凛々しい顔立ちの中にどこか柔らかさを感じさせる青年の写真。経歴欄には、一流大学でマーケティング心理学を専攻し、在学中から複数のベンチャー企業でインターンを経験したことが記されていた。


 時計が午前九時を指す頃、会議室には二十名ほどの新入社員が緊張した面持ちで着席していた。彩花は背筋を伸ばし、年下の後輩たちを前に、颯爽と挨拶を始めた。


「おはようございます。今年度の新人研修担当を務めます、結城彩花です」


 凜とした声が会議室に響く。新入社員たちの瞳が、一斉に彩花に注がれる。その中で、一際印象的な眼差しが彼女の心を捉えた。前列の端に座る神崎颯真。写真で見た印象とは違う、大人びた雰囲気を漂わせていた。


「今日から三週間、皆さんと一緒に過ごすことになります。精一杯サポートさせていただきますので、よろしくお願いします」


 彩花の言葉が終わると、新入社員たちから力強い返事が返ってきた。その中でも、颯真の「よろしくお願いします」という声には、不思議な存在感があった。


 研修が始まり、基礎知識の講義や実践的なワークショップが展開される。颯真は常に的確な質問を投げかけ、課題にも独創的なアプローチで取り組んでいく。彩花は時折、その姿に目を奪われそうになることを自覚していた。


「結城さん」


 昼休憩が始まろうとしていた時、颯真が彩花に声をかけてきた。


「はい、神崎くん。何かお困りのことでも?」


「いえ、午前中の講義の補足について、少しお伺いしたいことがあるのですが……」


 颯真の真摯な眼差しに、彩花は思わず見入ってしまう。二十五歳。十歳の年齢差。けれど、その瞳には同世代の男性たちには見られない、確かな芯の強さが宿っていた。


「もちろんです。どんなことでしょう?」


 彩花が応じると、颯真は一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべた。その表情に、彩花の胸が微かに高鳴る。


「広告のターゲット層の分析について、もう少し詳しくお聞きしたくて」


資料を広げた会議室のテーブルに、春の日差しが斜めに差し込んでいた。彩花は颯真の質問に耳を傾けながら、彼の着眼点の鋭さに内心で感心していた。


「それで、結城さん。この商品のターゲット層について、もう少し掘り下げて考えてみたんです」


 颯真は手元のノートを指さしながら、静かな声で続けた。


「従来の市場調査では、このブランドは30代後半から40代の女性をメインターゲットにしていますよね」


「ええ、そうね」


「でも、私の分析では、実は20代後半の働く女性たちの中にも、大きな潜在需要があると考えています」


 彩花は少し身を乗り出すように姿勢を変えた。


「どういう根拠?」


「SNSでの反応と、実際の購買行動の差異に着目したんです」


 颯真はスマートフォンを取り出し、いくつかのデータを示した。


「この商品に『いいね』をしている層と、実際に購入している層には大きな年齢差があります。つまり、若い世代は商品自体には強い関心を持っているのに、何かが購入の障壁になっているんです」


「なるほど……」


 彩花は思わず顎に手を当てた。確かに、これまでの市場分析ではその視点を見落としていた。


「それで、私なりに分析してみたんです。価格帯というよりも、ブランドイメージやマーケティング戦略が、無意識のうちに若い層を遠ざけているのではないかと」


 颯真は丁寧に、データに基づいた分析結果を説明していく。その論理的な展開に、彩花は次第に引き込まれていった。


「こういった商品の場合、ターゲット層を広げすぎると本来の価値が薄れる危険性もあるわね」


「はい。だからこそ」


 颯真は一瞬考えるような仕草を見せ、続けた。


「コアとなる価値は保ちながら、別ラインでの展開や、コミュニケーション戦略の微調整だけで、新しい層にもアプローチできるのではないかと考えています」


 彩花は思わず感嘆の声を漏らした。


「その発想は面白いわ。確かに、ブランドの本質は変えずに、見せ方を変えるというアプローチなら……」


 二人は熱心に意見を交わし、時には反論し合い、またある時は互いの考えに深く頷きながら、議論を深めていった。会議室の外では、新緑の木々が風に揺れ、その影が窓ガラスに揺らめいている。


「あ」


 彩花が腕時計に目をやった時、既に予定の時間を大きく超えていた。


「ごめんなさい、こんなに時間を取ってしまって」


 颯真が申し訳なさそうに言った。その表情には、しかし、充実感も滲んでいた。


「いいえ、私こそ。でも、とても刺激的な議論だったわ」


 彩花は心からそう思っていた。単なる上司と部下という関係を超えて、一人の専門家として、颯真の意見に深く共感していた。そして同時に、彼の中に自分とは違う、新しい時代の感性も感じ取っていた。


「また機会があれば、お話を伺えませんか?」


 颯真の言葉に、彩花は微笑みながら頷いた。


「ええ、もちろんよ」


 立ち上がる二人の間に、春の陽射しが差し込む。その光の中で、彩花は颯真の横顔を見つめながら、不思議な高揚感を覚えていた。それは、純粋に知的な刺激による興奮なのか、それとも……。その答えを、彼女はまだ知らなかった。


 その日の夕方、彩花は窓際に立ち、舞い散る桜を眺めていた。春の陽射しが、オフィスの窓ガラスに反射して、淡い光の帯を作る。


「新しい季節の始まりね」


 つぶやいた言葉が、自分の心にも染み入るように感じられた。彩花はまだ知らなかった。この春が、彼女の人生を大きく変えていくことになるとは。


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